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3 アイルランド 3-5 アイルランドの文学

小説と経済

稲垣精一(当協会副会長、株式会社肥後銀行顧問)
聖パトリックデー熊本
熊本東急イン「羽衣の間」

 ご紹介いただきました稲垣です。長いこと銀行員生活をしてきましたから、経済とか金融とかそちらの方はある程度必要に応じて読んでおりますが、小説は余り読んでいません。アイルランド文学といっても経済と関係のある文学は聞いたことがなく、知らないので、やむを得ず「小説と経済」という題にしました。

経済小説について
 まず戦前から戦後にかけて活躍した作家に「旅愁」の横光利一がおります。横光利一の言葉の中に、「夏目漱石は金が欲しくて書いた作品が今から思うと一番よかった。いい作品だった」と漱石が言っているそうです。従来の日本というより戦前の日本といってもいいですが、日本の小説の世界に登場してくる人物は、自己本位の道楽的な職業生活者というような人が多くて、これはヨーロッパと非常に違うところです。ヨーロッパの知識人は、金銭感覚も豊かな人が多いのです。作家の中にも経済や金融の小説を書いている人が結構おられます。その代表的なのがフランスの作家でゾラです。エミール・ゾラという人に経済の小説がありますが、そこにはマルクス主義がどうだとか、どういう思想か、どういうことを言ったとか、それに対して自分はこうだとか言うようなことが結構載っています。日本の小説でそんなことを書いたのは見たことも、聞いたこともありません。それからもうひとりフランスの作家でバルザックがいます。こちらは一般の小説のほかに金貸し、高利貸しをテーマにした小説を書いて、「金融小説集」という形で翻訳もされております。これにはバルザックに出てくる主人公が主体となって、お金のやりとりとか家賃がどうだとか、国債に投資したとか数字がかなり出てきます。こういう作家は日本では非常に珍しいしまずいません。でも私たちはこういう金融とか経済とか政治とかに明るい社会人・経済人というものが出てこないことには、本当の小説にはならないのではないかと考えております。先ほど引用した横光利一の話も結局、漱石は金が欲しくて小説を書いたんだと。だから日本の作家、小説家も、やはり金銭感覚の伴うようなことを書かなければ、もはや小説家とは言えないのではないかと、言いたかったのかと思います。

横光利一と上海
 横光利一という人は「旅愁」では、パリ生活における主人公をテーマにしておりますが、その主題は西洋と東洋の対立という、甚だ思想的なあるいは政治的な話が根底にあります。それを背景に主人公はあれこれ、いろいろ行動するという形で、横光利一の代表作になっております。後でご紹介する横光利一の作品に1928(昭和3)年から31年にかけて書かれた「上海」という作品があります。ちょうど私の生まれた年くらいに横光利一が書いた作品です。この「上海」というのは、芥川龍之介から「お前とにかく上海に行って中国を見て来い」と言われて行ったというのです。それまで横光利一は、中国に行ったこともありません。当時中国というのはいわゆる世界主要国の植民地になっており、上海には至る所に各国の租界がありました。治外法権のある場所があり、そこには中国自身といえども警察権も行使できなければ何も行使できません。先進国のなすがままに放置せざるを得ない状況におかれていたのです。ですから同じ中国でも、中国の土地でありながら外国人が集中して住んでいましたので、東洋と西洋との違いというものを見出すわけです。大体同じ時期に谷崎潤一郎も中国に行っています。中国の要人、当時まだ若くて戦後も活躍した文化人で郭沫若という人がいますが、そういう方との交流があり日本人の見た中国観、中国人の見た中国観というものを対比しながら述べているところもあります。しかし、こういう類いの小説はユニークです。特に横光利一は作家でありながら、現在の日本の政治状況あるいは軍隊が中国でどういうことをしていて、中国人からどう見られているかということをテーマにしているわけです。同じ様な小説は、左翼の作家に色々あると思います。紡績業で働いている女工哀史の問題とか、あるいはプロレタリア作家の徳永直の作品はあります。しかし、横光利一のようにマルキシズム左翼に対して何の関心もない、日本の国粋主義者でもないし、ただ作家として自分のあるがままに見た中国観というものを本にして問うたという例は、ある意味では大変ユニークな例ではないかと思います。

経済小説と城山三郎
 経済事項とかあるいは経済人、社会人の入らない小説というのは小説ではないという風潮が、だんだん戦後強くなってまいりました。そこで戦後初めて経済小説と言われるジャンルが開拓されました。その第一人者は何といっても城山三郎だと思います。城山三郎は私より一つ年上で、学年は一緒、同じ先生に付いたという関係にあり、熊本にも4~5回は来て講演をしています。この人は元々名古屋の出身で、名古屋の商業学校を出てから、戦争中ですから、海軍の予科練に入りました。これは当時の特攻隊要員で、それに志願して特攻隊に入りますが、戦争に行くことなしに負けて戻って来ました。この城山青年というのは非常に愛国主義者で、日本の国のために何かをしなければということで自ら志願し、軍隊の崇高な理念に共鳴して入りました。ところが実際に入ってみたら軍隊はとんでもないところで、理想とは天国と地獄のような違いがあり、そのむごたらしさにうんざりして敗戦を迎えたということです。ですからそういうような思いを胸に秘めながら、日本の国のあるべき姿を考えていきたいということで経済学というものを選び、一橋大学を出てから名古屋の愛知教育大学の先生をしていました。大学では景気論、今は景気変動論というのでしょうか、景気が色々良くなったり悪くなったりするメカニズムを解明するという学問の領域です。こういう学問をしていまして、私も同じですが、一番気になるのは経済の中で経済人とか社会人とかいう人の動き行動の結果です。ところが当時の経済学、今でもそうだと思いますが、経済学にはおよそ人間というものは全く出て来ません。これはもともとの学問の生い立ちから言って、自然科学の分野を経済の分野に応用して出来た学問ですから大変物理的です。ですからそこには人間なんてカケラもなく、人間の痛みとか喜びとか悲しみとかは全く出て来ないのです。ところが実際の我々の生活は喜びがあり悲しみがありという形で成り立っているし、隣近所、ご近所様との関係とか、あるいは学校で何をしたとかいうようなことで成り立っている生活なのです。要するに、学校で教えていただいている経済学と現実に私たちが見る経済学というのは全く違うというところに、幻滅感を感じたのです。そこで彼の行動にあらたに出てきたのが、学問ではとても無理だから小説の分野で人間を書いてみようということが、城山文学の恐らく出発点ではなかったろうかと思います。

経済小説の中に人物を描く
 人間の生活になると、きれい事ばかりでは済まず、汚いことや裏側にドロドロした生身の体の人間が介在するわけです。そういうものをどうやって表現するか、そういうことを書かなければ、本当の人間の動きというものはわからないといえます。城山三郎「総会屋錦城」では直木賞を取りましたが、総会屋の話です。戦前から日本の社会には総会屋というのが存在しました。社会悪として、むしろ必要悪と言いましょうか、むしろ企業が抱えていたという状況です。だから言ってみれば裏の世界に住む人の話ですから表には全く出て来ません。それまでまともな小説や随筆を書いたのに対して、実際の総会屋が読み「こんなことじゃ世の中わかるはずないよ」と言ったことに気がついて、それで総会屋に取材をしに行って書いたのが「総会屋錦城」という、非常に当時としてはテーマに総会屋を選んだ珍しい小説であったわけです。それをきっかけにして色々な作品を書いております。例えばスーパーのダイエーを創設した中内功さんをモデルにした「価格破壊」とか、群馬の足尾鉱山の公害に対して当時の田中正造は、公害をいかに除去させるかという反対運動をもって会社と対抗しました。その会社は現在の古河機械金属工業という会社ですが、それに対して対抗して恐らく公害事件で初めて、水俣病公害よりもはるか以前に、明治の頃にそういうことをやった人を主人公にした小説を書いたりしています。一番有名なのは「落日燃ゆ」という戦前総理大臣をやって戦後何も抗弁しないで、絞首刑を甘んじて受けて亡くなったという大分出身の総理大臣広田弘毅のことを書いた作品です。この「落日燃ゆ」は、政界、財界上げて総ての方から喝采を受けたという典型的な作品です。城山三郎にでてくる主人公は、みんなどんな逆境にあっても自分の信念は曲げないとかあるいはロマンを追求するとか、そういう人物が総てです。どっか曲がったような人は、一人も出て来ませんので、佐高信は城山三郎には偉人伝を書く危険性があると指摘しております。そうかもしれません、みんな立派な人ですし、一人としてへそ曲がりな人は全くいません。今年亡くなられた私たち銀行の大先輩に中山素平という人がいますが、この人は日本興業銀行頭取時代に、今の新日本製鉄(八幡製鉄)と富士製鉄を合併させたり、あるいは沢山あった海運会社を大胆に数社に集約し産業再生に大いに貢献し、その後の日本の発展に寄与された人です。財界人でもどう考えてもナンバーワンであるということは誰しも認めるところです。私も中山素平さんには、もう90歳を超して銀行にわざわざお出でいただいてお会いしたことがありましたが、90歳を超えているにも関わらず秘書も何にもつけないでお一人で、とことこ歩いて銀行にお出でいただき大変恐縮いたしました。城山三郎には、そういう立派な人間、リーダーシップをもってそれを果敢に実行していく人とか、あるいは組織の中にあって、エリートがエリートとして組織に押しつぶされて組織の下積みになり、そういう状況下でそのエリートはどういうふうに仕事をやっていたかというのをテーマにした「小説日本銀行」などを書いています。そういうように地位には拘らないで人間性だとかに共感するものをとりあげているんです。そういうような人間が出てきてはじめて経済小説というのが成り立ってきたという意味では城山三郎は、経済小説のパイオニアであるといってもいいと思います。

