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1 お知らせ 1-1 イベントのお知らせ

熊本市現代美術館「へるんさんの秘めごと」展のお知らせ(終了)

 展覧会「へるんさんの秘めごと」展は終了しました。

 「小泉八雲 生誕160年記念・来日120年記念 へるんさんの秘めごと」展が熊本市現代美術館(CAMK)を主会場に開催されます。詳細につきましてはこちら、またはCAMKへお問い合わせください。当協会は本展覧会を後援しております。

熊本アイルランド協会事務局

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3 アイルランド 3-4 アイルランドの音楽

ハーンが愛した音楽

本間康夫(崇城大学芸術学部デザイン学科)
2010年(第12期)市民講座「アイルランドの魅力」(5回シリーズの第1回)
お菓子の香梅帯山店 ドゥ・アート・スペース

 本講座を音声(mp3)でお聴きになれます→第1部(8.5MB)・第2部(17.5MB)

 235年にわたる鎖国時代を経て、江戸から明治へ代わり、日本が急激に世界を意識し、近代化の名の下に西洋の文化を輸入した、まさにその時代(1890年・明治23年)にラフカディオ・ハーンが日本にやってきた。音楽教育においても例外ではなく、政治的な意図と、日本人の受容力の高さ?が、合致して、驚異的なスピードで、「西洋の近代音楽だけが、民族を超えて価値のある普遍的体系をもつ」という考え方に染まってしまった歴史に大変興味を覚える。

 日本では1879年(明治12年)に東京藝術大学の前身である音楽取調掛が設けられ、音楽研究および西洋音楽をベースとした音楽教育(唱歌教育)の形成の取り組みが始められた。1881年(明治14年)に「小学唱歌集」初編の出版届け出がなされる。音楽取調掛を率いたのは伊沢修二だが、彼は、アメリカ留学時代、日本が文化的に遅れているとの判断に立った人物で、情操教育としての音楽を国家レベルで国民に教えなくてはならないという理念の持ち主だった。後に近代的な日本美術の形成に力を尽くすことになる岡倉覚三(岡倉天心)は、音楽取調掛の最初期に通訳としてかかわった。

 さらに、米国の音楽教育家であるルーサー・ホワイティング・メーソンの存在を忘れるわけにはいかない。ルーサー・メーソンは、メイン州のターナー生まれ。アメリカ各地で長年音楽の教師を勤めた。おもに独学で音楽教育を確立し、歌の収集を行い、音楽教科書と音楽の掛図を公刊し、音楽教育の革新に成功した。合衆国では主に初等音楽教育の第一人者であった。1864年から1879年のボストン滞在時代に、合衆国に留学していた文部省の伊沢修二に唱歌の指導をしたのが縁となり、1880年に明治政府に招聘され日本に渡った。メーソンは音楽取調掛の担当官(御用係)となった伊沢とともに、音楽教員の育成方法や教育プログラムの開発を行った。「小學唱歌集」にも関わった。日本にピアノとバイエルの「ピアノ奏法入門書」を持ち込んだのもメーソンである。メーソンは岡倉天心とも親しかったという。メーソンは日本の西洋音楽教育の基礎を築いたのち、1882年に日本を離れた。メーソンは滞在の延長を望んだが、おもに予算の都合でその希望はかなえられなかった。

 メーソン離日後、しばらく後任はいなかった。1883年(明治16年)6 月からは、かねてより海軍軍楽隊教師として滞日していたエッケルト(ドイツ)が、音楽取調掛を指導するようになる。日本のドイツ音楽偏重志向はこのときから始まると言えるかもしれない。音楽取調掛は一時音楽取調所と称されるが、またすぐに元に戻る。1887年(明治20年)には東京音楽学校に昇格した。のちに滝廉太郎がドイツへ留学し、日本人による初の西洋音楽の様式による作曲が行われる。滝が世に出した器楽曲はピアノのためのメヌエットと憾みの2つであった。滝は帰国後に多くの唱歌を作曲するが、結核により夭折してしまう。(引用:Wikipedia)

