カテゴリー
2 小泉八雲(ラフカディオ・ハーン) 2-3 小泉八雲の生涯

ラフカディオ・ハーンと移民

西川盛雄(熊本大学名誉教授)
2009年(第11期)市民講座「ラフカディオ・ハーンとアイルランド文化」(5回シリーズの第5回)
小泉八雲熊本旧居

 ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は19歳の時(1869年)にイギリス北西部の工業都市リヴァプールの港からアイルランドの移民船に乗ってアメリカに渡っていった。着いた処はニューヨークでその後列車でシンシナティに向かっている。この船は大西洋を横切るに際して棺桶船とも言われ、乗船はしたものの航海途中で沈没したり、飢えや病気で多くの人が船中で死に、やっと目的地に着きはしたもののその有様は凄惨を極めた。 
 ハーンは1863年9月、13歳の時にダラム州アショーにあるカトリック系の聖カスバート神学校に入学した。両親の離婚により孤児となったハーンを将来カトリックの聖職者にしたいと考えた後見人の大叔母サラ・ブレナンの意向に沿ったものであった。16歳で学校で左目を失明した上、この大叔母が近親のモリヌーの投機事業に参画して失敗し、財産を失う。その結果として大叔母はハーンの学費支援ができなくなり、翌年にはハーンは17歳で退学を余儀なくされる。その後1867年秋から1868年まではかつて大叔母に仕えていた奉公人の伝手でロンドンに出て働くがここでの生活は身の置き場の無い悲惨な有様であったという。
 ロンドン滞在中のイギリス王朝はヴィクトリア女王の時代であった。この時代、イギリスは十七世紀以来の大航海時代と十八世紀以来の産業革命の遺産によって大いに栄え、都市化が進み、富裕層はますます富を増やし、貧民層はますます貧しくなり、両者間の格差が大きく開いていった。そして大英帝国の国力が増す反面、社会の底辺では出稼ぎの他民族の流入があり、スラム化が進み、人々のモラルも歪んでいった。ハーンはこの時、当時の西洋文明の代表格であるロンドンの場末や裏側にある社会の不条理をつぶさに体験し、その闇の部分をみていたのである。
 ハーンはこの理不尽さに満ちたロンドンを抜け出し、何とか新しい世界への脱出を図ろうと願っていたとしても不思議ではない。彼なりの旧世界を捨てて新世界に向かう志は抗うべくもないところまで来ていた。ハーンにとって<旧世界>とはロンドンのような文明の確立された強く大きな西洋であった。<新世界>とは未知の神話や豊かな自然の溢れた非西洋であった。時丁度アイルランドの人々はジャガイモ飢饉の後、本国で食べていけず、移民船に乗って祖国を脱出、新天地であるアメリカを目指していたのである。アメリカからすれば、当時南北戦争後奴隷制度が廃止され、西部開拓の波に乗って鉄道敷設や町の建設など、多くの労働力を世界中から移民として呼び込んでいるさ中であった。
アイルランドの歴史は対イングランドとの関係の在り方が反映されている。イングランドはすでにヘンリー二世の時期、1171年にアイルランドに侵攻している。16世紀の後半にヘンリー八世が英国国教会を作り、王権がローマ法王権から独立した権限を有するようになった。娘のエリザベス一世もこれを踏襲した。大航海時代のイギリスの勢力拡大に伴って英国国教会の力も大きくなった。17世紀半ば、清教徒革命を率いたオリヴァー・クロムウェルは王を処刑した勢いのままアイルランドに侵攻、この地を徹底的に破壊した。その後の名誉革命を果たしたオレンジ公ウィリアムもまたアイルランドには厳しい統治を行い、宗主国イギリス、属国アイルランドという構図を作り上げた。当然のことながらアイルランド側からは恨(はん)の情とケルトの誇りを籠めてイングランドに対抗し、古来からのケルト文化を守り、自治の権利を求め、やがて国権の独立を求めて各種自立への運動が起こってくるのである。深刻なジャガイモ飢饉が発生したのはそんな中、1845年から1848年頃にかけてであった。それでも宗主国イギリスはアイルランドからの食物輸出を禁ずることはなく、飢饉にあって食料は依然として海外に流れ出たままにしていた。加えてイギリス国教会のアイルランド・カトリックへの宗教的支配、さらには土地法など政治的・社会的圧迫は止むことはなかった。その結果として多くのアイルランド人の生活は破綻し、祖国を離れ、新興の「新世界」に向かって「脱出」することを余儀なくされたのである。
 ハーンは父方よりアイルランドの血を引いている。幼い頃は両親離婚という憂き目はあったにしても大叔母は破産前はハーンを大切にして、トレモアの別荘や北ウェールズのバンゴールやカナフォンに連れて行ってくれ、教育も家庭教師をつけてそれなりに大切にしてくれた。そしてアイルランドの伝説や民話、歌謡や音楽や踊りに触れて必ずしも負の不愉快な思い出ばかりではなかった。イングランドのダラムやロンドンで経験したこととは対照的にアイルランドの庶民の人々に心を寄せながらハーンはアメリカ行きを決心したとしても不思議ではなかった。かくしてハーンは19歳で移民船に乗ってアメリカに行くことを決意し、ヨーロッパを記憶の中に生涯にわたって封印したのである。
ハーンは渡米の後ヨーロッパを背後にしたまま二度と訪ねることはなかった。「父」に繋がるヨーロッパを捨てたのである。パトリックというアイルランドに繋がるファーストネイムは捨て、ラフカディオというギリシャと「母」に繋がるミドル・ネイムを生涯保持した。筆者は<名>を捨てるというこの心理的節目を「断念」としておきたい。この頃ハーンは絶望の中で辛くも耐え、理想ではなくニヒリスティックなリアリズムが働いていたと考えられる。このニヒリスティックなリアリズムはアニミズムの世界に繋がっている。ハーンがゴースト的、霊的な実在にコミットして『怪談』など後に再話文学を創作していく所以である。
 思うにハーンは楕円を髣髴とさせてくれる二焦点モデルで説明できると思われる。一つの焦点はバーナキュラーな土着的、風土的、神秘的な視点である。これはこの世ならざるゴーストや妖精の世界に繋がる。ハーンの「三つ子の魂百まで」の世界を形成していたギリシャやアイルランドの土着的神秘主義的世界は民俗学的な世界に繋がっている。これはその土地ならではの文化の力となるものである。今一つは合理的、科学的な視点である。ハーンが記者として科学評論の記事を多く書き、教え子や息子一雄の将来についてのアドバイスは実学、実用的な仕事につくように勧めているのはこの視点が働いていた結果である。そしてこれは国境を越えるグローバルな文明を作り上げる力となるものである。西洋文明とは概ね後者の合理的、科学的な視点を機軸として築かれたものであった。これに対して非西洋とは土着的、風土的、神秘的、そして神話的な視点を機軸として成り立っている。ハーンはこの二つの焦点が鬩ぎ合いながらどちらかといえばギリシャやケルトの文化に繋がって言葉(作品)を発していったのである。このように考えるとハーンの移民船による西洋(ヨーロッパ)脱出は非西洋(クレオールのフランス領西印度諸島のマルティニク島や日本)への積極的な門出の一歩であったように思われる。

西川盛雄氏(2009年11月14日)
西川盛雄氏(2009年11月14日)

市民講座の様子(2009年11月14日)
市民講座の様子(2009年11月14日)