 ところがその後経済小説家といわれる人はたくさんでてきました。その多くは面白可笑しく社会の裏側をえぐり出すとかあるいはスキャンダルをテーマにするとか、そういう作家が非常に増えて来ました。これは悪い点をあからさまに表にだすということしかなくて、世の中の為にならない、役にたたないという、そんな小説ではいわゆる経済小説とは言えないということを城山三郎は言っています。将にそうだろうと思います。従って城山三郎の作品は、彼の生き様とかあるいは学校での教育であるとか、あるいは軍隊での経験とかそういうものをベースにして小説を書いているというところに特徴があります。皆さんの中には城山三郎の小説をお読みになっている方もいらっしゃるかもしれませんが、そういうことで読み直されると、経済学の本を読むよりもよほど社会とか経済とか実態がわかると思います。その意味では少なくとも実体を知ると同時に、自分にとってもプラスになると言うようなのもあるのではないでしょうか。

昭和の初めと現代
 それから城山三郎の作品について申しあげましたが、もうひとつ経済小説とは言わず横光利一の作品が時代の様相を的確に捉えているという点で、「上海」の説明を先ほどいたしました。当時の1930(昭和5)年、私の生まれた1928年前後は、明治以降発達してきた日本の紡績業が、発達するに応じてコストがどんどん高くなって来た頃でもあります。それで国内生産では国際競争力に劣ってくるので工場を中国に作りました。これは中国に紡績業をつくるというので、在華紡というふうにいわれています。同じようなことは英国でもありました。今ちょうど上海に世界各国の国、人が往来してビジネスをやっているということは、1930年頃と非常によく似ていまます。時代背景が違いますが共通していることは、グローバリゼーションというものがかなり進んでいます。1930年の時もそうだったし今もそうです。その度合いはどうかと言うと、むしろ戦前の方がグローバリゼーションは進んでいたと言えないこともないんです。それで当時の中国の人件費は日本人の人件費の半分以下。かつては中国も日本の人件費の十分の一とか言われていましたが、今では沿岸地域の活発に動いている所は、かなり高くなっています。内陸地帯はまだまだ低いとは思いますが、賃金格差というのは同じようにあります。ところが日本の場合は、10年から15年間で、中国市場をある意味で英国に勝ち制覇しました。その理由の一つは高い技術力ともう一つは現地の安い労働力を酷使したという労働強化です。コストを下げ、あわせて植民地、租界がありましたので、日本陸軍が民間人を保護したという軍事力による保護というこの二つが大きく貢献したというふうに思います。今はそんなことはありませんけれども、グローバルな展開で今は英国に変わってアメリカですが、アメリカ、日本、ドイツやフランスは、中国市場でかなり熾烈な競争をしています。その意味では、ちょうど今から70年前と変らない状況です。歴史は繰り返すということではありませんけれども、何十年ごとに主役は変わっても同じような状況が出てくるということです。そこで横光利一は何を見たかと言うと、上海は西洋と東洋とが将にぶつかりあってその色合いを残しながら、曖昧模糊とした形で進んでいることです。東洋でもなければ西洋でもないという、従って将来グローバリゼーションが進んでいった場合に、日本の国益というのはかなり問題になるのではないか。つまり戦前でいえば英国との競争です、英国との競争がどうなるか。最近の事例で言えば、日米の競争がどうなるかということになってくるわけです。これに対してもちろん明快な答えは与えておりませんけれども、横光は戦前の上海をみて、将来の日米戦争あるいは日中戦争というものを、ある程度予想していたということは言えるのではないかと思います。その意味で文学者であり作家でありながら、世の中を見る目はたいへん立派だったのではないかと思います。

おわりに
 戦前と戦後という時代の違いはありますが、歴史というものは似通っている面があるのです。ですから似通った面を比較しながら学問でもいいですけれど、小説として今後の日本人のあり方としてどう考えていったらいいのかとか、あるいは今の中国人が日本をどう見ているのかとか、アメリカをどう見ているのかと言うことも、あわせて関心の対象にならなければいけないと思います。そうすることによって、文学と経済問題あるいは社会との問題というものの溝というものがドンドン埋まってくると思います。政治、経済問題を我々は日々新聞等で目にしておりますが、文学という作品により、一部フィクションではあるにせよ、そういうものを読み取るということは、いかに私たちの頭をブラッシュアップするためにも必要なことではないかと思います。

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アイルランドとアメリカ

中島最吉(熊本アイルランド協会会長、祟城大学副学長)
2005年(第7期)市民講座「アイルランドの社会と文化」(5回シリーズの第5回)
熊本市産業文化会館

はじめに
 今日は「アイルランドとアメリカ」ということで、「風と共に去りぬ」の原作と映画にアイルランドがどういう形で絡んでくるかと、スタインベックの「エデンの東」でアイルランドのケルト的な影響が、作品の中にどのように出ているかをお話します。

 まず最初に、タラという土地について、「古くからケルト民族の間で、最も神聖な地とされてきた。ことに3世紀最初のハイキング(部族の上にたつ王様)・コーマックが全島の首都と定めたことで有名。7世紀半ばまでこの丘は、政治・宗教・文化の中心であった。タラとは諸王の聖所の意味である」と『アイルランド概説』(アイルランド政府観光庁発行)にあります。『風と共に去りぬ』の大農園があるところがタラです。映画でもタラというのが何回も出てきます。最後は主人公のスカーレット・オハラが二人の男性との恋に破れて、「明日はタラに帰って考えよう。明日は明日の日が昇るではないか」という所で小説は終っています。全編“プランテーション・タラ”というのが住まいのあるところで、それを南北戦争の始まる年から終ったあとの年まで。年数で言うと、1861年の4月が小説の最初にでてきて、そして65年に4年間かけて終りますが、そのあとの66年のあたりまで描いたのが小説です。小説は1000ページにいたる大作です。

 私が最初にタラというのに惹かれたのは、熊本大学と熊本学園大学とアメリカの交流を結んでおります所からタラという女の子が来ました。ほかを調べてみると、タラという名の女の子の名前はかなりあるようです。まず『風と共に去りぬ』の大農園のある場所がタラということを申しあげます。著者マーガレット・ミッチェルのことを最初に少し申します。

『風と共に去りぬ』
 ちょうど20世紀に入った1900(明治33)年生れで、49歳で亡くなっております。父親はジョージア州というずっと南の方のアトランタで弁護士をしていました。25歳の時に結婚、その翌年に足に大怪我をして、あまり出歩かれなくなったのでずっとうちに引きこもり10年かけて書いた小説が「風と共に去りぬ」で、あとは書いておりません。この1冊だけですがべらぼうに売れたのです。出版されたのが1936年、スペインの内乱が始まった年です。20年代の後半から、アメリカは非常に左翼文学が盛んな時代です。一番世の中で目立ったのが自動車の生産と映画です。映画は20年代後半から30年代が全盛期でした。29年末の大恐慌があるのに、どうして盛んだったかと言いますと、もの珍しさと映画でも見ないとやりきれないからだそうです。その30年代の最後の1939年に映画が出来ております。先祖はアイルランド出身のマーガレット・ミッチェルは最初は医学をやろうとスミス・カレッジに入りますが、すぐに母親が亡くなり大学を辞めて地元のアトランタに帰ります。そして、「アトランティック・マンスリー」という雑誌社にずっと勤めます。その時同僚スタッフの中に、アスキン・コールドウェルという作家がいて小説を書く心境になったそうです。

 小説の前にちょっと申し上げますと、映画の方は皆さんご存知のように、クラーク・ゲイブルとヴィヴィアン・リーがでまして、製作はデービッド・G・セルズニック、監督はビクター・フレミングで、アカデミー賞を全部とりました。アカデミー作品賞、監督賞、主演女優賞、もちろんヴィヴィアン・リーですが、助演女優賞はハティ・マクダニエル、脚色賞、脚本賞、美術賞、編集賞、色彩撮影賞、つまりテクニカラーの始まりですから、特に色彩撮影賞がありました。それに製作賞、特別賞ということで製作企画に対しても賞をもらっています。制作費はその当時600万ドルであったということです。

 映画のほうは簡単に言いますと、スカーレットという女性は、アシュレーという男を愛していますが、彼は従姉妹のメラニーという女性と結婚します。それで勝気なスカーレットはメラニーの兄と結婚しますが、彼は戦死してしまいます。妹のフィアンセと結婚しますが、彼も亡くなってしまいます。そして南北戦争の最中ですから、その中をたくましく生きていく野性的な男としてレッド・バトラーというのが出てきます。ご記憶にあると思いますがクラーク・ゲイブルです。バトラーの強引なやり方と言ってもいい愛情にひきずられて結婚しますが、結局最初のアシュレーへの思いが断ち切れないままにバトラーとの結婚生活もうまくいきません。破綻してバトラーが去っていくというところで、小説は終ります。この自分の家をモデルにしたと思いますが、新潮文庫の訳で一番最初の書き出しのところをご紹介します。

