市民講座『ハーンの遺作「日本 一つの試論」』のお知らせ

市民講座『ハーンの遺作「日本 一つの試論」』を開講いたします。

『ハーンの遺作「日本 一つの試論」』と題し、坂本弘敏氏による市民講座を開講いたします。受講申し込みは不要ですので、お気軽にお越しください。駐車場が少ないため、公共交通機関のご利用をおすすめいたします。

ハーン会心の自信作「日本 一つの試論」は、神道を主軸にして日本社会の形成と特徴を論述し、生きる上での示唆や手がかりを提供しております。生涯の研究テーマでもあった神道や仏教をハーンはどう理解し、西欧にどう発信したのかについて逸話を交えながら、ご一緒に考えてみたいと思います。

ラフカディオ・ハーンと移民

西川盛雄(熊本大学名誉教授)
2009年(第11期)市民講座「ラフカディオ・ハーンとアイルランド文化」(5回シリーズの第5回)
小泉八雲熊本旧居

 ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は19歳の時(1869年)にイギリス北西部の工業都市リヴァプールの港からアイルランドの移民船に乗ってアメリカに渡っていった。着いた処はニューヨークでその後列車でシンシナティに向かっている。この船は大西洋を横切るに際して棺桶船とも言われ、乗船はしたものの航海途中で沈没したり、飢えや病気で多くの人が船中で死に、やっと目的地に着きはしたもののその有様は凄惨を極めた。 
 ハーンは1863年9月、13歳の時にダラム州アショーにあるカトリック系の聖カスバート神学校に入学した。両親の離婚により孤児となったハーンを将来カトリックの聖職者にしたいと考えた後見人の大叔母サラ・ブレナンの意向に沿ったものであった。16歳で学校で左目を失明した上、この大叔母が近親のモリヌーの投機事業に参画して失敗し、財産を失う。その結果として大叔母はハーンの学費支援ができなくなり、翌年にはハーンは17歳で退学を余儀なくされる。その後1867年秋から1868年まではかつて大叔母に仕えていた奉公人の伝手でロンドンに出て働くがここでの生活は身の置き場の無い悲惨な有様であったという。
 ロンドン滞在中のイギリス王朝はヴィクトリア女王の時代であった。この時代、イギリスは十七世紀以来の大航海時代と十八世紀以来の産業革命の遺産によって大いに栄え、都市化が進み、富裕層はますます富を増やし、貧民層はますます貧しくなり、両者間の格差が大きく開いていった。そして大英帝国の国力が増す反面、社会の底辺では出稼ぎの他民族の流入があり、スラム化が進み、人々のモラルも歪んでいった。ハーンはこの時、当時の西洋文明の代表格であるロンドンの場末や裏側にある社会の不条理をつぶさに体験し、その闇の部分をみていたのである。
 ハーンはこの理不尽さに満ちたロンドンを抜け出し、何とか新しい世界への脱出を図ろうと願っていたとしても不思議ではない。彼なりの旧世界を捨てて新世界に向かう志は抗うべくもないところまで来ていた。ハーンにとって<旧世界>とはロンドンのような文明の確立された強く大きな西洋であった。<新世界>とは未知の神話や豊かな自然の溢れた非西洋であった。時丁度アイルランドの人々はジャガイモ飢饉の後、本国で食べていけず、移民船に乗って祖国を脱出、新天地であるアメリカを目指していたのである。アメリカからすれば、当時南北戦争後奴隷制度が廃止され、西部開拓の波に乗って鉄道敷設や町の建設など、多くの労働力を世界中から移民として呼び込んでいるさ中であった。
