市民講座「ケルト世界と日本」のお知らせ(終了)

市民講座「ケルト世界と日本」は終了しました。

「ケルト世界と日本」と題し、坂本弘敏氏による市民講座を開講いたします。受講申し込みは不要ですので、お気軽にお越しください。駐車場が少ないため、公共交通機関のご利用をおすすめいたします。

市民講座「ケルト世界と日本」

市民講座「ケルト世界と日本」

市民講座「ケルト神話の神々と妖精」のお知らせ(終了)

市民講座「ケルト神話の神々と妖精」は終了しました。

「ケルト神話の神々と妖精」と題し、高木朝子氏による市民講座を開講いたします。受講申し込みは不要ですので、お気軽にお越しください。駐車場が少ないため、公共交通機関のご利用をおすすめいたします。

市民講座「ケルト神話の神々と妖精」

市民講座「ケルト神話の神々と妖精」

アイルランドと妖精

高木朝子(熊本高専八代キャンパス講師)
2010年(第12期)市民講座「アイルランドの魅力」(5回シリーズの第2回)
小泉八雲熊本旧居

第1部 アイルランドの人々にとっての妖精

 ここでは、歴史や過去の資料に触れながら、アイルランドにおいて妖精とはどんなものかということについてお話してまいります。

1.現在のアイルランドにおける妖精観

 アイルランドは「妖精の国」とも呼ばれますが、アイルランドの人々の心には妖精がまだ生きているのでしょうか。本当は、アイルランドの各地に行って「あなたは妖精の存在を信じていますか?」と尋ねるのが最もいい方法だとは思うのですが、それができませんので、いくつか、そのことが垣間見られる資料を見てみます。
まず、アイルランドで2004 年にベストセラーになり、世界中に翻訳され映画化もされた「P.S.アイラヴユー」という小説がありますが、この小説のなかで、主人公ホリーが、自分の庭の手入れを誰がしてくれているのかを友人に問われている場面が次のような場面です(会話部分のみ)。
 「庭がいやにさっぱりしてるけど、片づけたの?」
 「お隣りさんがやってくれたみたい」
 「みたい?」
 「お隣りさんでなければ、庭の隅に住んでいるレプラコーン( 妖精) たちのしわざね。」
このように、どうしてなのか分からない不思議なことを、深く考えずに妖精のせいにしておこうとする態度が見えます。これはもちろん半分くらい冗談だとは思いますが、でも私たちが想像する以上に、アイルランドの人々の心には今でも妖精がちょこちょこと顔を出す、身近な存在なのではないでしょうか。また「妖精」に「レプラコーン」というルビがついていますが、レプラコーンとは妖精の片足の靴の修理屋で、アイルランドではバンシーと並んで最も有名な妖精です。宝の隠し場所を知っているので、出会ったときは捕まえてその場所を聞き出さないといけない、ということも広く知られていて、タクシーの運転手からも気軽にレプラコーンの話が出てきたり、また「レプラコーン横断中」という標識がアイルランド西部のある地域に立っていたりします。

 現在では、妖精に対して身近な存在ではあるけれども、真剣に信じているかどうかということまでは言うことは難しいですが、今から約100年前はもう少し事情が違いました。1888年にアイルランド民話集を編集・出版したイエイツは、そのはしがきにこう記しています。
“ アイルランドでは妖精たちはいまだに生き残っていて、心やさしい者たちには恩恵を与え、また、気むずかし屋たちを苦しめている。「今までにフェアリー妖精とか、何かそういったものを見たことがありますか」とわたしはスライゴー地方の老人に尋ねてみた。「奴らには困ったもんだよ」という答えが返ってきた。「このあたりの漁師たちは、人魚を知っていましょうか?」と、私はダブリン地方のある村で、一人の女に尋ねてみた。「ほんとのところ、漁師たちは、メロウに合うのを好んではいないんですよ」と彼女は答えた、「なぜってメロウが現れると、いつでも天気が悪くなるんですからね」”
「信じているかどうか」という質問に対して、信じていることは当然のこととして、妖精たちはどういうものかという、その次の一歩踏み込んだことを語っているところが印象的です。

 また、妖精を追い出すための迷信が殺人事件を招いてしまったという出来事が1895年に起こって話題になっています。このように、ほんの100年遡るだけでも、真剣に妖精を信じていた人々が現在よりも多かったことが伺い知れます。

2.アイルランドの妖精のルーツ

2.1.ケルト民族の神々・信仰

 アイルランドの妖精のルーツを探るには、やはりアイルランド人の祖先、ケルト民族のことを知らなければならないでしょう。現在、ケルト民族のことを知るには、その信仰についてはギリシア・ローマ人の記録、神話についてはアイルランドの中世写本、そして年代の特定などには考古学的な物証が用いられています。

 それはなぜかというと、まずケルト民族は文字を持たず、高度な語りの伝統を持っていました。よって自らのことを書き記すことはせず、ローマ帝国に敗北してローマ化するまでの間(紀元前1世紀~後1世紀)、外部の者の目を通して記述された記録がまず残りました。しかしローマ化してしまうと、ケルト民族の信仰や文化は消滅します。ここでローマ化していないケルト民族、アイルランドのケルトが、やがてキリスト教とともに渡ってきたアルファベットを自国語にあてはめて文字に残し始めるのが8世紀頃からです。記録したのが修道僧なので異教的な部分は削除訂正されている部分も多くありますが、それでも民話や地誌を始め多くの記録が残され始めました。

 ではまず、ギリシア・ローマ人から見たケルトの司祭「ドルイド」とケルト人の来世観についてまとめると、以下のようなものでした。

・ドルイド…ケルト人の宗教儀式を司り、知識人、預言者として敬われ、政治にも関与していた僧侶・司祭の位名。その地位に就くためには10~20 年の厳しい鍛錬が必要で、税金の免除などの特権があった。ケルト人の特権階級は、ドルイド、フィリ(預言者)、バード(吟唱詩人)がいるが、ドルイドが最も地位が高かった。