 「スカーレット・オハラ」は美人というのではなかったが、双子のカールトン兄弟がそうだったように、ひとたび彼女の魅力に捕らえられると、そんなことは気にするものはほとんどいなかった。その顔には(ここからが彼女の出生を書いてあります)フランス系の貴族の出である母親の優雅な顔立ちとアイルランド人である父親の赤ら顔の肉の厚い線とが目立ちすぎるほど入り混じっていた。」という文章で小説は始まっています。明らかに父親はアイルランド出身であり、農園の名前もタラと付けていることがわかります。それから10数ページたった所にこういう記述が出てきます。父親のことですが。「彼はアメリカに移住してからすでに39年にもなるのに、言葉はまだ生まれ故郷のアイルランドの訛りが強く残っていた」というふうにはっきり父親の出がアイルランドで、39年前に移住してきたことが書いてあります。

 何でこの小説が人気を取ったか。南北戦争は長くて大変なもので、最初はリー将軍が率いる南軍の方が優勢です。最初の1年ちょっとの間は、殆どの戦いで勝利し、グラント将軍率いる北軍を圧倒します。そのあとどんどん押し返され、最後に両将軍が手を打って南軍の方は敗戦を認めるというかたちになります。この小説に北と南という構図がいっぱい出てきます。バトラーが自分の子供を北部の人間とは絶対結婚させないとか言ったり、色々なところで北と南という意識があります。

南北戦争
 ちょっと中断して申しあげたいのは、アメリカの歴史を考える時に歴史で教わったのは、1620年にメイフラワー号でニューイングランドに移民がやってきたということを強く教わります。その10数年前にイギリスから南部の方に移民したという話はあまり出ておりません。それを頭の中に入れておかないと南北戦争はわからないと思います。こちらは政府の出先機関です。新大陸に政府の出先機関、要するに植民地化するための出先として政府の関係者が移民して来ました。お役人がちゃんと引率して希望者を連れてきたわけです。だからバージニア州のいま海に沈んでおります海岸の町に、当時のジェームズ1世の名前をとってジェームズタウンという名をつけます。私は行ってみましたがどこにありません。侵食の関係で海の中になっています。海岸から何マイルか離れた所になってしまっており、そこにこの名前をとって街づくりをしました。そこの人たちは政府の役人の代表を頼っていろんな人が入ってくる。そうするとその人たちはロンドンのことばかり気にして、いつロンドンに帰れるだろうかとか、ロンドンの雑誌をとったり、ロンドンのファッションはどうだろうと奥さんたちは考えているような町でありました。それが今のバージニア州のリッチモンドは首都ですけれども、その海側のところに拠点がある。それがドンドン、ドンドン南下していって、奴隷を使って大農園を作り上げていったというのが南部の成り立ちです。

 北の方に来た人たちは、ヨーロッパの各地から来た人はちろんアイルランドからもたくさん行きましたが、きっかけは自分のいるところで貧乏な暮らしをするよりは少々危険はあっても新大陸でチャレンジをしようというのが大きな原因でした。それともう一つは、国王がローマカトリック教会と縁を切って英国国教会というものをつくりました。これはカトリックでなく、カンタベリー僧正が宗教家の一番上で、その上に国王がいるという形です。そんなに勝手に宗教を変えられてたまるかという、特にアイルランドなんかはそういう気持ちが強かったと思います。それと貧乏のためにどんどんアメリカに渡って行った訳です。それが要するにメイフラワー号です。メイフラワー号で行った人たちは、まず貧乏だということがあるわけです。それから反政府です、元々北の方に反政府派の人たちがいて、南の方に政府派の人たちがいたということを頭に入れていただきます。これが17世紀の前半です。大雑把なことを言いますと、18世紀の後半にアメリカが独立宣言をします。まだ本当に独立したとはいえませんが独立宣言をします。それも東の方の13州だけで独立宣言したわけですから、中西部から西の方は全然関係ないわけです。それがドンドンふえていきます。一時はボストンあたりの周辺ニューイングランドあたりは人が溢れるほどいるわけです。年表を見ていただきますとわかりますが、1845年~49年大飢饉、じゃがいも飢饉といいますが。この49年頃にカリフォルニアで金鉱が見つかった、金がとれるといううわさが流れます。西部劇によくでてきますが、フライパン一つ持って川にいって砂を掬いますとキラキラしたのが砂金です。それを袋に入れて銀行に売りにいったりする光景が出てきます。そういう噂が流れて、ある程度事実だったわけですが、それで東側に残っていた移民の塊がワーッと西へ行くのです。誰でも金がとれる、これがジョン・ウェインの映画でお馴染みの『駅馬車』の幌馬車隊でした。とにかく食うや食わずの生活をするよりと西へむかったわけです。それが49年ですから、飢饉の年限は51年までといったりする人がおりますが、これでいっぱい移民したわけです。アイルランドだけでどれ位の人たちが行ったかと言いますと普通大体100万人前後ではないかと言われ、最低でも80万人はアメリカに行っていると言われています。それだけの東部にいた人が、砂金がとれるというのでワーッと西へ行きました。それでその頃南の方もドンドンふくらんできて、大農園制度の奴隷を使った農業が北の方にふくらんで行きます。それと西の方へ土地の危険を顧みず行く人たちが、接触せざるをえません。それが南北戦争と考えたら分かりやすいと思います。だから奴隷解放というのは喧嘩の口実でして、南部の方はそれに対して南部連盟を作ります。北の方も同じ人間を奴隷にするのはけしからんと声高らかに言いますが、北の方の人の中にも実際には奴隷を使っていたような事実が、当時はあったと思います。それでどこが境だったかと言うと、ミシシッピ川から分かれて流れているオハイオ川あたりです。オハイオ川を北へ越えると奴隷が逃げても助かる。オハイオ川の手前で捕まると殴り殺されるというふうに当時は言っていました。その頃の状況を書いたのが『アンクルトムズの小屋』という有名な小説です。

 南北戦争というのが政府側と反政府側の二つのグループによって起きました。北の方は貧乏ですから勉強を一生懸命するわけです。ですから産業革命で新しい工業は北で発達します。古い大学も全部北にあります。ハーバードにしても北の方にあります。一所懸命勉強して、新しい科学技術を発達させました。もし、南北戦争で南の方が勝っていたらどうなるだろうということですが、恐らく国が分裂していたと私は思います。別の国になっていたのじゃないか。北の方が南の方に追従して、服従して大農園式の農業をやるとは考えられません。どうしても二つになったという気がします。そういうことで南北戦争は、1861年から65年まで続き、65年に調停して終わりました。

 『風と共に去りぬ』という小説を、かなり忠実に引き抜いて映画にしたわけです。この中には南北戦争の状況を細かに書いていったと、そしてそれに伴ってジョージア州のアトランタやそのほかの町がどんな風に荒廃していったか、それから黒人奴隷が解放されるといっても何していいかわからないのです。戸惑ってうろうろしているばかりで犯罪ははびこるなど、どうしようもない状況を克明に書いていったわけです。その中のもう一つの大きな筋立てがスカーレット・オハラを中心とした彼女をとりまく男性群ということで、小説の最後はレッド・バトラーが彼女の元を去っていくという所で終わります。

 そのほかのいくらか言葉を拾ってみたいと思いますが、本当の終わりの方に、レッド・バトラーがいわゆる別れようと言い出す場面の所を拾い読みしてみます。スカーレットが「あんたどこへいくつもりなの」というふうに聞きます。そうするとバトラーが「そうだね、イギリスか、もしかすると故郷の連中と仲直りする為にチャールストンへ行くかもしれない」といいます。するとスカーレットが「だってあなたはチャールストンの人たちをひどく嫌っていたじゃありませんか。あなたはあの人たちを馬鹿にしていたでしょう」と言います。バトラーが「今だって馬鹿にしている。だが俺もこの辺で放浪生活を卒業したいと思うんだよ、スカーレット。お前も俺も45だ、45といえば若い頃は馬鹿にして気にもしなかった親戚づきあいをしたり、名誉を求めたり一身の安全を図ったり、しっかりと深いところに根を下ろしたものを尊重する年ごろである」と言うんです。しかし、スカーレットは分かりません。するとバトラーが「あんたも45くらいになると分かるようになるよ」というんです。バトラーがしばらくして、「俺の言う意味がわかったね」と言いますと、スカーレットは「分かっているのは、あんたが私を愛していないということとどこかへいってしまうことだけですわ。あなたが行ってしまったら私はいったいどうしたらいいの」というやりとりをして、別れるときの最後にバトラーは「でもね、俺は決してお前を恨んではいないからな」といって姿を消すのが、この二人の最後の場面と言うことになっています。本当にバトラーというのは映画でもそうでしたが、クラーク・ゲイブルの脂ぎった感じの顔で、日本でいうなら戦後の闇商売から何でもやるような男です。金儲けをやってその戦後のどさくさの中を生き抜いていくという形にしてやってきたわけでが、最後はそういう場面になっています。

アメリカ南部
 先ほどいいましたように、非常にスカーレットは楽観的だしそれくらいでは簡単にあきらめません。バトラーを本当は愛していたではないかということに気が付きますが、もう一度どんなことをしてでも、レッドを取り戻してみせる。どういうふうにして取り戻すかは、タラの丘に行って明日ゆっくり考える。明日は明日の陽が照るではないかというのが最後の台詞になっているわけです。これでどの程度彼女が自分の出生のことと絡ませてやったかと思いますが、少なくともオハラ家というのはあきらかに名前からもアイルランドの名前です。恐らくそういうのが南部の農園主の中にはいたんだろうと思います。後でスタインベックの話をしますけれども、スタインベックの母親のハミルトンも最初は南部に行っています。そして父親の方のスタインベックはドイツ系で、北ライン地方の出ですが、ここも移民してきて南北戦争の時は南軍に入っています。スタインベックのおじいさんになりますか、曽祖父になりますか。ですから先ほどいいましたように、だいたい北の方が多いのですが政府系の南部に行っています。それは17世紀の初頭のことでありまして、いろんな人が南部にも入り込んでいて、大成功している人もいます。アメリカは寄せ集めの民族ですから、分析することは難しいと思います。