 教育において西洋音楽一辺倒になった理由は、大きく分けて次の二点に絞ることが出来るかもしれない。その第一は、音楽の国際的な性格を余りに強く過信したこと、第二は、教育の体系を作った人々が本当には伝統音楽を正しく認識していなかったことである。

 日本の音楽というイメージからすれば、三味線とか、筝、尺八、琵琶という楽器を使う江戸時代の音楽の方が、雅楽よりももっとぴったり来るかも知れない。それに日本の雅楽と歴史的に関係があり、非常によく似た音楽は、韓国、台湾、ベトナムにもある。だから、雅楽は、日本の代表的な音楽と云い切ることは出来ないし、日本だけにしかない、いわゆる日本独特の音楽でもないのである。

 来日以降のハーンは、日本民族の感情を知るうえで、民俗音楽の比較研究が極めて有効である、という立場を鮮明に打ち出した。すなわち、雅楽というような宮廷社寺の音楽よりも、鳥のさえずり、蝉の鳴き声と同様に、豊年踊り唄、盆踊り唄、わらべうた等々の、野山に響く民衆の歌の方に、一層深い興味をもったことは事実である。しかし、ハーンがまだ30代の頃、1884年12月から翌年の5月まで開催された、ニューオーリンズ万国産業博覧会の日本関係の展示場で、初めて琴、篳篥、琵琶、三味線その他日本の古楽器を目にした。その部屋には古楽器のほかに、日本語から翻訳された、さまざまの音楽関係の文献も陳列してあった。ハーンを喜ばせたのは、古代ギリシャの音楽と日本の音楽との類似性を指摘し、有名なアポロ讃歌が雅楽の盤渉(ばんしき)調と呼ばれるものに正確に対応する、という伊沢修二の論文だったのである。(引用:「小泉八雲と隠岐」風呂鞏)

本間康夫氏(2010年5月22日)
本間康夫氏(2010年5月22日)
アイリッシュ・クリーム(2010年5月22日)
アイリッシュ・クリーム(2010年5月22日)
市民講座の様子(2010年5月22日)
市民講座の様子(2010年5月22日)
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1 お知らせ 1-1 イベントのお知らせ

市民講座「ハーンが愛した音楽」開講のお知らせ(終了)

 市民講座「ハーンが愛した音楽」は終了しました。

 「ハーンが愛した音楽」と題し、本間康夫氏による市民講座を開講いたします。受講申し込みは不要ですので、お気軽にお越しください。

日時:2010年5月22日(土)14時~15時30分
場所:お菓子の香梅帯山店 ドゥ・アート・スペース(地図)
交通アクセス:
 公共バス:交通センター乗車 → 帯山四丁目下車
 市営バス:12番ホーム 日赤・長嶺小学校前行 12:48発 13:09着
 市営バス:12番ホーム 日赤・長嶺小学校前行 13:30発 13:51着
 産交バス:14番ホーム 戸島行 12:37発 13:00着
 産交バス:14番ホーム パークドーム行 13:12発 13:35着
講師:本間康夫氏(崇城大学教授)
講座:「ハーンが愛した音楽」
申込:不要ですので、お気軽にお越しください
受講料:受講料は無料ですが、飲み物とお菓子代200円のみご負担願います
お問い合わせ:当協会事務局 096-366-5151

熊本アイルランド協会事務局

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1 お知らせ 1-3 事務局よりお知らせ

熊本大学公開講座「ラフカディオ・ハーンと夏目漱石の魅力」のお知らせ(終了)

 熊本大学公開講座「ラフカディオ・ハーンと夏目漱石の魅力」は終了しました。

 熊本大学政策創造研究教育センター主催で、「ラフカディオ・ハーンと夏目漱石の魅力」と題し公開講座が開講します。講師は当協会の理事で熊本大学名誉教授の西川盛雄氏です。ぜひこの機会に、熊本にゆかりのある文豪ラフカディオ・ハーンと夏目漱石について楽しく学び、理解を深めてみませんか。