・ケルト人の来世観…ケルト人が霊魂の不滅と輪廻転生を信じて疑わなかったことは古典文献に繰り返し語られている(ローマ人はケルト人特有の死の軽視を霊魂不滅・輪廻転生と結び付けて考えていたと思われる)。

これらドルイドの教えが、アイルランドのケルト民族にも同様にあったであろうと言えます。

 大陸のケルト人は、神話を書き残すことなくその伝承をなくしてしまったので、ケルト民族の神々を知るには、少し無理矢理な感もありますが、アイルランドの神話を頼ることになります。

 次に、神話物語などの多くが記されているアイルランドの写本の記録についてみていきます。432年に聖パトリックがアイルランドに来島して、キリスト教を広めたということになっていますが、それからラテン・アルファベットが伝わって、最初はラテン語で福音書を書きうつしたりしていました。そして独自の装飾を施して完成した写本に「ケルズの書」があります。それからもう少し時代を経ると、今度は自国語(アイルランド・ゲール語)にアルファベットをあてはめて、自国語で様々な記録を残し始めます。それが8世紀くらいからで、現在残っている写本は、「侵略の書」や「レンスターの書」、「バリモートの書」といった主なものがありますが、「侵略の書」などは完成は1100 年頃でも、ずっと古い8世紀頃の記録も含んでいるとされてます。

 こうして残された写本には、アイルランドの疑似歴史や神話物語も多く含まれています。「疑似」歴史といったのは、アイルランド人の祖先をノアの末裔にしたり、神々の戦いから、徐々に人間の支配になっていったりして、本当の歴史書とは言えないのですが、それらしく書いてあるということです。また、これが歴史書としてまったく価値のないものとは思われていないのも確かで、ある程度は時代時代の要素を反映していると言われています。まずは、妖精に直結するかどうか分かりませんが、アイルランドの古い神々についてみていくことにします。

 アイルランドの神話には天地創造神話はなく、最初の来島者たちはノアの息子ビトとその娘セゼールと男2人女50人で、40日後に水害でフィンタンという男だけが生き残り、超人的に長生きして以後の来島民族の歴史を見聞します。また民族攻防の歴史は最初の民族パーホロ
ンの生き残りのトアン・マッカラルが語っていきます。

(1)パーホロン 西方、ギリシアからやってくる。
疫病で死に絶える。
フォモール族
(2)ネメズ パーホロンと親族のネメズ一族が来
島するも、数十年後、突然死に絶え
る。一方でフォモール族とも戦う。
(3)フィルボルグ 動物の皮袋の船で来島。
ダーナ神族とフォモール族の
連合軍に敗れる。
(4)トゥアハ・デ・ダナーン
(女神ダヌを母とする
種族=ダーナ神族)
第1次モイツラの戦いでフィ
ルボルグを破り、第2次の戦
いでフォモール族を破る。
(5)ミレー族 ダーナ神族を破ったミレー族は地上を支配し、
ダーナ神族は地下を支配することになった。
ミレー族からが人間。

(4)番までが神々の時代で、(5)番から人間の時代が始まります。アイルランドの神話の神々と言えば、(4)番のトゥアハ・デ・ダナーン(女神ダヌとその一族)のことです。主な神々については、配布資料に一覧表を付しています。

 主な神々の中でも一番主な神々が、女神ダヌと男神ダグダになります。ダグダは父なる全知全能の神でダヌの父でもある、ということなので、いっそのこと「ダクダの一族」としても良さそうなのですが、どうしても地母神として最も根底には女神があるようなのです。というのは、土地土地にはそれぞれ女神がいて、その土地を支するということはその女神と結婚するという考え方があるからです。

 そしてこの二人の他に、ダーナ神族の王というのがヌァダですし、ルーもマナナン・マクリールもディアン・ケヒトも、みんなが主役級にキャラが濃い神々という印象を受けます。

 以上のようなアイルランドの神話の神々の話にも、それに続く人々の話(英雄クーフリンが活躍するアルスター物語群やフィン・マックールとその騎士団の物語群)にも、「妖精」は登場しますし、後にはこうした神々が信仰されなくなって小さくなって妖精になった、と言われるようになります。

2.2.ケルト系民族がアイルランドにもたらした信仰

 こうした中で、では何がアイルランドの古来からの信仰で、妖精はそこにどのように関係し、どのように誕生したのか、ということを考えていくことにします。

 まず、アイルランドの古来の神々は大陸のケルト民族の神々と同じかということですが、これは、地名・川の名前などでアイルランド神話の神々の名前と共通したものが大陸(ドイツなど)にもあることからYESと言えそうです。例えばドナウ川(オーストリアなどを流れる)の由来は、ケルトの女神ダヌであるという説があります。

 それから、アイルランドにケルト民族が持ち込んだ信仰や神々は、アイルランドの風景や先住民の残した遺跡に刺激され、あてはめられて、アイルランド独自の神話世界が出来上がったのではないか、という専門家の意見があり、私もそうではないかと思っています。

2.3.妖精の登場:アイルランドの妖精たちは古代の神々なのか

 ではこうしてアイルランドの風景に同化した古代の神々が、妖精になったのでしょうか。多くの研究書では、「異教の神トゥアハ・デ・ダナーンが、しだいに崇拝もされず、供物も捧げられなくなると、人々の頭のなかで小さくなっていって、今では身の丈わずか20~30cmほどになって妖精になった」(イエイツ)、あるいは「ミレー族(アイルランド島に最後に渡ってきたケルト民族と言われる)との戦いに敗れ、あるものは地下に、海の彼方に、姿をくらまし、小さな姿となった」のが妖精のルーツの定説となっています。