 南部のことでちょっと脱線しますけれど、プワーホワイトもいるわけです。アパラチア山脈の山の中なんかに住んでおりまして、非常に極貧の状態で生活しています。私も一度ずっと昔NHKで様子を写したのを見ましたが、これは黒人の奴隷よりも馬鹿にされる存在でして、フォークナーの小説なんかにでてきます。南部というのは非常に複雑です。

 ミシシッピ川の下流の方、ラフカディオ・ハーンがいたような場所は、フランス語とスペイン語と英語と混じったような独特のクレオール語を話す人たちがいるなど南部は複雑なところです。この舞台になるジョージア州というのはフロリダ州の北側にあり、更に北がサウスカロライナ州です。もちろん首都はアトランタですが、この『風と共に去りぬ』の舞台になったのはもうちょっと北の方になっております。

ジョン・スタインベック
 前後わけの分からないような話をしておりますが、スタインベックのことを少し申しあげて見たいと思います。スタインベックは1962年にノーベル賞を貰いました。このときに一番ビックリしたのは賞をもらった本人でして、本人が信じられないといったといいます。受賞演説の時には適当に言っていますが、いろんなインタビューに本人がそう答えています。どういう出生かと言いますと、おじいさんは北ライン地方の出です。南北戦争では南軍に参加し、戦争が終わって10年経った1874年にカリフォルニアの方に移っております。お父さんは更にサリナスという所に移り、亡くなるちょっと前まで11年間郡の収入役をしていました。今その頃の生家が残っています。サリナスと言うのは、サンフランシスコとロサンゼルスの三等分しまして三分の一くらいサンフランシスコよりのところで、モントレーに近いところです。モントレーは漁業が盛んで昔は缶詰工場とか何とか海産物関係で栄えた所です。それでスタインベックにも「缶詰横町」という作品もあります。そこでスタインベックは生まれまして、母親の先祖は北アイルランド出身のアイルランド人です。この人はちょうど南北戦争が終わってからすぐ位にアメリカに渡って、近くのサンノゼやキングシティに住んだりして農業をしていました。このお母さんというのは、4箇所か5箇所で小学校の先生をしておられたと思います。スタインベックが生まれましたのは、マーガレット・ミッチェルの2年後、1902年ですが亡くなったのは68年です。非常にお母さんの影響が強くて、子供の頃からアーサー王伝説を読んだり、恐らくアイルランド関係の本とバイブルを相当読んだと思います。

 ところが、1934年にお母さんが亡くなります。その数年前に30年の頃に20代の後半にキャロル・ヘミングという人と結婚します。この人がどうもお母さんそっくりだったみたいです。しかし1942年に離婚します。何故離婚したかと言いますと、惑わされたからと思います。彼が少し名前も出てきてハリウッドに出入りするようになります。ハリウッドは派手ですから、ハリウッドの女優さんじゃないですけどもグイン・バードンという女性がいて、離婚して1年後の43年にその人と一緒になります。私はアメリカに行った時に、そのバードンさんが最初の奥さんと離婚する時に3人で話し合った時のことを記録してある本をみつけて丹念に読みました。一番面白かったのはスタインベックがなかなかずるい男で、離婚話をする時に当事者が集まって話そうということを言ったそうです。自分も入れてキャロル・ヘミングと3人会いました。しばらく坐っていたら、関係者が話し合うのが一番効果的だと思うので「俺は庭を散歩してくる」と言ったそうです。そうしたらそのときに最初の奥さんが言うのには、「今のことでもわかるように、あの人はたいへん無責任な人だから、いつかは今の私の立場にあなたはきっとなると思うよ」というふうに言ったということを、2番目の奥さんがちゃんと書いて、その通りになり、5年後には別れています。そして3番目の奥さんはエレーヌ・スコットといいまして頭のいい女優さんです。

黄金の杯
 私がスタインベックについてどういうことを申し上げたいかと言いますと、この人の最初の本が出たのは1929年です。大恐慌の寸前に出版されて全然売れませんでしたが、「黄金の杯」という本です。これはパナマ運河のパナマのことを金の杯と言っているのです。これはあのあたりで大航海時代の後に、あそこには宝がいっぱいあるとか天下の美女がいるとか言うようなうわさがあり、海賊たちの憧れの地であったらしいのです。この小説の主人公は、ヘンリー・モーガンという海賊です。カリブ海を荒らしまわって、最後にはパナマを手に入れるという筋書きです。このヘンリーの出生がウェールズということになっております。15歳の少年がウェールズで、カリブ海の方に行って帰ってきた人の話をききながら、自分も外に出たいという風に思っているところから始まっています。そこに出てくるマービンという詩人というか占い師といいますか、何かたいへん変な人物がでてきます。その出だしのあたりがどうみてもこれはウェールズでなくても良かったと思うくらい、スコットランドのはずれでもアイルランドでも良かったと思うようにケルト的なムードを漂わせて始まります。そしてマービンは、親が引きとめて欲しいと思いますから、エリザベスという女の子が好きだということでエリザベスのところに行けよと言うのです。行きますけれども口笛を吹いて合図をしますがエリザベスは出てきません、そのままそこを去って船に乗って、最初は奴隷のような仕事をしながら海賊に成り上がっていくわけです。一番最後の彼が亡くなる前に、夢か現実か分からないようにしてエリザベスが現われるという非常に甘っちょろい小説です。最初の出だしのところの様子が非常にケルト的です。

『知らざれる神に』
 それからその次に『知られざる神に』というのを33年に出しておりますが、書いたのは「黄金の杯」の後だと思います。これはスタインベック全集にもありますから、大変へんてこな小説でありますが、是非チャンスがありましたら読んでいただきたいと思います。これもやはり先ほど言いましたモントレー、サリナスの近くの西部の農場の話です。東部から来た人がそこに農場を作ります。アメリカにはホーム・ステッド・アクトという自営法があります。アメリカは広いですから最初ドンドン広がっていく時に、法律が出来たのは南北戦争の後の62年だと思います。160エーカーまで自分の力で耕した所は自分の土地にしていいという法律。ドンドン西の方に行って、自営農法みたいなのに基づいて、東部から来た人には西の方に160エーカーを農場を作るわけです。その頃はもう土地はなかったはずですが、どうしてそういう土地があったかといいますと、土地の人の話によると4年おきか5年おきくらいに大干ばつがやってきます。その時は何にもとれないので、全部そこを手放してよそに移っていった土地が残っていたということです。そこに大きな樫の木がありました。そこにジョーゼフという主人公が住んで、父親の霊が宿っているという風に考えてその木の下に家を作るわけです。父の霊が宿っているということを本当に信じていますが、そこの農場に水を運んでくれる流れは、山の中の林の中に大きな岩からであります。その岩のもとから清水が流れ出しているということになっています。その場所を非常に大事にしているわけですが、色々ないきさつはありますけれども数年経って遂に干ばつがやってきます。そうすると何回もそこに行ってみますが、この奥さんの名前はエリザベスだったと思いますが、そこの岩を見に行って岩に登って奥さんが足を滑らして死んでしまうのです。それもちょっと唐突で因縁めいた話ですが、その後いよいよ雨が降らなくて雨乞いの祈りをしたりしますけれども、また本人が岩のところにやってきます。色々やってみるけれども元になるところが本当に枯れかかっているのです。そして、岩に登り自分の手首を切り雨乞いのため自分の血を岩に垂らします。だんだん意識が朦朧としてくると雨が降り出し、雨の音を聞きながら死んでいくという結末です。ひと口には言えませんが、少なくとも普通のアメリカで書かれる小説とはムードが違います。