  • 講座名 ラフカディオ・ハーンと夏目漱石の魅力
  • 講師 西川盛雄氏
  • 開講日 2010年6月19日(土)~2010年7月24日(土)
  • 募集締切 2010年6月4日(金)
  • 受講料 7,200円

詳しくは熊本大学政策創造研究教育センター(096-372-3121)までお問い合わせいただくか、下記をご覧ください。

熊本アイルランド協会事務局

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2 小泉八雲(ラフカディオ・ハーン) 2-3 小泉八雲の生涯

ラフカディオ・ハーンと移民

西川盛雄(熊本大学名誉教授)
2009年(第11期)市民講座「ラフカディオ・ハーンとアイルランド文化」(5回シリーズの第5回)
小泉八雲熊本旧居

 ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は19歳の時(1869年)にイギリス北西部の工業都市リヴァプールの港からアイルランドの移民船に乗ってアメリカに渡っていった。着いた処はニューヨークでその後列車でシンシナティに向かっている。この船は大西洋を横切るに際して棺桶船とも言われ、乗船はしたものの航海途中で沈没したり、飢えや病気で多くの人が船中で死に、やっと目的地に着きはしたもののその有様は凄惨を極めた。 
 ハーンは1863年9月、13歳の時にダラム州アショーにあるカトリック系の聖カスバート神学校に入学した。両親の離婚により孤児となったハーンを将来カトリックの聖職者にしたいと考えた後見人の大叔母サラ・ブレナンの意向に沿ったものであった。16歳で学校で左目を失明した上、この大叔母が近親のモリヌーの投機事業に参画して失敗し、財産を失う。その結果として大叔母はハーンの学費支援ができなくなり、翌年にはハーンは17歳で退学を余儀なくされる。その後1867年秋から1868年まではかつて大叔母に仕えていた奉公人の伝手でロンドンに出て働くがここでの生活は身の置き場の無い悲惨な有様であったという。
 ロンドン滞在中のイギリス王朝はヴィクトリア女王の時代であった。この時代、イギリスは十七世紀以来の大航海時代と十八世紀以来の産業革命の遺産によって大いに栄え、都市化が進み、富裕層はますます富を増やし、貧民層はますます貧しくなり、両者間の格差が大きく開いていった。そして大英帝国の国力が増す反面、社会の底辺では出稼ぎの他民族の流入があり、スラム化が進み、人々のモラルも歪んでいった。ハーンはこの時、当時の西洋文明の代表格であるロンドンの場末や裏側にある社会の不条理をつぶさに体験し、その闇の部分をみていたのである。
 ハーンはこの理不尽さに満ちたロンドンを抜け出し、何とか新しい世界への脱出を図ろうと願っていたとしても不思議ではない。彼なりの旧世界を捨てて新世界に向かう志は抗うべくもないところまで来ていた。ハーンにとって<旧世界>とはロンドンのような文明の確立された強く大きな西洋であった。<新世界>とは未知の神話や豊かな自然の溢れた非西洋であった。時丁度アイルランドの人々はジャガイモ飢饉の後、本国で食べていけず、移民船に乗って祖国を脱出、新天地であるアメリカを目指していたのである。アメリカからすれば、当時南北戦争後奴隷制度が廃止され、西部開拓の波に乗って鉄道敷設や町の建設など、多くの労働力を世界中から移民として呼び込んでいるさ中であった。