 しかし、神話の神々は時に「妖精の王・女王」として登場し、その他の神話と変わらない時代設定の物語にもすでに妖精が登場しています。神話の神々が人々の間に広く信じられ、その信仰が次第に廃れて神々が妖精になるには恐らく長い時間がかかるはずで、妖精はもうずっと前から人々の心に存在していたのではないかと私は考えています。

 アイルランドの妖精のルーツの結論としては、アイルランドの妖精たちが誕生した背景には、ケルトの人々がアイルランドへの来島よりも以前から信じていた信仰があり、いつ妖精たちが登場(誕生)したかを言明することは難しいですが、ケルト民族の歴史と同じくらい古い昔から妖精は人々の心にいたのではないかと考えています。

3.語り継がれる妖精たちとその世界 ~妖精たちが登場する民話~

 では妖精たちはそうして古くからその存在が人々の心の中にあったとしまして、現在にどうしてその存在がこのように大きく、アイルランドの国のシンボルにまでなっているかというと、それは人々が妖精のことを語り継ぎ、その伝統が今日まで生き残って、記録されているからです。

 語り継いでいく歴史について少しだけみていくことにします。妖精が出てくる民話や伝説はまず中世写本に記録されましたが、それは主に上流階級の長い話でした。そして一方で、記録されることのなかった庶民レベルの語りの伝統もあったと考えられています。これら2つは、互いに別のものではあるけれども、共有している部分もあったのではないかと考えられています。やがて上流階級の文化は他国の植民地政策などによって壊滅的になるのですが、そんな中、庶民レベルでは脈々と口承伝統が引き継がれていきました。それがようやく脚光を浴び始め、その豊富な民話・伝説は記録され、現在の私たちが目にするところとなったのです。本格的な民話収集は、19世紀頃から始まり、次第に自国のルーツを大切にしたいという気運にも乗って、民話は盛んに収集されるようになりました。

 こうして古来の信仰の片鱗も見え隠れする、語り継がれた話の中の妖精たちに、遠く離れた日本で、現在でも会えるようになったのです。

第2部 アイルランド民話に登場する妖精たち

 ここまでは現在のアイルランドの妖精観と妖精のルーツについて資料を見ながらお話してきましたが、今度はアイルランド民話に登場する実際の妖精たちはどういうものなのかをお話したいと思います。

1.日本の昔話と類似したアイルランド民話(妖精の登場する話の中から)

 まず以下に、私がアイルランド民話を読んでいて、これは日本の昔話に似ているなぁと思ったものを4つほど要約してみました。

アイルランド民話(下線が妖精) 似ていると思われる日本の昔話
1.オシーンの物語
若い美しい女性(妖精:金髪のニァヴ)がフィアナ騎士団の騎士オシーンに恋し、自分の国である異界ティル・ナ・ノーグに連れていく。数年の後、フィアナ騎士団に再会したくなったオシーンは馬から絶対に降りてはいけないという約束で元の世界に戻るが、そこはすっかり変わっており、大きな石を動かせず困っている人々を手伝ってあげたときに馬から落ち、たちまち数百年の歳をとって倒れこむ。[妖精-乙姫]“How Oisín went to Tír na hÓige” (MacLennan. Seanchas Annie Bhán)
浦島太郎
亀を助けた浦島太郎が竜宮城へ行き、元の世界に戻って玉手箱を開けると700年の歳をとる話。
2.2人のこぶ男の話
あるこぶ男が塚の近くを通りかかると聞いたことのないような素敵な歌声が聞こえる。その歌は素敵だったが、こぶ男がもう少しアレンジを加えて歌うと、歌っていた妖精たちがそれを気に入り、お礼に男のこぶをとってやる。男のこぶがきれいになくなった話を聞いたもう一人のこぶ男が、自分もとってもらおうと歌の聞こえる塚へ行くが、この男のアレンジは妖精に大不評で、逆にこぶをもう一つつけられる。[妖精-鬼]
“The two hunchbacks” (ÓhEochaidh. Fairy Legends from Donegal)
こぶとりじいさん
無欲な翁が鬼の宴会に出くわして、踊りを披露して歓迎されこぶをとられるが、欲深い翁は逆にこぶをつけられる話。
3.人間と結婚した海の妖精の話
漁師のオインは海から現れる美しい女性(妖精)を目撃し、現れるのをよく観察して彼女がマントを羽織らなければ海に戻っていくことができないことを知る。あるとき、オインは彼女が海から上がってマントを脱ぎ棄てたときにそのマントを盗み、海に帰れなくなった彼女と結婚し、2男1女をもうける。ある日、息子が偶然屋根裏に隠してあったマントを見つけて母親に見せると、彼女は子どもたちを残したままマントを羽織って海へ帰って行った。[妖精-天女(天人)]“The sea girl and Eoin Óg” (ÓhEochaidh. Fairy Legends from Donegal)
天女の羽衣
狩人の男が水浴びしにきた天女の羽衣を盗み、天に帰れなくなった彼女と結婚する。3年後、天井裏に隠してあった羽衣を見つけた天女は天に帰っていく。
4.人間と結婚した湖の妖精の話
湖から現れる美しい女性(妖精)と出会った領主の男は、彼女に求婚し、受け入れられるが、彼女のことを口外してはならず、家に誰も連れてきてはいけないという約束をさせられる。1男1女をもうけて幸せに暮らしていたが、数年経ったあるとき、レース場で友人たちと会い、美しい嫁をみんなに見せたくなった男は、約束のことを忘れて家に彼らを連れてくる。約束のことをはっと思い出した男が嫁を探したときに見たのは、彼女と子どもたちが湖に入っていく後ろ姿だった。悲しみのあまり男は彼女たちを追って湖に入り、やがて領地はこの湖の水に浸かってしまい、4羽の白鳥が目撃されるようになる。[妖精-雪女]“Lake Inchiquin” (O’Sullivan. Legends from Ireland)
雪女
雪女に遭遇し、見たことを口外したら殺されると言われた巳之吉は、その後雪女そっくりの娘と出会い結婚する。そしてある日彼女に雪女のことを話すと、それは私だと言われる。