『ツラレシート』
 次に32年に出る『天の牧場』といいますかそういう名で、短編が10個くらい入った本で、これは売れました。先ほどの3冊の中で一番売れて、一息ついたような感じです。これも奇妙な話で、場所はそこら辺の場所が舞台です。マンローという家があり、そのマンロー家が絡むようにして色々な話を10個並べているわけですが、そこの中に4番目の話に「ツラレシート」という話があります。作者は「小さなカエル」ということを意味するスペイン語だと書いております。スペイン語の辞書をどんなに調べてもそういうのはでてきません。絵空事かもしれませんが、小さなかえるとあだ名で呼ばれる子供、11歳の少年についての話です。これが一番アイルランド的といいますか、ケルト的といいますか、普通の人間の子供とは全然違いまして、捨て子だったんです。パンチョという農園の下僕みたいなのがおりますが、これが仕事をして楽しみはお休みのときに給料をためてモントレーの町に出て行って、お酒を飲んで酔っ払って馬車で帰ってくる。馬の方が道を覚えていますから帰りは馬車に乗って寝てるとちゃんと農場までつれて帰ってくるという生活をしています。そのパンチョがある朝、眠らないで大声を出して帰ってくるのです。まずモントレーの町に酒飲みに行き、朝帰って来るときに目を覚ましているということにみんなビックリする。それから大声でわめいているので何事だと言いますと、今来る途中で、3ヶ月くらいの子供が捨ててあった。それが見た目になんとも人間の子供と思われないのでビックリして、助けてくれといって帰ってくるのです。その3ヶ月くらいの赤ん坊が、拾おうとしたら「俺には鋭い歯が生えているぞ」と言ったので、ビックリ仰天してゴメスという主人に話します。主人が行ってみますと、ちゃんと馬車の中に赤ん坊がいて、その時は全然何も言いません。でも形は普通の子供と違って、異様な感じのする子供ですが、それを親切な人が育てるわけです。5歳くらいになったときは、知能は遅れているけど力仕事はなんでもやる。動物なんかは大人がてこずるような馬だって彼が行って言うとおとなしくなる。植物なんかも接木をしようとすると他の人ができないのに彼にやらせるとチャンとつがってしまうというわけです。学校は行っても仕様がないからとやりませんが、郡の教育委員会の方で必ず学校にやらないといけないと言うことで11歳になったときに強引に学校に連れて行かされるわけです。ですけれどもすぐ帰ってきてしまう。勉強は全然覚える気がないわけですけれども、本人は彫刻をしたり絵を描いたりが大得意でして、マーチン先生というかなり年配の女の先生が「これはやっぱり好きなことをやらせないといけない」、学校にこさせるために、何回も本人に言ってきかせるわけです。それで「あなたは素晴らしい才能をもっている。これは神様からいただいた大切な才能だから大事にしなさい」ということを繰り返して聞かせる。そしてある時に、黒板に絵を描いてみようということで描かせる。そうすると黒板いっぱいに見事な動物の絵を描くわけです。ところが他の子供にも授業をしないといけないので「あなたが絵を描いたから今から算数の授業をするから」と先生が言って、黒板を消しにかかったら獣みたいにつかみかかってきて、クラス全体と女の年配の先生を相手に、大騒動になるわけです。最後は先生も他の生徒も一緒に教室から逃げ出してしまうということで、先生は頭に来て、農場主のゴメスの所につれていってこういうことがありましたと二度としないように鞭打ちをやってくださいと言うのです。農園主の方は「それは先生が悪い。本人に描けといって描かせて消すのは本人が怒るのは当然ではないですか」といったりするのです。鞭打ちをやれといわれればやりますということで本人は縛られて鞭打つのですが、鞭で打たれながらニヤニヤして眺めている。怒りもしなければ泣きもしないというようなことを書いている。鞭打ったって同じでしょうと先生に言うのですが、先生は嫌になって学校をやめてしまう。その次にどうも母親をモデルにしたのではないかという若くて頭が良くて美人の先生が来るわけです。その先生は絵を描かせるのに黒板を仕切って、ここまで描いてよろしいということで絵を描かせます。この先生はお話を読んで聞かせるのが得意で、その頃の小学校というのは何年担任ということではなく全部一緒ですから、低学年から高学年まで、若いものいるし、かなり年とっとったものもいて、色んな本を読んだということが書いてあります。イギリスのスコットの小説とかアメリカのジャック・ロンドンの小説とかいうのを読むと書いてあります。ところがあまり大人っぽい小説ばかりじゃいけないと、ある時低学年のためにいわゆる童話みたいなものを読んであげるのです。そうすると絵を描いておったツラレシート絵を描くのをやめて一生懸命聞くのです。先生は喜んで、こういうところもあったかということでそういう話もずっとしてあげます。一番熱心に聞くのはツラレシートです。その人たちはどこにいるのですかというように。そして自分はどうも童話の中に出てくる妖精とか何とかと親戚だと思うようになるのです。自分の一族は全部地面の下に人間から目につかないところに住んで、地面の下はヒヤヒヤとして涼しくて、そういうところに自分の一族は居るはずだということで、山の中を歩き回ったりするようになります。先生が学校から帰っているとついてくるのです。先生は気持ちが悪いから何でついて来るのかと聞くと「いや僕は親戚を探しに行くんだ」と。先生も口を合わせて「なかなか見つからんと思うよ。見つかったら先生に教えてね」と。必ず見つけるのだと言い、先生の帰り道でそういう話をして別れます。本人は、誰にも親戚探しをする。これは確か英語ではGNOME(ノーム)という名前を使ってたいと思いまが、訳では地の精と書いてあります。地の精の一族だと思うようになりずっと探し回ります。そのとき先生が「昼間は出てこないのじゃないか」と言いますから、夜中に探し回るようになります。そして大きな農園で、柔らかく肥料をやったりして耕してある所に行って、ここに穴を掘れば一族と会えるかも知れないということで、朝までかかって大きな穴を掘ります。「誰かいないか」と言いますが返事がないので、くたびれて自分は別の所に寝てしまいます。そこへ農場主が来て、コヨーテを捕まえる罠を作っていて、わなが無くなって大きな穴が空いているから、誰か悪戯したのだろうと思って埋め戻します。そうするとまたあくる日、自分が掘った穴が埋めてありますから、自分の一族が埋めたのだと思い、必ずここにいるとまた掘るのです。掘っても出てくるはずはないのでよそに行って寝ていますと、農園主が来てかんかんに怒って、埋めかかります。そうするとツラレシートがそれをみて、穴掘りのショベルで後ろから農園主をなぐりつけて、殺しはしませんけど倒します。それでそこの子供が見つけて大騒ぎになり、ツラレシートがやったということが分かってしまいます。教育委員会はその農園主のゴメスにも話して、要するに囚人用の精神病院に送らざるをえなかったという所で話が終っています。

 ツラレシートが自分の一族は必ず地中にいて、穴を掘ればいつか会えると思っていく。妖精の話を聞くと一生懸命に聞く。ずっとその話を読んでいますと、普通にアメリカの人が書く話ではないなという気がして、作品の出来・不出来は論外としまして、どうしてもスタインベックが小さいときに母親から聞かされたような話とか、若い頃に読んだアーサー王伝説とかそういうものの影響が出てきて、そういうものを書きたくなるのかなと思います。ただこれを読んでいただきますと全体的には非常にバランスのとれたいい作品だと思います。

 特に西部のあのあたりには、パイサノと言う人たちがおりまして、スペイン人とインディアンと混じったような特別な人たちがおり、そういうのを主人公に特に好んで書いています。スタインベックのいろいろ書いた小説の中で一つの特徴は、知能が低くて勉強は出来ない。しかし色々なことがいっぱいできないが力持ちで性格は素直で、言われたことは何でも一生懸命するというようなタイプの人がいくつもでてきます。一番有名なのは映画にもなった『二十日鼠と男たち』の中に出てくるレニーという大男です。非常に知能は低いが、ちょっと力を入れただけで握りつぶしてしまうような大力のを持った男です。

 私はスタインベックの中に、人間としての知能は低く動物に近いような存在だけれども、そういうものに対して作者がすごく興味があったのではないかという気がします。その後『怒りの葡萄』とか『エデンの東』とか写実的な作品を書いたりして、評価の高いものがあります。一番いいのは結論的評価が高いのは短編集ですが『赤い子馬』というのがあります。これが一番評価されていると思います。アメリカで高校なんかの教科書によく使われているということです。

『われらが不満の冬』
 亡くなる前の61年に書きました『われらが不満の冬』という最後の小説があります。『われらが不満の冬』と言うのは何かと言いますと、シェークスピアの『リチャード3世』の中に出てくる言葉です。我々のいわゆる冬の時代、こういう苛められてよくなかった時代が、新しい太陽(SUN)ですけれども(これは息子SONとかけてある)新しい世界の夜が明け来るのだと言う台詞が『リチャード3世』の中で出てきます。これは56年に書いた銀行強盗の話を拡げたといわれますが、不出来の作です。しかし、この中に小さな飲食店をやっている主人公がいて先祖は移ってきたときは立派な人でしたけれども今は恵まれない暮らしをしています。アレンとヘレンという男女二人の子供がおり、作文コンクールに息子アレンが投稿し一席になるのです。お祝いをしようと言っていますと、報道関係が来て一席になった懸賞作文は全部剽窃であるということがわかったと問題になります。どうもインチキだといったのは、妹のヘレンみたいだとほのめかしてあります。最後に銀行強盗をやったりしますけれども、俺はダメだということで自殺をしようと思って海際の洞窟みたいなところに剃刀の刃をもって行くのです。そして、波が押し寄せてくる中でいろいろ考えていますと、この彼のうちに、変てこな魔よけの石があり、それらをたいへん大事にしているのです。彼はいろいろ考えながら、俺の明かりは消えたんだと言いながら、最後に思い直します。俺にはもうひとつ仕事がある。娘の方のヘレンに、この魔よけの石を渡さなければならない。どうしてかというと、ヘレンにはまだ明かりがあるからというようなことを考えて自殺を取りやめる所で終っています。洞窟の中にいると気持ちがいいとか気分が収まるとか、魔よけの石自体いまどき大事にされるなんて考えられませんが、最初の3作くらいと最後の1作だけが、どうしてもケルト的な妖精の話とか、そういうものに関わっているような気がしてなりません。

