カテゴリー
1 お知らせ 1-2 熊本アイルランド協会の歩み

熊本アイルランド協会創立10周年記念講演

駐日アイルランド大使 ポドリグ・マーフィー閣下

皆様ご存知のように、ラフカディオ・ハーンは、ここ熊本大学の前身である第五高等学校でラテン語と英語の教鞭をとるため、1891年末に熊本に到着しました。ハーンがただちにこの地を好きにならなかったことを否定しては、記録に不忠実でありましょう。反対に、彼は、自ら記したように、「兵隊たちが駐屯する、まとまりのない、退屈で、不体裁なヨーロッパナイズされた都市と、官立学校の味気ない赤レンガ」に意気消沈したわけです。ハーンを襲ったのは、魅惑状態からの脱却で、これから自分は老年期に入り、「19世紀の悲しみに耐え忍ばねばならない」と記しています。「永遠に明治以前に戻れたら」と彼は記しています。「時をさかのぼり、天保時代、または1400年前の雄略天皇の時代に戻れたら、どんなにいいか。昔の扇子、昔の屏風、小さな村、そのような生活が、私が愛する本当の日本なのです。どういうものか、私には熊本が日本のようには思えません。私は嫌いです。」

ハーンは近代化の中で日本が変わっていくことに動転しました。時計を逆回転させたいと願ったのです。もっと痛烈な非難を述べています。

(以下、平井呈一先生の訳を引用させていただきます)
「こうして日本は、わざわざ伝授料を出して、自然の陰影、人生の陰影、思想の陰影の見方を学んだのである。そこで西洋人は、影にもいろいろある、神聖なる太陽の本分は影を作ることにあること勿論だが、あれはしかし、どちらかというと、影は影でも安価な影だ、もっと高価な影ということになると、これは西洋文明が一手に製造しているのさ、といって、しきりと陰影を礼賛して、君たちもぜひこれを採用したまえと言ってすすめた。日本人は、そのとき、機械の影や、煙突の影や、電柱の影を見て、一驚した。鉱山や工場の影、あるいは、そこに働いている人たちの心のなかの影、そういうものを見ておどろいた。20階もある高層家屋の影、その下で物乞いをしている飢餓の影、貧困者をいやが上にもふやすばかりが能のおびただしい慈善の影、悪徳を増すばかりの社会改善の影、インチキと偽善と燕尾服の影、あるいは、火あぶりの刑にあわせるために人間をつくったといわれる異教の神の影。こういう影を、それからそれへと見せられた日本人は、そこまできて、ようやく本心に立ち戻って、それ以上影絵を学ぶことをきっぱりと拒絶したのであった。全世界にとって、まことにしあわせだったことには、日本は、この時いらい、ふたたび、比類なき自国本来の芸術に立ち戻ったのであった。日本が、日本自身の美の信念に、ふたたび立ち戻ったということは、日本自身にとっても、まことにしあわせなことであった。しかし、いったん習いおぼえた影は、いまでもやはり、多少は身にこびりついている。これをすっかり剥ぎおとしてしまうことは、おそらく、日本人にも、もはやできない業だろう。かつては宇宙の万象が、あれほど日本人に美しく見えたように、今後もう二度と日本人の目に映ずるようなことは、まずあるまい。
-引用終わり-

これは私にもよく解る観点であり、われわれ全員が同感できることだと思います。

なぜ私にこれがよく解るかといえば、それは私の一生の間に、アイルランドも、その魅力を失ったと見ることができるからです。60年前、もっとも有名なアイルランドの大統領の一人であるエーモン・デ・バレラは、アイルランドのナショナル・デーであるセント・パトリックス・デーに理想のアイルランド像ついて語りました。

「われわれが夢みるアイルランドとは、物質的豊かさをまっとうな暮らしの基礎であるとだけ考える人々、質素な楽しみに満足し、余暇を精神的活動に使う人々の集まる国でありましょう。その田園は居心地のよい農場であかるくかがやき、野や村には勤勉な人々の声や、元気な子供の遊ぶ声、筋骨たくましい若者の競いあう声、見目美しい乙女たちの笑い声で喜びかえる。そして、暖炉の周りでは落ち着いた老人たちが知恵を出し合い語り合う、そんな国であります」