 民話に世界的な共通部分などがあることを考えても、日本昔話とアイルランド民話はとてもよく似ているものが含まれていると思います。民話の比較研究は行っていませんので、あまり立ち入ったことを述べることはできませんが、こういうところがあったからこそ、ラフカディオ・ハーンは日本に惹かれ(特に浦島太郎に惹かれているところも)、そして私たちは妖精や異界に親しみとか、そういうものもあり得るというような感情を持つのではないかと思いました。

2.実際の民話に登場する妖精たち

 このように日本昔話と似たところがあるアイルランド民話ですが、では特に妖精にスポットをあてて、どのような特徴があるのかを次の5つの視点から見ていきます。5つとは、1.妖精を何と呼んでいるか、2.妖精の外観特徴、3.妖精の持っている特別な力、4.妖精の住処、そして5.妖精と人間とのかかわり方、についてです。民話は9冊の民話集から230話を調べました。

 まず1.人々は妖精を何と呼んでいるか、ということですが、1位は、普通に「妖精」でした。当たり前と言えば当たり前の結果ですが、それでも妖精に「妖精」と呼んでいるのは48件で、民話を230話も読んだ割には少ないとも言えるのではないでしょうか。

 その次に多かったのが「丘の人々」、そして「小さい人々」と続きます。呼び名の中にも妖精のいろんな性質、どこに住んでいるかとか、背丈がどのくらいとか、善悪の性質とか、が表れていることが分かります。ただしそれがそのまま妖精の性質を正直に反映しているかどうかは分かりません。というのは、妖精に直接「妖精」と呼ぶと妖精に反感を持たれるかもしれないと思った人々が無理やり何か別の呼び方を考案しただけかもしれないし、「良い人々」と持ち上げることで妖精に嫌われないようにしようとしたのかもしれないからです。

 7位に「レプラコーン」が入っていますが、わずか4件で、アイルランド民話においてはあまり特定の妖精の種類や名前は重視されていないことが分かります。

 次に2.妖精の外観特徴を見ていきたいと思います。まず、そもそも妖精って、人の姿をしてるのか?というところからはっきりさせていきたいと思いますが、全体の75.4%の妖精は、人の姿をしていました。それも普通妖精と言えばきれいな女性のイメージかもしれませんが、男性の方が少し多いという結果になっています。

 そうして人間の姿で登場した妖精の主な身体的特徴について、まとめると美しい、背丈が小さい、などが上位に入りました。「美しい」「背丈が小さい」ものが上位だったので、やっぱりという感じはありましたが、実は案外、美しいとも小さいとも描写されていない「普通の人」の姿の妖精の方がずっと多いと言えます。

 「背丈が小さい」と言っても、掌サイズや虫サイズほど小さくなく、せいぜい3歳~12歳の子どもくらいのサイズで、しかも子どもではなくて大人の妖精であることが特徴的でした。

 そして3.妖精の特別な力ですが、妖精は超自然的な力を使っていることが多く、民話のなかでどんな力を見せているかをまとめてみたいと思います。

 (例1)バグパイプ演奏のレパートリーが1曲しかなかった男を、プーカ(ロバの姿をした妖精)が妖精の館に連れて行き、見事な演奏のできる能力を与えて演奏させる。演奏を喜んだ妖精たちからお礼に、元の世界でも上手に演奏し続けられるようにしてもらう。→楽器演奏の能力を与える力(人に対する操る力)

上の例にある力は、人に対する力と分類し、このような人や物、自然、動物などを操る力(いわゆる魔法のような力)が全体の7割近くを占めていました。詳しくは省略しますが、また一方で人に対して友好的な力・敵対的な力・そのどちらでもない悪戯的な力の3つに分けると、順番に17件、24件、18件となり、大きな差ではないですが敵対的な力が最も多くありました。このことからは、妖精は人に対して善にも悪にもなり得、敵対的なことが若干多いことからは人々に常に恐れられている存在であることがうかがえます。

 続いて4.妖精たちの住処にいきます。妖精たちがはっきりとどこに住んでいる、と描写されている場合もあれば、現れたり、消えたりする場所が、結局彼らの住処であると考えられる場合もあります。そのようにして妖精の住処と思われる場所をピックアップして統計を出すと、その結果1位は海、2位は丘、3位は塚となりました。

 おそらく海という場所は丘よりも近づき難く、危険でもあることが、妖精のイメージをより神秘的なものとしているのではないかと思います。海でない地上の住処でダントツは「丘」です。それも丘の内部に空洞か異界への入口があって、丘の内部に妖精の住処があるというパターンが多かったです。そして似たような場所として3位の「塚」があります。これは小さい「丘」の場合もありますが、多くはずっと前の祖先の住居跡や使用した家畜小屋跡などが、人々に使われなくなった後妖精の住処になる、というような考え方が反映しているからのようです。
そのほか、野原、川、湖、地下、谷…など自然の風景のあらゆる場所が「妖精の住処」として出てきました。アイルランドでは、かつて古来の神々がアイルランドの風景に同化していったように、妖精たちも自然の風景のいたるところに住みついていると言えます。

 最後に5つ目の視点で、妖精たちは人々の生活とどのように関わっているか、ということを調べていきます。妖精たちは、
  A.民話にどのように登場し(どんな姿で・あるいは姿を現さない)、
  B.どんな行動をして(良・悪・どちらでもない)、
  C.どのように退場するか(どこかへ去る・自分たちの領域へ去る・自分たちの領域に留まる)。
という3つの部分に分けて、それぞれの部分内で分類して、最終的のその組み合わせパターンを調べました。以下に民話の例を3件挙げます。