アイルランドの歴史は対イングランドとの関係の在り方が反映されている。イングランドはすでにヘンリー二世の時期、1171年にアイルランドに侵攻している。16世紀の後半にヘンリー八世が英国国教会を作り、王権がローマ法王権から独立した権限を有するようになった。娘のエリザベス一世もこれを踏襲した。大航海時代のイギリスの勢力拡大に伴って英国国教会の力も大きくなった。17世紀半ば、清教徒革命を率いたオリヴァー・クロムウェルは王を処刑した勢いのままアイルランドに侵攻、この地を徹底的に破壊した。その後の名誉革命を果たしたオレンジ公ウィリアムもまたアイルランドには厳しい統治を行い、宗主国イギリス、属国アイルランドという構図を作り上げた。当然のことながらアイルランド側からは恨(はん)の情とケルトの誇りを籠めてイングランドに対抗し、古来からのケルト文化を守り、自治の権利を求め、やがて国権の独立を求めて各種自立への運動が起こってくるのである。深刻なジャガイモ飢饉が発生したのはそんな中、1845年から1848年頃にかけてであった。それでも宗主国イギリスはアイルランドからの食物輸出を禁ずることはなく、飢饉にあって食料は依然として海外に流れ出たままにしていた。加えてイギリス国教会のアイルランド・カトリックへの宗教的支配、さらには土地法など政治的・社会的圧迫は止むことはなかった。その結果として多くのアイルランド人の生活は破綻し、祖国を離れ、新興の「新世界」に向かって「脱出」することを余儀なくされたのである。
 ハーンは父方よりアイルランドの血を引いている。幼い頃は両親離婚という憂き目はあったにしても大叔母は破産前はハーンを大切にして、トレモアの別荘や北ウェールズのバンゴールやカナフォンに連れて行ってくれ、教育も家庭教師をつけてそれなりに大切にしてくれた。そしてアイルランドの伝説や民話、歌謡や音楽や踊りに触れて必ずしも負の不愉快な思い出ばかりではなかった。イングランドのダラムやロンドンで経験したこととは対照的にアイルランドの庶民の人々に心を寄せながらハーンはアメリカ行きを決心したとしても不思議ではなかった。かくしてハーンは19歳で移民船に乗ってアメリカに行くことを決意し、ヨーロッパを記憶の中に生涯にわたって封印したのである。
ハーンは渡米の後ヨーロッパを背後にしたまま二度と訪ねることはなかった。「父」に繋がるヨーロッパを捨てたのである。パトリックというアイルランドに繋がるファーストネイムは捨て、ラフカディオというギリシャと「母」に繋がるミドル・ネイムを生涯保持した。筆者は<名>を捨てるというこの心理的節目を「断念」としておきたい。この頃ハーンは絶望の中で辛くも耐え、理想ではなくニヒリスティックなリアリズムが働いていたと考えられる。このニヒリスティックなリアリズムはアニミズムの世界に繋がっている。ハーンがゴースト的、霊的な実在にコミットして『怪談』など後に再話文学を創作していく所以である。
 思うにハーンは楕円を髣髴とさせてくれる二焦点モデルで説明できると思われる。一つの焦点はバーナキュラーな土着的、風土的、神秘的な視点である。これはこの世ならざるゴーストや妖精の世界に繋がる。ハーンの「三つ子の魂百まで」の世界を形成していたギリシャやアイルランドの土着的神秘主義的世界は民俗学的な世界に繋がっている。これはその土地ならではの文化の力となるものである。今一つは合理的、科学的な視点である。ハーンが記者として科学評論の記事を多く書き、教え子や息子一雄の将来についてのアドバイスは実学、実用的な仕事につくように勧めているのはこの視点が働いていた結果である。そしてこれは国境を越えるグローバルな文明を作り上げる力となるものである。西洋文明とは概ね後者の合理的、科学的な視点を機軸として築かれたものであった。これに対して非西洋とは土着的、風土的、神秘的、そして神話的な視点を機軸として成り立っている。ハーンはこの二つの焦点が鬩ぎ合いながらどちらかといえばギリシャやケルトの文化に繋がって言葉(作品)を発していったのである。このように考えるとハーンの移民船による西洋(ヨーロッパ)脱出は非西洋(クレオールのフランス領西印度諸島のマルティニク島や日本)への積極的な門出の一歩であったように思われる。