現実はこのようにはなりませんでした。少なくとも、物質的豊かさに対する価値観や、質素な楽しみに満足すること、また精神的活動に没頭する点においては違っています。

アイルランドの経済発展は、日本よりずっと遅れてきました。10数年前に経済の著しい発展が始まり、数年間、OECD加盟国で最高の10%を超える成長を続けた後、現在は、EU諸国の中で、スウェーデン、ルクセンブルグ、デンマークにつぐ第4位の一人当たりGDPを持つようになりました。たった20年前にはヨーロッパの貧者といわれていた、それからの変身には、すべての変身がそうであるように、人を夢中にさせるものがあります。ですが一方、アイデンティティーというものは頑固なものです。たとえば、日本は世界第二の経済大国であるにもかかわらず、日本の自己認識は小国のまま、または、50年以上前の敗戦からくる犠牲者としてのイメージを持っています。アイルランドも同様に、数世紀にわたり、歴史のくじ引きの中の敗者として自らを見てきました。また、もちろん、日本と違ってアイルランドは事実、小さな国です。19世紀の末にラフカディオ・ハーンが日本について思ったように、アイルランドも最近まで、アイルランドには独特の牧歌的なあり方があるのだという幻想にとらわれていました。ですから、われわれは新しく起きた繁栄をうまく受け入れられないのです。

イメージと現実の分離は、少なくともアイルランドの場合、いくつかの問題を引き起こしています。アイルランドの場合は、過去の時代から引きついだ構造の不適切性-新しい時代的要求に調和しないことから起きています。物理的なインフラにおいても、アイルランドは19世紀型施設を21世紀型経済にあった新施設に改変しようと苦悩しており、たとえば地上輸送の分野で懸命の努力をしています。ある意味では、アイルランドは急に成長して服が窮屈になったティーンエージャーといったところでしょうか。

そして、アイデンティティーの問題が出てきます。アイルランドには独特のあり方があるという考えも含めた、強烈な愛国主義的思考の時代は過去のものとなりました。強烈な愛国主義的思考は、強いアイデンティティーの意識とつながっています。過度の愛国主義的思考の消失は非常に歓迎するものですが、それにともなうアイデンティティーの欠損は、より問題です。

この問題は、昨年ごろから、興味ある形で現われています。アイルランドは特にアメリカ合衆国などの外国からの投資を多く受け、それが90年代の高度成長を推進する重要な要素でありました。これに伴い、グローバライゼーションこそが国家の発展をもたらす最も重要な要素であるといった考えが起こり始め、「古いヨーロッパ」は将来、この波にのまれてしまうだろうと考える人が現れ始めました。こういった考えが、2001年にアイルランド副首相をもって、アイルランドはベルリンよりボストンに近いと思うと言わせたのです。時と場合によっては、これは頭韻を踏んだ無害な演説だと受け取られるでしょう。

しかし、2001年6月に、その問題が浮き彫りになったのです。アイルランドではニース条約の批准をめぐる国民投票が予定されていました。ニース条約は、EU拡大に道を開くためにEUの基本的条約の複雑な調整をするための条約です。アイルランドが1973年にEUに加盟して以来、4件以上このような国民投票が行われましたが、いずれも楽に可決されてきたという事実と、アイルランドがEU加盟国として享受してきたすばらしい経験を考慮すると、この国民投票は問題なく可決するというのが普遍的な予想でした。主要政党はその予想に満足し、そのすべての政党が批准に賛成であったのにもかかわらず、政治運動を活発に行いませんでした。

同時に反対派は、批准用に提出された複雑な法律文書を平易に否定的に解釈し、比較的楽なキャンペーンを展開したのです。結果は非常に低い投票率で、反対派が小差で勝利しました。政府は大変に困難な立場に追い込まれたのです。ニース条約を批准しなければ、政治的に重要なEU拡大が前進しないからです。アイルランドの人々は、本当にベルリンよりボストンに近いのかどうかを真剣に考えなくてはなりませんでした。アイルランドによる批准がなければ、ニース条約の発効はなく、EU拡大は挫折するので、どうしてもふたたびこの問題を国民に問う必要がありました。

一年後、国民投票による批准を求めた運動は再開されました。今度はすべての既成政党が十分にかかわり、結果として何が問題なのかを選挙民がしっかりと理解したわけです。投票の結果、アイルランド国民にとって、ベルリンは少なくともボストンと同様に重要だということが明らかになりました。投票率は高く、ほぼ2対1の比率で人々は批准に賛成したのです。