最後に
 本当はもう少しいろいろ分析をしてお話をした方がいいと思いますが、あまりに横文字を出してもいけないと思いますし、評論家の名前を出すのもそぐわないと思いますからたいへん大雑把な話になりました。『風と共に去りぬ』はご存知だと思いますし、スタインベックもご存知だと思いますから、そういう二人の作家とも先祖にはアイルランドの血が入っている、そういう作家がアメリカには非常に多いということです。アメリカ文学をみても、例えばラテン系の血を引いた作家が盛んだったり、ユダヤ系統の作家が盛んにもてはやされた時期もあります。今アイルランド政府は第2公用語は英語のようですが公用語としてゲール語、いわゆるケルト語を使っています。最近アメリカではケルト語で小説を書いた人がいるというようなことを聞きました。アメリカの文学だけじゃなくて風土の中にはケルトの血が入っていると思います。

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3 アイルランド 3-3 アイルランド旅行記 3-5 アイルランドの文学

シングとオケーシーにおけるアイリッシュイズムの一端

2005年11月12日
川野富昭(崇城大学教授)
2005年(第7期)市民講座「アイルランドの社会と文化」(5回シリーズの第4回)
熊本市国際交流会館

アイルランドを旅して考えたこと
 アイリッシュイズムとは何か。実は私もまだ結論に達していません。この二人の作家も一般の人たちにとってはなじみのない名前だと思います。しかし私なりにその魅力とそれにともなうケルトの末裔たちの反骨精神、あるいは気骨というものの一端をお話してみます。

 今年の夏は久しぶりにアイルランドの旅に出ました。普通のグループ旅行と違って「アイルランド伝統音楽を求めて」の旅でした。この国へは4回目になりますが、これまでと比べてさらに興味深いものとなりました。私のケルトへの関心の始まりは小学校のころよく耳にしたアイルランド民謡なのですが、それが今になっておとぎの世界、妖精の住む国への憧憬が高じて、今年は妖精に出会うこと、妖精を捕まえてやろうという魂胆を持つようになったのです。アイルランドに関しては、司馬遼太郎さんの「愛蘭土紀行」がすべてを集約したようなできばえです。彼が見たアイルランドと、私が実際に見たこの国の姿、先に述べた二人の作家の作品に見る、いわゆるアイリッシュイズムなるものを、この旅の感想と写真を交えて最初にお話します。

私の愛蘭土紀行
 この写真1はこの国に行けば必ずお目にかかるケルトの十字架です。ケルト民族はアイルランド人のルーツですが、このように、非常に迫力のある十字架はアイルランド中どこででもお目にかかれます。この十字架がベストだと断言されたのはこの旅行を取り仕切ってくださった守安夫妻でした。おふたりはアイルランド伝統音楽に造詣が深くかなりの実力を持った音楽家夫妻です。

 この写真2は典型的なこの国のトレードマークです。この愉快な交通標識は私がこの国へ出かけて実際に確認しようと思っていた代物です。今回は残念ながらこの標識が見られるケリーまで足を伸ばすことは出来ませんでしたが、幸い小泉凡夫妻から借用することが出来ました。アイルランド人の心の中に必ずあるといわれている妖精への思いがこういう形で現れているのは彼らの民族性の中にあるユーモアの一端を垣間見た気持ちになります。

 この写真3は妖精図鑑の中から引っ張り出したものです。ケルトの妖精の起源は、この国の歴史を紐解くときには必ず出てくるドルイドの中にも見受けられます。女ドルイドのイメージは、鶴岡真弓さんの本にたくさん出ています。この旅の中で私が妖精にこだわっているのにバスのドライバーが同情して「妖精の樹」(写真4)のある場所にバスを止めてくれました。こういうふうに、日本でもよく見かける「願掛け」の樹がかの国にもあるのは興味深い共通点を発掘したような気になります。靴下、手袋、帽子など、いろいろこの樹に吊るして願い事をする彼らの心の中には妖精のイメージが常にあるという証拠でしょう。

 これは(写真5)、道端に作った洞穴に飾られた 聖ブリジッドです。途中で何箇所かこのようなきれいな像を目にしました。その横の小さな祠に入ってみますと、いろいろな貢物が並んでいて、聖水の水溜りには日本で言うお賽銭がたくさん光っていました。このイメージは日本人の感覚にあい通じるところがあって非常に印象深いものでした。

 ここからの写真(写真6)は守安夫妻が取って置きの古城レップ城です。この音楽の旅できわめつきのスポットで、この城の主はショーン・ライアンといういかにもアイリッシュという雰囲気を持った笛の名手でした。奥さんのアン、娘のキアラ・セレーヌと3人並ぶと、きわめて神秘的な雰囲気を醸し出す不思議な家族です。キアラはリバーダンスのオリジナルタップを踏める全国でも有数のダンサーだそうで、この写真にあるとおり実に迫力のある踊りを見せてくれました。彼女のステップで居間の石畳は亀裂が入って凹みが出来ているのです。ライアンの幽玄で妙なる笛の音と、キアラの躍動感あふれるステップに加えて、古城のホールの荘厳な背景がわれわれの心に深い感動を与えたのは当然のことでした。妖精探しの旅の途上にある私としては、彼女はまさしくレップ城のフェアリーであると確信するに至ったのです。ご主人のショーンの腕前は言わずもがなで、皇太子夫妻がアイルランド訪問をなさった時御前演奏を行うほどであったのです。レップ城はBBC放送が取材に来るほどの名の知れた「幽霊城」で、その由来をこの薄暗いろうそくのともる居間で聞かされると、思わず後ろを振り返ったものです。壁には古色蒼然たる絵、骨董品から、はたまた日本の浮世絵まで城主の本性も読める雰囲気でした。

 これらの写真(写真7)は、これまでの旅行で集めた絵葉書をまとめたものです。これは 作家のシングです。ショーン・オケーシーは私の研究のしんがりを務める劇作家です。大学時代の恩師の評価は二流だそうですが評価は相半ばするところです。これは若々しいイェーツですが、これらの写真を並べるわけは不思議と皆妖精顔をしているからです。ワイルド、ジョイス、B・ビーハン等すべて同類に見えます。みな妖精の霊気が漂っているように思えてなりません。

 ビーハンといえば、以前ダブリンの劇場で彼のお芝居を見ましたが、もとIRAのメンバーであったことと、刑務所暮らしで虐待を受けた経験からなるその迫力に圧倒されてしまいました。「ボースタルボーイズ」は彼の刑務所暮らしの一部を描いたものですが、シャワーを浴びる場面では容疑者全員が素裸で、思わずここまでやるかと息を呑みました。彼らが命を賭けた反英闘争の凄みもそこから伝わってくるかのようでした。

 アイルランドといえばアラン島がイメージされます。アラン島のダン・エンガス(Dun Aengusは、馬車のおじいさんの発音によると「ダン・エンガシャ」だそうです)まで行って撮ってきた写真がこれです。我ながらいい写真(写真8)が取れたなと自慢したい一枚です。この断崖絶壁は 「アランの男」という有名な映画の主要な場面を構成しています。1934年、ロバート・フラシャーティー監督作品です。私の写真は素晴らしい好天に恵まれた波静かな一枚ですが、この映画に出てくるアラン島は、ものすごい波濤に洗われ一面荒蕪の島で、その自然の荒々しさに必死に耐える島の人たちの気骨がひしひしと迫ってくる名作の中にあります。

 この写真(写真9)はシングの「アラン島周遊記」に描かれている島の女たちのイメージそっくりの絵だったので写真に収めました。また、アラン島の漁師たちのイメージはこの布張りの小船、カラッハに集約されます。写真10、写真11はその漁師たちの背中、その後姿が男たちの気骨を裏付ける絵といえるでしょう。

司馬遼太郎氏の「愛蘭土紀行」
 ここから司馬遼太郎さんの「愛蘭土紀行」についてお話します。この司馬氏の紀行文とビデオを要約すると、キーワードは、不撓不屈の精神、激しい個性、爪に火をともすような生き様、辛らつな風刺精神、流浪、漂泊、自然との闘い、というところでしょう。不撓不屈の精神の根源はどこにあるのでしょうか。「山雨」という言葉が使われています。それはどんよりとした天気が続く山間の陰鬱な雨で、人の心を落ち込ませる元凶であるのです。シングがこの情景を巧みに描いています。In the Shadow of the Glen(山雨)ではそういう陰鬱な山奥の小屋で、年の離れた、猜疑心の強い夫と暮らすノラの現状離脱と再生願望への心の中が描かれています。その重苦しいテーマはこの「山雨」に集約されているのです。

 こんどは歴史的観点に立ちますと、避けて通れないのが クロムウェルの収奪、虐殺の歴史です。彼によって「アイルランド」は身包みはがれた、と司馬さんは表現しています。そのことによってアイルランドではこれまで連綿として続いてきた反英精神にさらに火がつくということになったのです。ここから幾多の試練を経て一応独立ということになりますが、赤いポストやバスが緑色に塗り替えられる社会現象は、司馬さんの言う「百戦百敗の民」からの現状離脱の思いの一端を物語っています。たとえ百敗してもそこから立ち上がろうとする彼らの気骨はマーガレット・ミッチェルの風とともに去りぬにおける「タラへ帰ろう」というセリフにおいてもうかがい知ることが出来ます。このスカーレットの激しい個性と不撓の血は彼女の体内において常に激しく燃え盛っているのです。それが昇華しようとする再生願望は、オケーシーのJuno and the Paycock(ジュノーと孔雀)の中に常に出てくるテーマです。「風とともに去りぬ」を読み返してみましたがスカーレットの不撓の血が延々と描かれ、一方でジュノーにおいても彼女の人生苦からの再生願望が絶えず流れ続けるのは不思議な共通点になっています。