西川盛雄氏(2009年11月14日)

西川盛雄氏(2009年11月14日)


市民講座の様子(2009年11月14日)

市民講座の様子(2009年11月14日)

ラフカディオ・ハーン漂泊の軌跡 -ヨーロッパからアメリカへ-

 2009年11月7日14時から、熊本大学くすの木会館レセプションルームにて、「ラフカディオ・ハーン漂泊の軌跡 -ヨーロッパからアメリカへ-」と題し、ヨーロッパ時代とアメリカ時代のハーンについて、基調講演とシンポジウムが開催されました。
 熊本大学学長の谷口功氏より開会のご挨拶があり、続いて司会の中村青史氏がハーンの孫にあたる稲垣明男氏(*注1)をご紹介され、基調講演「ヨーロッパ時代のハーン -ハーン実母の墓標とその子孫を訪ねて-」をお話ししていただきました。
 シンポジウムでは、パネリストに教授の福澤清氏、客員教授・名誉教授の西川盛雄氏、准教授のアラン・ローゼン氏、司会に中島最吉氏をむかえ、「アメリカ時代のハーン」をシンシナティ時代、ニューオーリンズ・マルティニーク時代、ニューヨーク・フィラデルフィア時代に分けてお話を頂戴し、会場からのご質問にもお答えいただきました。
 また、熊本大学マンドリンクラブによる「ロンドンデリーの歌」「フォスター・ラプソディー」の演奏もあり、拍手喝采を浴びていました。

 (*注1)ハーンの次男稲垣巌氏の長男にあたります

基調講演中の稲垣明男氏

基調講演中の稲垣明男氏

掛け軸 女性の足がない!?

掛け軸 女性の足がない!?

シンポジウムの様子

シンポジウムの様子

熊本大学マンドリンクラブの演奏

熊本大学マンドリンクラブの演奏

  熊本アイルランド協会事務局

ハーンが書かなかった作品(Lafcadio Hearn’s Unwritten Works)

アラン・ローゼン(Alan Rosen)(熊本大学准教授)

2009年(第11期)市民講座「ラフカディオ・ハーンとアイルランド文化」(5回シリーズの第4回)

熊本大学五高記念館

本講座を音声(mp3)でお聴きになれます。 

 

IN THE UNITED STATES
1. Collection of musical legends.
“I have been thinking that we might some day, together, work up a charming collection of musical legends: each legend followed by a specimen-melody, with learned discussion by H. Edward Krehbiel. But that will be for the days when we shall be ‘well-known and highly esteemed authors.’” (New Orleans 1883)

2. Financial novel.
The houses eleven stories high, that seem trying to climb into the moon, -the tremendous streets and roads, -the cascading thunder of the awful torrent of life, the sense of wealth-force and mind-power that oppresses the stranger here, -all these form so colossal a contrast with the inert and warmly colored Southern life that I know not how to express my impression. I can only think that I have found superb material for a future story, in which the influence of New York on a Southern mind may be described. … (Letters from the Raven 85-6; my emphasis)
But he eventually gave up this idea. Why?
But in such great cities [New York, London] I do not think a literary man can write any literature. …. Society withers him up–unless he have been born into the manner of it; and the complexities of the vast life about him he never could learn. Fancy a good romance about Wall Street-so written that the public could understand it! There is. of course, a tremendous romance there; but only a financier can really know the machinely, and his knowledge is technical. (XIV 292-93; my emphasis)

3. Medical novel.
Apropos of a medical novel, again-have you had occasion to remark the fact that among the French, every startling discovery in medicine or those sciences akin to medicine, is almost immediately popularized by a capital story? (XIV 22)
 I don’t like your plot for a medical novel at all. It involves ugliness…. Then your plot is too thin. It has not the beauty nor depth of that simple narrative about a famous painter, or writer-I forget which-whose imagination rendered it impossible for him to complete his medical studies…. He had to abandon medicine for art. A very powerful short sketch might be made of this fact.
 I believe in a medical novel-a wonderful medical novel. We must chat about it. Why not use a fantastic element-anticipate discoveries hoped for-anticipate them so powerfully as to make the reader believe you are enunciating realities? (XIV 62-63)