 (例1)ある老女が道端で、男性の姿をした妖精と出会う。その妖精は「あの石に汚い水をかけるんじゃない!」と頼む。その妖精はそこから歩き去る。(→A.人の姿で登場し、B.人に対して良くも悪くもない行動をして、C.どこかへ去っていくパターン)

 (例2)ある男性が宿屋の前の道端で、男性の姿の妖精と出会う。明るく声を交わした後、その妖精は使ってもなくならない金貨を男性にくれる。妖精はどこかへ去る。(→A.人の姿で登場し、B.人に対して良い行動をして、C.どこかへ去っていくパターン)

 (例3)登場はしない。焼き魚の匂いで少女たちを誘導し、妖精の仲間に取り入れようとする。退場場面もない。妖精たちの企みは暴かれ、誘拐は未遂に終わる。(→A.姿を現さずに行動の痕跡だけ残し、B.人に対して悪い行動をして、C.退場場面はないパターン)

括弧内が分類パターンとなります。この組み合わせパターンの頻度を調べると、一番多かったのは、妖精が人の姿で登場し、人に対して良くも悪くもない行為をして、どこかへ去っていくという(例1)のようなパターンでした。

 ここから分かるように、妖精たちは、人の姿で積極的に人の世界に出向き、何らかの行動を起こして、元の自分たちの領域へ戻っていく(領域がどこか明示されていなくても)ことが多いようです。このことから、妖精は人の住む世界ととても近いところで、人の生活と並行して生活を営んでいると考えられていると言えるのではないでしょうか。

3.総括:今に生きる妖精たち

 世界中でファンタジー文学の人気は衰えを知りません。指輪物語、ナルニア国ものがたり、不思議の国のアリス、ハリー・ポッター、そして現在上映中のジブリ最新作「借り暮らしのアリエッティ」もメアリー・ノートン作の「小人の冒険」シリーズのひとつです。こうした不思議なキャラクターやその世界は子どもだけでなく大人も魅了されてきました。

 その根底にある「妖精」とその世界「異界」のイメージの根源の一つは、今見てきたこのアイルランドの、つまりケルトの妖精像なのです。ファンタジーの作家たちは妖精たちの話にヒントを得て、この魅力的な世界を作り出しました。アイルランドを知る、そして妖精を知るということは、不思議な世界に憧れる全人類共通の思いのいちばん深いところを知るということなのかもしれません。

 そして、姿を変え、もはや私たちがそれを妖精だとは思わなくても、彼らはいつでも私たちの心の中に住み、時に悪さをしたり、助けてくれたりして生き続けていると思ってみると、心に少しだけゆとりができ、楽しくなれるように思います。

≪主な参考文献≫

  • 井村君江、「ケルトの神話:女神と英雄と妖精と」、東京:筑摩書房、2002
  • 井村君江、「ケルト妖精学」、東京:筑摩書房、2003
  • イェイツ,W.B.編、井村君江編訳、「ケルト妖精物語」、東京:筑摩書房、1999
  • 下楠昌哉、「妖精のアイルランド」、東京:平凡社、2005
  • ジョン・ヘイウッド著、井村君江監訳、倉嶋雅人訳、「ケルト歴史地図」、東京:東京書籍、2003
  • セシリア・アハーン著、林真理子訳、「P.S.アイラヴユー」、東京:小学館、2004
  • 鶴岡真弓、松村一男、「図説ケルトの歴史」、東京:河出書房新社、1999
  • 中沢新一、鶴岡真弓、月川和雄編著、「ケルトの宗教ドルイディズム」、東京:岩波書店、1997
  • バリー・カンリフ著、蔵持不三也監訳、「図説ケルト文化誌」、東京:原書房、1988
  • ムーディ,T.W.、F.X.マーチン編著、「アイルランドの風土と歴史」、東京:論創社、1982
  • Briggs, Katharine. The Vanishing People. New York: Pantheon Books, 1978.
  • Dillon, Myles. Early Irish Literature. Chicago: U of Chicago P, 1948.
  • Ó hÓgáin, Dáithí. The Lore of Ireland:An Encyclopaedia of Myth, Legend and Romance. Cork: The Collins Press, 2006.
  • Ó Súilleabháin, Seán. A Handbook of Irish Folklore. 1942; Detroit: Singing Tree Press, 1970.
  • Zimmermann, George Denis. The Irish Storyteller. Dublin: Four Court Press, 2001.
高木朝子氏(2010年7月31日)

高木朝子氏(2010年7月31日)

市民講座の様子(2010年7月31日)

市民講座の様子(2010年7月31日)

ハーンが愛した音楽

本間康夫(崇城大学芸術学部デザイン学科)
2010年(第12期)市民講座「アイルランドの魅力」(5回シリーズの第1回)
お菓子の香梅帯山店 ドゥ・アート・スペース

 本講座を音声(mp3)でお聴きになれます→第1部(8.5MB)・第2部(17.5MB)

 235年にわたる鎖国時代を経て、江戸から明治へ代わり、日本が急激に世界を意識し、近代化の名の下に西洋の文化を輸入した、まさにその時代(1890年・明治23年)にラフカディオ・ハーンが日本にやってきた。音楽教育においても例外ではなく、政治的な意図と、日本人の受容力の高さ?が、合致して、驚異的なスピードで、「西洋の近代音楽だけが、民族を超えて価値のある普遍的体系をもつ」という考え方に染まってしまった歴史に大変興味を覚える。