 別な意味でのその精神は「ジャガイモ飢饉」にも端を発しています。この現象によってアイルランドは立ち直れないくらい何度も飢餓状態に陥り、その結果としてのアメリカ移民により、国全体が疲弊してしまうことになります。彼らはその移民先で今度は数限りない差別を受けてどん底の生活を送ることになる。でも彼らの中からやがてアメリカ大統領が二人も生まれてイギリス人に衝撃を与えたのはやはり彼らの反骨精神のなせる技でしょう。

 さて、ビートルズとスウィフトの話になりますが、彼らは、アイルランド系の人間なら誰にでもあるユーモアと風刺精神が特に突出している典型です。ビートルズが流行したのは私の学生時代ですがそのころはただやかましいだけと思っていましたが、 最近では「イエスタデイ」や「イマジン」などを聞いてみるとクラシックだなと思うようになりました。彼らが世界的名声を博したことでイギリス政府は勲章を授けたわけですが、今度は退役軍人たちがプライドを傷つけられたとして勲章返上騒ぎが起きました。そのとき彼らは「人を殺してもらったんじゃない、人を楽しませてもらったんだ」と言ったそうです。これはいわゆる「死んだ鍋」、ポーカーフェイス、で辛らつな風刺をやった典型でしょう。強烈な自我があって初めて出てくる表現でしょう。十年前のアイルランド旅行で旧跡を訪ねたときの切符切りの青年もnever give up, never defeated(ギブアップするな、殺られぬな)と繰り返し、英国への怨念を口にしていました。そういう強烈な自我意識と反骨精神は普通のアイルランド人の心の中の精神風土なのかもしれません。パブでクリーム状の泡盛のギネスを飲んでいると、それは漂泊、流浪のイメージである、という司馬さんの主張に素直にうなずくことになるのです。

アラン島雑感
 これからアラン島の話をします。何回もこれまでこの島を訪れました。何しに行くのかと聞かれれば、原始的なままの自然観察です。今年はイニシア島へ行きました。どの島に行ってもあるのは見渡すかぎり霧と岩盤ばかりでほかに何もないところです。荒蕪の島、と司馬さんは言ってまいす。そこでは人間を寄せ付けないほどの荒々しい自然、延々と続く石垣があって、月まで続こうかという石積みを重ねていく人たちの根性と意固地が感動を呼ぶのです。

 この島に魅せられて紀行文の名作を書き上げたのが J.M.シングです。アラン島の住民たちの素朴で原始的な生活の中に見られるたくましい精神力と、この島の漁師たちの苛酷な荒海での運命は、この島独特の編み目を持つアランセーターに表されています。

 セーターもそうですが、ソックスの話がシングの海に駆ける御者に出てきます。その中で、老女モーリヤが自分の7人の息子をアランの波濤の中に失います。行方不明の漁師たちの遺体を識別するのに、彼女の娘は靴下の編み目からそれが自分の兄であることを確認する場面があります。いわば遺体確認のために自分の家独特の模様を編み出すことになり、歴史をたどれば悲しい物語へ戻ってしまうのです。

 老女モーリアの嘆きは息子たちを次々に荒海に奪われてもなお厚い信仰心と強情とも受け取れる人生への開き直りがあります。「これから先はどんなに海が荒れて大波が立とうとも、ほかの女たちが男たちを案じて泣き叫んでも私は案じることはない。暗い夜に起き出してお水取りに行くこともない。」

 このイメージに酷似する場面がジュノーにあります。彼女もひどい生活苦の中で、息子を失い、連れ合いと娘から離別する不幸のきわみに陥って嘆き悲しみますが、神への祈りと頑ななまでの再生願望が見て取れます。この二つの作品の女主人公たちの中に見受けられるイメージの重なり、類似性はこれからの研究のテーマです。

 ところで、アラン島周遊記の中で、シングが描いている島の娘たちの中に見られる霊的な神秘性は、妖精に魅入られたような彼女たちの瓜実顔に見出されると彼は描いています。島の古老から彼は色々と妖精が乗り移った娘たちの話を聞かされた結果、妖精と妖精顔の娘たちの間には神秘的なつながりがあると思い込んでいるのです。

 結局、アラン島の住民の素朴さに惹きつけられて、シングが再三この島を訪れて感じたことは、「いつ命を落とすかわからぬ荒海でカラハを操り漁をするその緊張感は、いわゆる原始的な漁師の俊敏性、芸術家に求められるある種の情感にも通じるところがある」ということで、そこが私も大いに惹きつけられる点です。さらにこの島では「泣き女」というのがいて、島の人が死んだとき、泣いて葬儀の雰囲気を昇華させる役を果たすのだそうです。このkeeningは、過酷な自然の猛威にさいなまれる人たちの叫びがすべてそこに集約されてすごい迫力を醸し出し、その中に自然と人との共鳴を体感せずにはいられないのです。シングは、お年寄りの死に集まってきた人たちが一緒になって嘆き悲しむ光景は、この人たちの心のどこかに潜んでいる激情がその場面にすべて吐き出され、恐ろしい運命を前にして痛ましい絶望に打ち震えるのだと確信します。その中にアイルランドの人たちの反骨精神の根源が潜んでいるようにも思えるのです。

 シングとアラン島のお話がすべてでしたが、表題のオケーシーとのつながりを少し述べて締めくくりにします。ある評論家は「オケーシーがシングのあとを受け継いだ」と言っています。シングの十年後にオケーシーが現れるのは年代的なつながりですが、アイルランドの西海岸、田舎が舞台であったシングとダブリンのスラム街と底辺層の人々の暮らしがテーマであったオケーシーの共通項は、いずれも現状離脱と再生願望という大枠でくくれそうです。ひとつ例を挙げますと前にも述べた「ジュノーと孔雀」です。ジュノーはスラム街の生活苦の中で、まったく生活力のない夫ボイル(Peacock(孔雀)とあだ名される)や、密告者として追われるIRAの息子、貧しい暮らしから抜け出そうとして男にだまされる娘、を抱えてたくましく生きようとする女ですが、最後の場面ではすべてを失って神に祈る姿はあのモーリヤの姿そのままなのです。

 彼女の嘆きと決意の場面が終わって、何もない、誰もいない部屋へ酔っ払って帰ってきたボイルの最後のせりふは「この世はどぶどろ」なのです。その中から這い上がろうとする女の強さ、が形を変えて、背景を変えて、二人の劇作家の共通のテーマの大部分を占めているのではないかと思われます。

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1 お知らせ 1-2 熊本アイルランド協会の歩み

Kumamoto Japan-Ireland Society Annual General Meeting 10th Anniversary

His Excellency Mr. Pádraig MURPHY

Mr. President, Member of the Kumamoto Japan-Ireland Society

As you all know, Lafcadio Hearn arrived in Kumamoto at the end of 1891 to teach Latin and English at the large Government College here, the predecessor of Kumamoto University. It would be unfaithful to the record to deny that he did not immediately fell in love with the place; on the contrary, he was immediately depressed with what he called this “straggling, dull, unsightly”, half-Europeanised garrison town with its soldiers and the antiseptic red brick of the Government College. What he had been hit with was the disappearance of enchantment, the knowledge that he would now have to grow old and suffer the “sorrows of the nineteenth century”, as he put it. “I wish I could fly out of Meiji forever”, he said, “back against the stream of time into Tempo, or into the age of the Mikado Yuryaku – fourteen hundred years ago. The life of the old fans, the old screens, the tiny villages, that is the real Japan I love. Somehow or other, Kumamoto doesn’t seem to me Japan at all. I hate it.”

Hearn was upset at the way modernisation was changing Japan. He yearned to turn back the clock. In a more extended diatribe, he put it thus:

“So Japan paid to learn how to see shadows in Nature, in life, and in thought. And the West taught her that the sole business of the divine sun was the making of the chaper kind of shadows. And the West taught her that the higher-priced shadows were the sole product of Western civilisation, and bade her admire and adopt. Then Japan wondered at the shadows of machinery and chimneys and telegraph poles; and at the shadows of mines and of factories, and the shadows in the hearts of those who worked there; and at the shadows of houses twenty storeys high, and of hunger begging under them; and shadows of enormous charities that multiplied poverty; and shadows of social reforms that multiplied vice; and the shadows of shams and hypocrisies and swallow-tail coats; and the shadow of a foreign God, said to have created mankind for the purpose of an auto-da-fé. Whereat Japan became rather serious, and refused to study any more silhouettes. Fortunately for the world, she returned to her first matchless art; and, fortunately for herself, returned to her own beautiful faith. But some of the shadows still cling to her life; and she cannot possibly get rid of them. Never again can the world seem to her quite so beautiful as it did before.”

This is a point of view which I well understand and with which we can all, I suppose, sympathise.

If I understand the point of view very well, it is because Ireland too can be seen as having lost its enchantment during my lifetime. Sixty years ago, one of the most famous Prime Ministers of Ireland, Éamon de Valera, set out his vision of an ideal Ireland on St.Patrick’s Day.

“That Ireland which we dreamed of,” he said, “would be the home of a people who valued material wealth only as a basis of right living, of a people who were satisfied with frugal comfort and devoted their leisure to the things of the spirit; a land whose countryside would be bright with cosy homesteads, whose fields and villages would be joyous with sounds of industry, the romping of sturdy children, the contests of athletic youths, the laughter of comely maidens; whose firesides would be the forums of the wisdom of serene old age.”