 

IN JAPAN
1. Article on drinking sake.
I have become what they call a jogo-and find that a love of sake creates a total change in all one’s eating habits and tastes. All the sweet things the geko likes. I cannot bear when taking sake. By the way, what a huge world of etiquette, art, taste, custom, has been developed by sake. An article upon sake-its social rules-its vessels-its physiologlcal effects-in short the whole romance and charm of a Japanese banquet, ought to be written by somebody. I hope to write one some day, but I am still learning. (XIV 160)

2. Article on words.
You recommend me to write an article on words some day. I would like to – from my own limited point of knowledge only; ignorance of philology would here be a great drawback. But it would be infinitely painful, laborious work. Because really the art of placing words is with most of us instinctive. It would be analyzing one’s own sensations and tendencies of imagination; it would be nearly as hard as to write another “Alice in Wonderland.” (XV 441-42)

3. Book on Japanese folklore.
“Professor Chamberlain and I have a secret project in hand-a book on Japanese folk-lore.” (Ellwood Hendrick, July 1893, XIV 236)

4. Article on the disappearance of the gods.
There are no ghosts, no angels and demons and gods: all are dead. The world of electricity, steam, mathematics, is blank and cold and void. No man can even write about it. Who can find a speck of romance in it? … The Protestant world has become bald and cold as a meeting-house. The ghosts are gone. Sometimes I think of writing a paper to be called “The Vanishing of the Gods.” (Chamberlain, December 1893, XVI 84)

5. Article on Japan’s “open ports.”
Coming out of my solitude of nearly five years to stand on the deck of the Kobe Maru on the 10th, I felt afraid, I saw myself again among giants. Everything seemed huge, full of force, dignity, massive potentialities divined but vaguely. A sudden sense of the meaning of that civilization I had been so long decrying and arguing against … came upon me crushingly. … How small suddenly my little Japan became!-how lonesome! What a joy to feel the West! (Yokohama, 15 July 1894, to Chamberlain, reprinted in Allen, 277)
I have received from the gods inspiration for a paper-the Romance of the Open Ports-or, perhaps, the morality of the open ports. … I could startle the world with a paper on the ideas that came to me the other day.
… In the brief time since I got on the Kobe Maru I have learned so many astonishing things … . My imaginary hard-fisted and cold-hearted businessmen of the colonies vanish away-phantoms only; and in their places what warm human realities appear! Really there is a vast romance to be written here in a few words-with help of thoughts and illustrations from evolutional philosophy. Really, I must try later to get into this exiled Western life, and love it, and study it, and tell all the beautiful things there are in it … . (Tokyo, 17 July 1894 to Chamberlain, reprinted in Allen. 278)

6. Article on Japanese drama.
Father used to express his desire to write on Japanese ‘No’ (a type of drama) and the theatre. At the time when Dr. Tsubouchi was praising ‘Ten-no-Amishima’ of Chikamatsu, father was asked about translating them, with the view to introducing them to foreign countries. But the plot of the story, where a man leaves his wife and child to elope with another woman, was against his belief, so he declined to undertake it (Father and I, 10)

7. Article on inter-racial marriage.
Father, one day, remarked to mother about the bad results from marriage of close relatives. But inter-racial marriage produced bad results too, he thought He was thinking of writing on the subject to a foreign paper. When he consulted his wife, she replied. ‘You are a product of inter-racial marriage-but are you a poor product?’ He replied, ‘At times I think I am a very poor result, almost a waste. This is a result of a very distant inter-racial marriage, I think. So, I just thought that I would write about.’ ‘But,’ mother said, ‘you write about such a thing, but you and I are two different races and what about our children? Is it right to acclaim to the world the poor product of such a marriage?’ He said to her, ‘Do you think so?’ and he tore up his manuscript. I think of that manuscript now and imagine all sorts of things. (Father and I, 13)