 日本では1879年(明治12年)に東京藝術大学の前身である音楽取調掛が設けられ、音楽研究および西洋音楽をベースとした音楽教育(唱歌教育)の形成の取り組みが始められた。1881年(明治14年)に「小学唱歌集」初編の出版届け出がなされる。音楽取調掛を率いたのは伊沢修二だが、彼は、アメリカ留学時代、日本が文化的に遅れているとの判断に立った人物で、情操教育としての音楽を国家レベルで国民に教えなくてはならないという理念の持ち主だった。後に近代的な日本美術の形成に力を尽くすことになる岡倉覚三(岡倉天心)は、音楽取調掛の最初期に通訳としてかかわった。

 さらに、米国の音楽教育家であるルーサー・ホワイティング・メーソンの存在を忘れるわけにはいかない。ルーサー・メーソンは、メイン州のターナー生まれ。アメリカ各地で長年音楽の教師を勤めた。おもに独学で音楽教育を確立し、歌の収集を行い、音楽教科書と音楽の掛図を公刊し、音楽教育の革新に成功した。合衆国では主に初等音楽教育の第一人者であった。1864年から1879年のボストン滞在時代に、合衆国に留学していた文部省の伊沢修二に唱歌の指導をしたのが縁となり、1880年に明治政府に招聘され日本に渡った。メーソンは音楽取調掛の担当官(御用係)となった伊沢とともに、音楽教員の育成方法や教育プログラムの開発を行った。「小學唱歌集」にも関わった。日本にピアノとバイエルの「ピアノ奏法入門書」を持ち込んだのもメーソンである。メーソンは岡倉天心とも親しかったという。メーソンは日本の西洋音楽教育の基礎を築いたのち、1882年に日本を離れた。メーソンは滞在の延長を望んだが、おもに予算の都合でその希望はかなえられなかった。

 メーソン離日後、しばらく後任はいなかった。1883年(明治16年)6 月からは、かねてより海軍軍楽隊教師として滞日していたエッケルト(ドイツ)が、音楽取調掛を指導するようになる。日本のドイツ音楽偏重志向はこのときから始まると言えるかもしれない。音楽取調掛は一時音楽取調所と称されるが、またすぐに元に戻る。1887年(明治20年)には東京音楽学校に昇格した。のちに滝廉太郎がドイツへ留学し、日本人による初の西洋音楽の様式による作曲が行われる。滝が世に出した器楽曲はピアノのためのメヌエットと憾みの2つであった。滝は帰国後に多くの唱歌を作曲するが、結核により夭折してしまう。(引用:Wikipedia)

 教育において西洋音楽一辺倒になった理由は、大きく分けて次の二点に絞ることが出来るかもしれない。その第一は、音楽の国際的な性格を余りに強く過信したこと、第二は、教育の体系を作った人々が本当には伝統音楽を正しく認識していなかったことである。

 日本の音楽というイメージからすれば、三味線とか、筝、尺八、琵琶という楽器を使う江戸時代の音楽の方が、雅楽よりももっとぴったり来るかも知れない。それに日本の雅楽と歴史的に関係があり、非常によく似た音楽は、韓国、台湾、ベトナムにもある。だから、雅楽は、日本の代表的な音楽と云い切ることは出来ないし、日本だけにしかない、いわゆる日本独特の音楽でもないのである。

 来日以降のハーンは、日本民族の感情を知るうえで、民俗音楽の比較研究が極めて有効である、という立場を鮮明に打ち出した。すなわち、雅楽というような宮廷社寺の音楽よりも、鳥のさえずり、蝉の鳴き声と同様に、豊年踊り唄、盆踊り唄、わらべうた等々の、野山に響く民衆の歌の方に、一層深い興味をもったことは事実である。しかし、ハーンがまだ30代の頃、1884年12月から翌年の5月まで開催された、ニューオーリンズ万国産業博覧会の日本関係の展示場で、初めて琴、篳篥、琵琶、三味線その他日本の古楽器を目にした。その部屋には古楽器のほかに、日本語から翻訳された、さまざまの音楽関係の文献も陳列してあった。ハーンを喜ばせたのは、古代ギリシャの音楽と日本の音楽との類似性を指摘し、有名なアポロ讃歌が雅楽の盤渉(ばんしき)調と呼ばれるものに正確に対応する、という伊沢修二の論文だったのである。(引用:「小泉八雲と隠岐」風呂鞏)

本間康夫氏(2010年5月22日)

本間康夫氏(2010年5月22日)

アイリッシュ・クリーム(2010年5月22日)

アイリッシュ・クリーム(2010年5月22日)

市民講座の様子(2010年5月22日)

市民講座の様子(2010年5月22日)

歩く

植田義浩(熊本朝日放送株式会社代表取締役社長)
2009年熊本アイルランド協会忘年会卓話
熊本交通センターホテル6F椿の間

 私にとりましてアイルランドと聞きますと、ほろ苦い青春時代を思い出します。今は鬼嫁に変わり果てましたカミさんが、学生時代の一時期ギター部に入っていまして、ギター伴奏をつけながらアイリッシュララバイというアイルランドの子守唄を歌ってくれたことがありました。当時は学生運動、学園封鎖、北アイルランド運動が盛んで、IRAが武装運動をやっていた時代でもありました。イギリスとアイルランドが大変に緊張している、そんな時代に当時は若くて優しかったカミさんがアイルランドにはこんなに優しい子守唄もあるよ、といって弾いてくれたものですから、そんなこんなで、ついコロリといかれてしまって、前後の見境無く学生結婚してしまったのです。後悔先にたたずとはよく言ったものです。

 また学生時代に演劇の好きな連中が、アイルランド人のサミュエルベケットの名作「ゴドーを待ちながら」を学生会館でやろうということになりました。私は当時美術専攻でしたから、「おまえ大道具をやれ」と。ところが、ベケットの「ゴドーを待ちながら」の大道具なんて作れるわけがないのです。今なら、あの難解なベケットなど恐れ多くて手を出さないのですが、若さとはおそろしいものでやってしまったのです。結果はもちろん散々でした。みんなに大笑いされました。自棄酒はもちろん格好をつけてアイリッシュウイスキーでしたと言いたいのですが、実はサントリーレッドでした。当時はアイリッシュウイスキーは高額の花で、とても飲めませんでした。ですから、一般にアイルランドといえば「ギネスと羊と妖精の国」のキャッチフレーズですが、私にとってのアイルランドは「鬼嫁とベケットとアイリッシュウイスキー」の国なのです。