アイルランドの歴史は対イングランドとの関係の在り方が反映されている。イングランドはすでにヘンリー二世の時期、1171年にアイルランドに侵攻している。16世紀の後半にヘンリー八世が英国国教会を作り、王権がローマ法王権から独立した権限を有するようになった。娘のエリザベス一世もこれを踏襲した。大航海時代のイギリスの勢力拡大に伴って英国国教会の力も大きくなった。17世紀半ば、清教徒革命を率いたオリヴァー・クロムウェルは王を処刑した勢いのままアイルランドに侵攻、この地を徹底的に破壊した。その後の名誉革命を果たしたオレンジ公ウィリアムもまたアイルランドには厳しい統治を行い、宗主国イギリス、属国アイルランドという構図を作り上げた。当然のことながらアイルランド側からは恨(はん)の情とケルトの誇りを籠めてイングランドに対抗し、古来からのケルト文化を守り、自治の権利を求め、やがて国権の独立を求めて各種自立への運動が起こってくるのである。深刻なジャガイモ飢饉が発生したのはそんな中、1845年から1848年頃にかけてであった。それでも宗主国イギリスはアイルランドからの食物輸出を禁ずることはなく、飢饉にあって食料は依然として海外に流れ出たままにしていた。加えてイギリス国教会のアイルランド・カトリックへの宗教的支配、さらには土地法など政治的・社会的圧迫は止むことはなかった。その結果として多くのアイルランド人の生活は破綻し、祖国を離れ、新興の「新世界」に向かって「脱出」することを余儀なくされたのである。
 ハーンは父方よりアイルランドの血を引いている。幼い頃は両親離婚という憂き目はあったにしても大叔母は破産前はハーンを大切にして、トレモアの別荘や北ウェールズのバンゴールやカナフォンに連れて行ってくれ、教育も家庭教師をつけてそれなりに大切にしてくれた。そしてアイルランドの伝説や民話、歌謡や音楽や踊りに触れて必ずしも負の不愉快な思い出ばかりではなかった。イングランドのダラムやロンドンで経験したこととは対照的にアイルランドの庶民の人々に心を寄せながらハーンはアメリカ行きを決心したとしても不思議ではなかった。かくしてハーンは19歳で移民船に乗ってアメリカに行くことを決意し、ヨーロッパを記憶の中に生涯にわたって封印したのである。
ハーンは渡米の後ヨーロッパを背後にしたまま二度と訪ねることはなかった。「父」に繋がるヨーロッパを捨てたのである。パトリックというアイルランドに繋がるファーストネイムは捨て、ラフカディオというギリシャと「母」に繋がるミドル・ネイムを生涯保持した。筆者は<名>を捨てるというこの心理的節目を「断念」としておきたい。この頃ハーンは絶望の中で辛くも耐え、理想ではなくニヒリスティックなリアリズムが働いていたと考えられる。このニヒリスティックなリアリズムはアニミズムの世界に繋がっている。ハーンがゴースト的、霊的な実在にコミットして『怪談』など後に再話文学を創作していく所以である。
 思うにハーンは楕円を髣髴とさせてくれる二焦点モデルで説明できると思われる。一つの焦点はバーナキュラーな土着的、風土的、神秘的な視点である。これはこの世ならざるゴーストや妖精の世界に繋がる。ハーンの「三つ子の魂百まで」の世界を形成していたギリシャやアイルランドの土着的神秘主義的世界は民俗学的な世界に繋がっている。これはその土地ならではの文化の力となるものである。今一つは合理的、科学的な視点である。ハーンが記者として科学評論の記事を多く書き、教え子や息子一雄の将来についてのアドバイスは実学、実用的な仕事につくように勧めているのはこの視点が働いていた結果である。そしてこれは国境を越えるグローバルな文明を作り上げる力となるものである。西洋文明とは概ね後者の合理的、科学的な視点を機軸として築かれたものであった。これに対して非西洋とは土着的、風土的、神秘的、そして神話的な視点を機軸として成り立っている。ハーンはこの二つの焦点が鬩ぎ合いながらどちらかといえばギリシャやケルトの文化に繋がって言葉(作品)を発していったのである。このように考えるとハーンの移民船による西洋(ヨーロッパ)脱出は非西洋(クレオールのフランス領西印度諸島のマルティニク島や日本)への積極的な門出の一歩であったように思われる。

西川盛雄氏(2009年11月14日)
西川盛雄氏(2009年11月14日)

市民講座の様子(2009年11月14日)
市民講座の様子(2009年11月14日)