There is abundant proof, alike furnished by the intermarriages of human races and by the interbreeding of animals, that when the varieties mingled diverge beyond a certain slight degree the result is inevitably a bad one in the long run. . . . -there arise an incalculable mixture of traits, and what may be called a chaotic constitution. (Letter from Herbert Spencer to Baron Kaneko Kentaro, August 1892, XII 461)

Mimi-nashi-Hoichi-耳といれずみの話

小野友道(熊本保健科学大学学長)
2009年熊本アイルランド協会総会卓話
鶴屋百貨店東館7Fカーネーションサロン

 私どもが耳と呼んでいる部分は医学的には「耳介」といいます。耳介は耳輪・耳垂とか13箇所にも分けて解剖学的名称が付けられております。ヒトにおいては音の集音効果は余りありませんが、動物においては耳介を動かして、つまり耳をそばだてて音を聞くことはきわめて重要なことです。この耳介を気にして、耳介それも左耳ばかり造り続けた彫刻家がいます。三木富雄です。耳の何処に魅せられたのでしょうか。耳といえば、鎌倉の高僧明恵やゴッホが浮かびますが、どちらも自分で右の耳をそぎ落としています。明恵は修行のために、ある夜、仏眼仏母の前で、耳を切ってしまうのです。一方、ゴッホも右の耳を切り落とし、娼婦ラシェルに届けた話がありますが、今年5月の新聞記事は口論の末ゴーギャンが剣を振りかざし、ゴッホの耳を切ってしまったという説が新たに出てきました。
 さて、Hoichiは両側の耳です。阿弥陀寺の住職により全身に“Hannya Shin-kyo”を書き込まれました。それは平家の亡霊から逃れるためでした。私はこの書き込みをいれずみと捉えております。
 白川静によると文身には瘢痕いれずみ、針で刺すいれずみ(入墨)、そして一時的に文様を描き加える絵身の3つがあると指摘しています。それに従えばHoichiのそれはまさに絵身ではないでしょうか。白川の文身の定義は「何らかの儀礼的な目的をもって加えられる身体装飾」とし、「屍体を聖霊化するにはもとより絵身の方法がとられたであろうと述べています。古くから亡霊、怨霊などに対して陀羅尼などを唱えると同様に、身体にそれらを書き込むことはなされていたでしょう。いわゆる入墨にも信念や護符の目的で「南無阿弥陀仏」などを彫る者が少なくありませんでした。
 西成彦先生は、Hoichiのは「ただ文字を皮膚に書き込んだものではない。皮膚をなぞる筆が薄皮で蔽うようにしてむきだしの芳一の全身に衣をかけるように筆をあやつり、盲目の琵琶法師は、般若心経という闇を衣のように身に纏う」と述べておられます。それはまさに宗教的儀式であり、絵身いれずみに他ならないのではないでしょうか。
 上海の国際的芸術家Ziang Huanが2007年ニューヨークでの個展で、自身の顔・額そして坊主頭に「家系図」をびっしりと書き込むパフォーマンスをしましたが、やはり耳だけには書き込みがみられません。まさに現代のMimi-nashi-Hoichiです。彼がなぜ耳だけ残したか、やはり耳には特別の何かがあるのでしょうか。
 ピアスを飾り、めがねを支え、そしてインフルエンザ予防のマスクがかかる場としての耳、熱いものに触った時、思わず指を持ってゆく冷たい耳は、それほど複雑でもない構築をした身体のごく一部なのですが。
 本日は拙い卓話に耳を傾けてくださいましてありがとうございました。

参考文献
小野 友道:いれずみ物語, 大塚薬報, NO.634, 2008
西 成彦:盲者と文芸/ハーンからアルトーへ, 国文学, 49(11), 1994