そしてそれは批准されましたが、アイルランドのEU加盟国としての視点が、もう以前のものではない、5年前と比べても違ってきているのは事実です。来年の5月1日より拡大する25加盟国の中では言うに及ばず、アイルランドは、現在の15加盟国の中でも既に富める国の一つとなっています。そのため、EUの予算配分では、われわれはすでに受益者から、純貢献者に移行しつつあります。EU拡大と、WTOの折衝でおそらく起きるであろう農業政策の変化により、この傾向は進む一方です。

要約すれば、今日のアイルランドは、過去15年間で非常に重要な経済発展を遂げ、世界の先進国のトップグループに入りました。国民一人当たりのGDPは世界10位です。その急速な発展の中で、アイデンティティーの問題が出てきました。古い愛国主義的に彩られたアイデンティティーが薄れたのは確かです。しかし、よく考えてみれば、EUに表されるヨーロッパ統合事業への貢献が、近代アイルランドのアイデンティティーの主要部分であるとも思われます。しかし同時に、これが国際問題におけるアイルランドの立場を完璧に表しているわけではありません。世界平和の推進と維持に、アイルランドが国際連合を中心とした活動に長年、貢献してきたことは、その選択の将来的展望の問題とともに、焦点をあてる必要があると思います。

アイルランドは問題のない国ではありません。すでにいくつかは申し上げました。近年の経済発展の速度に、特に輸送部門でのインフラが追いつかず、キャッチアップする必要があります。また、開放経済が目覚しい発展をとげる上で非常に重要な要素だったのですが、現在のように世界経済が明らかに停滞している場合には、下落の可能性にさらされることになります。また、将来は、過去の数十年に比べ、より不確かさをますように思えます。世界経済は、アメリカ経済は、再生するのでしょうか? 第二次世界大戦後、地球規模で経済発展を指導してきた機関-IMF、世界銀行、WTO、GATTの後継機関-は、過去50年間のように、将来も機能できるでしょうか? こういった疑問は、日本にとってきわめて重要であるように、アイルランドにとっても重要です。アイルランドは日本以上に世界経済の健全性、特にアメリカ合衆国経済のそれに依存しているからです。しかしながら、全体としてみれば、アイルランドは現在、あらゆる見地からして、その歴史の中で最も幸せな時期にあることを述べておかねばならないと思います。おそらく、歴史の中で初めて、すべての国民に優れた生活程度を供し、もはや移民による人口消失はなく、世界中でもっとも進んだ国家社会の一員として安定した地位を保っています。

新世紀の冒頭にある我々は、祖父母が決して信じることのできない繁栄の中に立つと同時に、彼らには想像もつかない複雑な問題をも抱えています。将来については、ふたたびラフカディオ・ハーンにもどりたいと思います。今日、私がお見うけしますに、日本は高度に洗練された近代経済国家であると同時に、2000数年の歴史に培われた文化の産物である日本の独自性をまだ明確に保持しておられます。100年前にラフカディオ・ハーンが気づいた美徳は、まだ存在し、あちこちに見受けられると、私は思うのです。ですから、もし、1890年代にラフカディオ・ハーンが抱いた悲観論が2003年に実証されていないなら、私は、わが国にもいくばくかの希望があるのではないかと思うのです。エーモン・デ・バレラの1943年に見た夢は、むなしく終わることはないのではないでしょうか?

ご清聴、ありがとうございました。

カテゴリー
4 イベント 4-4 ハーン・ワークショップ

Lecture and Study in Cincinnati and New Orleans, July and August 2001

Alan Rosen

This summer I was honored to be asked to speak on Lafcadio Hearn at the Public Library of Cincinnati and Hamilton County in Cincinnati, Ohio, the city where roughly 130 years ago this lonely and very hungry, half-Greek half-Irish boy discovered his talent as a writer and consequently changed Japan.
For me, visiting Cincinnati was especially interesting since, although I had grown up in the United States, I had never been there before.
It was the first of many “firsts” for me on this brief (one-week) but very full lecture and study trip together with about 30 enthusiastic members of the Lafcadio Hearn Society of Japan.
Though I have known the Society’s president, Professor Zenimoto, and the Kumamoto Hearn Society members for years, I was fortunate to be able to make the new acquaintance of many Hearn lovers from various parts of Japan — from Shimane and Tokyo, of course, but also from Toyama and Yamaguchi.