 6月に熊本に赴任してきましたが、毎晩夜な夜な出没しては飲み屋横丁を徘徊しております。いろいろ見つけました。そうしましたら、非常に美味しいアイリッシュウイスキーとギネスの生を置いているバーを見つけました。ブッシュミルズやタラモアディューといったシングルモルトの本格的なアイリッシュウイスキーを飲ませてくれる洒落たカウンターバーが銀座通りにあります。その店でこんなことを書いてある本に出会いました。アイルランドで地元のバーに入ったときの話です。その一節をちょっと読んでみます。

 店に入ると亭主にYOU NEED CUBE?(氷いるかい)と尋ねられる。NO THANKS WITH JUST WATER PLEASE(いいや水だけ)と答える。亭主はうむうむという顔でにっこり微笑む。大振りなグラスにアイリッシュウイスキーがたっぷりダブル入ってくる。その隣には小さな水差しに入った水が付いてくる。もちろんタップウォーター(水道水)だ。ミネラルウォーターなどという無粋なものは出てこない。タップウォーターのほうが生き生きとしてずっとうまいのだから。

 これは村上春樹さんのエッセイの一部です。どうですか、うまそうでしょう。アイリッシュウイスキーを米焼酎に置き換えて読むと、まるで熊本みたいでしょう。熊本の水の美味しさは全国的にもすばらしいレベルですが、アイルランドの水も負けず劣らずうまいそうで、ギネスを作っている水は確か「女神の水」という名前まで付いているそうです。本確的な蒸留酒に、飛び切りうまい水道水をチェイサーとして飲めるのは、世界広しといえども熊本とアイルランドぐらいしかないのではないでしょうか。そのBARで聞いたのですが、かつては熊本にも本格的なアイリッシュパブ(スライゴーという名前)があって、ソーダブレッドやアイリッシュシチューを食べさせてくれたそうです。今その店は大津に移転していると聞いて行ってみました。どうやって再度その店まで行きつくか、それが今日の本題です。

 本題に入ります。私の趣味は酒と温泉と歩くことです。歩いて、疲れて、温泉に入って、酒を飲む。こんな楽しいことはありません。昔は走っていましたが、今はもっぱら歩き専門です。金もかからず道具も要らず何時でもできる。歩く事にかけてはかなり年季が入っています。19歳の夏のときでした。大学受験にことごとく失敗し、予備校に行かず、暇を持て余していました。ふと思いついたのです。東京から九州小倉の実家まで歩いて帰れば暇つぶしが出来るし、その間は勉強しなくてすむ。そう思ったら早速実行。アルバイトに精を出して、テントやキャラバンシューズなどのキャンプ用品を買い込み、わずかの現金を握りしめて友人と2人、東京・萩窪を出発したのが7月12日でした。大菩薩峠を越え、上高地を抜け、白骨峠あたりでキャラバンシューズがボロボロになってしまいました。最初のうちはかかとに血が滲み、マメの上にマメができて膿が出ます。ですが一週間くらいで綺麗に治ります。日本アルプスを横断して大垣に入り、関が原を抜けて、当時出来たばかりの琵琶湖大橋を渡って、比叡山を夜中に越えて京都に入りました。当時友人が京大に通っていましたのでその寮に転がり込み2~3日休んで体力を付けて、そこからまた、山陰の旧街道つたいに日本海に沿って松江、津和野、山口を経て九州に入りました。この間に乗った乗り物は、関門海峡の人道用エレベータだけ。泊まったところは橋があれば橋の下、駅があれば待合室、何も無ければテントでした。こじき同然の格好で小倉に着いたのが8月27日でしたから45日かかって歩きとおしたことになります。歩いた距離は、1200キロ。さすがに親はあきれ果てて文句も出ませんでした。歩いた距離は1200キロでしたけれども、良くやったなと思いました。歩く事で自信に繋がりました。

 類は友を呼ぶといいますか、ちょうど8年前に小倉に帰省した時に、小倉高校の友達が100キロウォークを始めたからお前も出てこいと言ってきました。ただ単に歩くだけ。制限時間27時間以内に行橋から歩き始めて別府まで、単に歩くだけ。順番は関係ない。3つルールがあって、まず、信号を守ること、歩道を歩くこと、3つ目は競争をしないこと。なぜかというと競争してしまうと体に悪いです。100キロ歩くのでも体に悪いに決まっています。それから走らない事。50~60歳は膝にきます。その他にチェックポイントを必ず通ること。無断リタイアしないこと。きつい時はやめてください。いつでもサルベージに行けます。これを守ってください。ということなどです。

 何故100キロウォークをはじめたかというと別府で高校の山岳部の先生が、今どきの若い子ども達が今の体力では冬山などに行ったら絶対死んでしまう。絶対鍛えなければいけない。どうして鍛えたらいいかというと、歩かせる。それでその先生は有名な登山家(戸高雅史:プロ登山家 大分県出身 マッキンリー単独登頂)で高校生の教育の一環として13年間子どもたちに100キロ歩かせてきました。