The speech I presented was one hour long on the topic of my recent research, Hearn and Dreams.
The weather that day was quite hot and humid, but the Library’s lecture room was very cool and comfortable. This was good and bad, I realized, as the combination of jet-lag for the Japanese listeners (it was 4 a.m. Japan time), the topic (dreams), and the extraeffort required to comprehend an academic talk in English created a nearly irresistible temptation for the Japanese audience to fall asleep. Which many of them did. Still, it was a rare pleasure for me to be able to speak about Hearn in my mother tongue and in the city of Cincinnati, about which I had read so much through Hearn’s writings.
My only concern was that I try to speak slowly enough for the Japanese members to keep up, but not too slowly so as to bore the native-speaker listeners.

There were many surprises. The first such surprise was the luxuriousness of the hotel room I was given at the Garfield Suites: apent house suite, two floors, two very spacious bedrooms, three bathrooms, a big kitchen with everything you could want including a dishwasher, and two balconies from which to enjoy views of the city.
This hotel room was largerthan my house in Kumamoto. Everyone who saw it said, “Mottainai”. I owe thanks to Dr. Tanaka and his family and to Sylvia Metzinger, the Rare Books librarian, for arranging this and many other things so perfectly.
In Cincinnati we had a custom bus-tour of the city, focussing on places related to Hearn’s life and writings.
Many of the buildings and houses are,of course, no longer standing, so it was interesting to watch many members of our tour group –including me– taking numerous photographs of empty spaces and parking lots and buildings that no longer have anything to do with Hearn except that they may be standing in a spot where we think Hearn used to do something.
Still, it was exciting to be in the same places Hearn had been.

The group’s next visit was to New Orleans. It was my first time there, too. I was dreading the heat, for it is supposedly one of the hottest cities in the US. But compared with summer in Kumamoto, it was not so uncomfortable at all. There was usually a good breeze, a tolerable level of humidity, and once you were in the shade, it was quite pleasant.
I enjoyed nearly everything about the city, and I felt I knew why Hearn had decided to live there so long.
It had polite and friendly people, excellent food (cajun and creole), charming architecture (French Quarter), live music (cajun and dixieland), and a special Southern atmosphere (full moon over the Mississippi River, a steamboat gliding down).

Our visits to the Tulane University Library, with special permission to access their collection of rare Hearn materials, were especially fruitful.
There was an abundance of manuscripts and other material that is very hard, if not impossible, to find in Japan. The staff seemed prepared for our arrival, as they were extremely helpful, kind, and tolerant of our sometimes noisy group of 30 excited visiting researchers. I did not know when I could get another chance to visit Tulane, so I thought it best tospend the entire day looking through the materials and copying, copying, copying.
My suitcase got very heavy, but I am content that I can now spend time leisurely reading over the thick stack of Hearn papers I brought back to Japan.

It was also enjoyable to be part of a Japanese tour group, not in Japan, where I have joined such tours, but in my own country.
This was another first-time experience, and I learned a lot from watching the two cultures interacting.
I was reminded that knowing the language of a countryis only the first step in intercultural communication, and that all of us who participate in the fascinating activity of crossing cultures need to continue our efforts to understand and to be understood. Wherever we went,Hearn was with us in spirit, as we all tried to be cross-cultural bridges for understanding.

カテゴリー
1-3 事務局よりお知らせ

熊本アイルランド協会のご紹介

 明治24(1891)年、五高に英語教師として赴任し、日本文化に多大な影響を与えた小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の業績を顕彰する来熊100周年記念祭が平成3(1991)年に開催されたことを契機に、日本及びアイルランド両国間の文化、学術、経済、観光等における友好交流を促進し、両国民の親善を図ることを目的に当協会は設立されました。
 当協会へのご連絡は事務局(下記)へお願い申し上げます。

  • 住所:〒862-0959 熊本市中央区白山1-6-31 熊本アイルランド協会事務局
  • 電話:096-366-5151
  • ファクス:096-372-1857
  • メール:office[atmark]kumamoto-ireland.org([atmark]を@にしてお送りください)