 友達がその話を聞いて、私も一緒に歩かせてくださいと・・・ところがその先生が別府を辞めて東京に移ったものですから、その会が解散することになりました。それで私の同級生達がそれはもったいないと、自分たちでそれをやろうとなりました。最初は約40人の方々と歩き始めました。その友達が小倉高校の同級生で当時小倉東ロータリーになんと7人いまして、力を合わせてみんなの社会の健康のためになるし、これをポリオ撲滅の社会運動の一環にしようと自分達で勝手連を作って始めました。それをロータリークラブの方が非常に応援してくださって軌道に乗り始めました。そうすると、はじめは44人で始めて、私が参加し始めたのは3回目からでしたが、その時で150人でした。ところがこういう時代ですから、健康志向なんでしょうか。150人があっというまに200人を超え、200人が300人を超え、300人が600人になり、実は今年3500人でした。最高年齢は85歳です。80歳以上が4名、そのうち3人が完歩です。3000人くらいいますと、27時間以内でどのくらい完歩できるのは大体半分です。最初は6割リタイア4割完歩でした。でも今はウォーキングブームですので逆に6割の方が完歩されます。ただ、半端ではありません。足は痛いです。爪は破れます。マメはできます。途中の国東半島の付け根に3つ峠があります。丁度、宇佐神宮を出て10キロくらい入ったところから峠が始まります。12時に歩き始めて夜中の2時~3時に山がでてきます。これは辛い。行けども行けども坂です。一つ終わるともう一つあります。

 そこに行きますと七曲りといいましてとても急な坂があります。真っ暗で誰も助けてくれない。いつ辞めようか、何でこんな馬鹿な事をしているんだろうと思いながら歩いています。中には足が痛くて後ろ向きに歩いている人もいます。あるいは、足をひょこひょこしながら歩いている人もいます。そのくらい辛いのです。でも、人間とは不思議なもので、最後の15キロのチェックポイントになるとゴールが見えてきます。別府湾からぐるっとまわって別府市が見えてきます。そこまでくるとそんなにリタイアする人はいません。なんとか行けるようになります。ただしそこまでの間が一番辛いし、睡魔との闘いと足の痛さと腰の痛さこれはどうにもなりません。ただこれを超えると多少足の裏にマメができてもすぐ治ります。爪が剥がれます。でも半年で治ります。一番いけないのは腰とか膝とかアキレス腱とかこの辺の痛さをあまり我慢すると後で体の軸がいかれます。これは自分ではここがきたときは止めようと思っています。おかげさまで7回完歩することができました。その中で歩いていて一番面白かったのが3つほどあります。

 一つ目は大腸がんと、肝臓がんをやり俺はもう死ぬんだという・・・しかし最後に死ぬ前に何か一つ残して死にたい。歩いて死にたいという馬鹿がいました。それで私の友達がじゃあみんなでそれをサポートしよう。彼の荷物はみんなで持とう。100キロですからいろいろ着替えも必要です。水も必要です。ところが3回も4回もがんをやっていまして、高血圧・肥満。この男がどうしても歩きたい。根性だけはある男ですから一生懸命練習をしまして本番に臨んだのですが、あと15キロくらいというところで倒れました。何でかというと低血糖でした。我慢して食べないでいたと。そこで一緒に歩いていた友達の医者が「ばかやろう!」とチョコレートを食べさせ、バナナを食べさせ、パチパチとやりましたら生き返りました。そこから歩き始めて制限時間5分前に到着しました。その男は嬉しくて泣いていました。

 二つ目がそういったことをボランティアでやっている可愛い女の子がいまして、その子が私もどうしても歩きたいと。みんなで車椅子を補強して、平地はその子が押して、峠は私たちが引っ張って、それも制限時間ギリギリでクリアしました。

 三つ目は不登校といいますか二十歳にもなって家でプラプラしている息子を連れて私の友達の某会社の役員が一緒に歩きました。息子リタイア親父完歩。息子がどうしたかといいますと、もう一年やりました。完歩して立ち直りました。親父のそれを見ていて。すごいなと思いました。

話がずいぶんそれましたが、私、熊本にきまして歩く仲間を募集しております。何故このよう話をしたかというと、キルケニーの生、ギネスの生を飲ませるアイリッシュパブが大津に生き残っている。経営者の心意気が何より志が嬉しい。潰してしまってはフィッシュ&チップスもクラムチャウダーもありつけなくなる。そこで一つ考えました。ウォーキングの終点をここにすれば良い。駅にも近いし、何より大津温泉と菊陽温泉が近くにある。それには「歩いて行ってやろう」というのが今日の結論です。どうやって行くか? コースが3つあります。

1コース オーソドックスコース(花畑基点約15km・3時間)
水道橋を渡って白川沿いの土手を歩いて小磧橋渡る。(大体40分)→旧57号線に沿って→武蔵塚公園で一休み。(1時間25分)→鉄砲小路→菊陽温泉(400円)→三里木→大津(JR)→スライゴー

2コース 多少きつめ(30km・6時間)
水道橋→水前寺→江津湖→沼山津(四時軒)→秋津川→グランメッセ→白川土手→大津温泉→スライゴー
いい景色です。日本有数。特に、江津湖の端から端までと秋津川が非常に綺麗。今はちょうど鴨もいるし、ひょっとしたら白鳥もいます。さらに、白川も北の方はとても綺麗です。

3コース 1と2の真ん中
黒髪→立田山→運動公園→白川土手→原水の温泉→大津(JR)→スライゴー

 キルケニーかギネスを飲んで、クラムチャウダーをおかずにして、あるいはフィッシュ&チップスを食べて帰る。安いですよ。JR400円・温泉400円・アイリッシュパブが大体2500円です。ゴルフに比べるとこんないいことはありません。ということで歩きながら、一生懸命Irish dishesをやってくれている店を熊本から消してはいけないと思っておりまして、私なりに私設応援団を作りながら私の趣味と実益を兼ねてこれからやろうと思っております。

 ご希望の方は是非ご参加いただきたいと思います。私、新参者ではありますがKABで電波を通して県の皆様方にいい情報をお伝えしていけたらと思っております。

植田義浩氏(2009年12月19日)

植田義浩氏(2009年12月19日)