It was not to be, at least not as far as the value placed on material wealth, or the satisfaction with frugal comfort, or the devotion to things of the spirit are concerned.

Ireland came to advanced economic development much later than Japan. After a spectacular burst of economic growth that began some 10 years ago, with growth rates for a number of years of over 10%, the highest in the OECD, Ireland today enjoys a GDP per person which puts it in fourth place, after Sweden, Luxembourg and Denmark, in the EU. The transformation from being the poor man of Europe only 20 years ago has been intoxicating, as all such transformations are. For identities are stubborn things. I have noted, for instance, that though Japan has for many years been the second economic power in the world, the Japanese self-image is still that of a small nation, even, to some extent, a victim perhaps – essentially an image which results from a defeat in a war of now over 50 years ago. Similarly, for centuries the Irish too saw themselves as essentially one of the great losers in the historical lottery and, of course, unlike Japan, we are really small. Just as Lafcadio Hearn did in regard to Japan at the end of the nineteenth century, Ireland until recently fed on the illusion that the country could have a uniquely idylic vocation. So we certainly have not come to terms with our new-found prosperity.

The disjuncture between image and reality does, of course, in the case of Ireland at least, give rise to some problems. In the Irish case they result from the inadequacy of some of the structures left over from an overtaken era – their incompatibility with the demands of advanced development. On the level of physical infrastructure too, Ireland finds itself struggling to update its sometimes 19th-century facilities to meet the requirements of its 21st-century economy and the strain is obvious in the area of ground transport, for instance. In some ways, Ireland is like a teenager who has recently grown too fast for his clothes.

Then there is the question of identity. The age of strong nationalistic feelings is gone in Ireland, including the sense of a special calling for Ireland. A strong sense of nationalism meant a strong sense of separate identity. The disappearance of strong nationalism is very welcome, but the accompanying loss of an assurance about identity is more problematic.

The question was posed in an interesting way over the past year or so. Ireland has enjoyed high levels of foreign investment, in particular from the U.S., which has been a very important factor in the high growth rates of the 90s. There has been growing along with this a sentiment that globalisation was the most important contributory factor to this development, and that what some have recently been calling “the old Europe” might have been overtaken by this wave of the future. Sentiments of this kind led the Irish Deputy Prime Minister to say during 2001 that she thought Ireland was nearer Boston than Berlin. This might in some circumstances be taken as a relatively harmless exercise in alliterative speech-making.

However, it so happened that in June 2001 a referendum was scheduled in Ireland on ratification of the Nice Treaty, a very complicated adjustment of the basic EU Treaties in order to permit enlargement of the European Union. Given the very happy experience that Ireland has had as a member of the EU, along with the fact that no less than four such referenda had previously, since we joined the EU in 1973, passed comfortably, the universal expectation was that the passing of this referendum too would be unproblematic. This expectation resulted in complacency on the part of the main political parties, all of which were in favour, but which did not campaign actively.

At the same time, those who opposed the proposal had a relatively easy time giving a simplistic negative reading of the complex legal document which was submitted for ratification. The result was a very low poll, in which a small majority said no. This was a severe embarrassment for the Government, for, without ratification of the Nice Treaty, the politically important enlargement of the EU could not proceed. The Irish people were obliged to consider very carefully whether in fact we were closer to Boston than to Berlin: the question needed imperatively to be put again to the people as, without Irish ratification, the Nice Treaty could not enter into force and enlargement of the EU could not take race.

And so a campaign for ratification by referendum was re-opened one year later with, this time, full commitment by all the established political parties and, as a result, full realisation by the electorate of what was at stake. The result showed that, for the people of Ireland, Berlin was at least as important as Boston: in a large turnout, voted in favour of ratification by a margin of almost to 1.

That having been decided, however, it is true to say that Ireland’s view of its membership of the EU is no longer what it was even five years ago. We have already progressed to being one of the richer member States of the present 15, not to speak of the 25 which will be members as of 1 May next. Because of that, we are already moving from being net beneficiaries from the operation of the Community budget to being net contributors. With enlargement and foreseeable changes in the agricultural policy because of WTO negotiations, this trend can only accentuate.

In sum, Ireland today is a country which has made very important progress in economic development in the past 15 years, bringing it to the first tier of developed economies in the world – in GDP per head, No.10 in the world. In the course of that same accelerated development, questions have arisen about its identity – it being certain that the old nationalistically accented identity has faded. But when well-considered, a commitment to the European integration enterprise as manifested in the EU seems to be an essential part of a modern Irish identity. At the same time, this does not yet completely cover Ireland’s stance in international affairs. Here, a long-standing Irish attachment to the central role of the United Nations in the promotion and maintenance of world peace comes to the fore, together with a question as to the future viability of this option.

Ireland is not a country without problems. I have indicated some of them: the speed of our recent economic development has left some of our infrastructure, especially in transport, with some way still to go in order to catch up. The very open economy, itself a very important factor in the rather spectacular development, also leaves one exposed to the possibility of downturn in the case of an evident slump in the world economy, such as that we are now going through. Here, too, the future is looking considerably murkier than it did only a relatively short time ago. Will the world economy, will the US economy, revive? Will the bodies that oversaw the economic development at universal level since the Second World War – the IMF, the World Bank, WTO, the successor of GATT – be still able to function in the future as they have for 50 years now? These are questions too which are as vital for Japan as they are for Ireland, dependent as we in Ireland are, even more than Japan, on the health of the world economies and, in particular, on that of the US economy. Overall, however, it would have to be said that, in any reasonable historical perspective, Ireland today is experiencing one of the happiest periods of her history, able for the first time ever, perhaps, to offer a premium standard of living to all its population, no longer suffering the hemorrhaging of emigration, and a secure member of one of the most advanced societies of states in the world.

And so we find ourselves at the beginning of a new century, with prosperity that our grandparents could not believe in, but also with problems of a complexity which they could not imagine. And as for the future, I return again to Lafcadio Hearn. What I see in Japan today is a highly sophisticated modern economy which still manages to preserve a distinctly Japanese identity, the product of a culture of some two thousand years. The virtues noticed by Lafcadio Hearn more than one hundred years ago I still see flourishing. So if, in the case of Japan, Lafcadio Hearn’s pessimism of the 1890s is seen not to be justified in 2003, I derive some hope for my own country. Perhaps, after all, the dream that was dreamt by Éamon de Valera in 1943 need not have been dreamed in vain?

I thank you for your attention.

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1 お知らせ 1-2 熊本アイルランド協会の歩み

熊本アイルランド協会創立10周年記念講演

駐日アイルランド大使 ポドリグ・マーフィー閣下

皆様ご存知のように、ラフカディオ・ハーンは、ここ熊本大学の前身である第五高等学校でラテン語と英語の教鞭をとるため、1891年末に熊本に到着しました。ハーンがただちにこの地を好きにならなかったことを否定しては、記録に不忠実でありましょう。反対に、彼は、自ら記したように、「兵隊たちが駐屯する、まとまりのない、退屈で、不体裁なヨーロッパナイズされた都市と、官立学校の味気ない赤レンガ」に意気消沈したわけです。ハーンを襲ったのは、魅惑状態からの脱却で、これから自分は老年期に入り、「19世紀の悲しみに耐え忍ばねばならない」と記しています。「永遠に明治以前に戻れたら」と彼は記しています。「時をさかのぼり、天保時代、または1400年前の雄略天皇の時代に戻れたら、どんなにいいか。昔の扇子、昔の屏風、小さな村、そのような生活が、私が愛する本当の日本なのです。どういうものか、私には熊本が日本のようには思えません。私は嫌いです。」

ハーンは近代化の中で日本が変わっていくことに動転しました。時計を逆回転させたいと願ったのです。もっと痛烈な非難を述べています。

(以下、平井呈一先生の訳を引用させていただきます)
「こうして日本は、わざわざ伝授料を出して、自然の陰影、人生の陰影、思想の陰影の見方を学んだのである。そこで西洋人は、影にもいろいろある、神聖なる太陽の本分は影を作ることにあること勿論だが、あれはしかし、どちらかというと、影は影でも安価な影だ、もっと高価な影ということになると、これは西洋文明が一手に製造しているのさ、といって、しきりと陰影を礼賛して、君たちもぜひこれを採用したまえと言ってすすめた。日本人は、そのとき、機械の影や、煙突の影や、電柱の影を見て、一驚した。鉱山や工場の影、あるいは、そこに働いている人たちの心のなかの影、そういうものを見ておどろいた。20階もある高層家屋の影、その下で物乞いをしている飢餓の影、貧困者をいやが上にもふやすばかりが能のおびただしい慈善の影、悪徳を増すばかりの社会改善の影、インチキと偽善と燕尾服の影、あるいは、火あぶりの刑にあわせるために人間をつくったといわれる異教の神の影。こういう影を、それからそれへと見せられた日本人は、そこまできて、ようやく本心に立ち戻って、それ以上影絵を学ぶことをきっぱりと拒絶したのであった。全世界にとって、まことにしあわせだったことには、日本は、この時いらい、ふたたび、比類なき自国本来の芸術に立ち戻ったのであった。日本が、日本自身の美の信念に、ふたたび立ち戻ったということは、日本自身にとっても、まことにしあわせなことであった。しかし、いったん習いおぼえた影は、いまでもやはり、多少は身にこびりついている。これをすっかり剥ぎおとしてしまうことは、おそらく、日本人にも、もはやできない業だろう。かつては宇宙の万象が、あれほど日本人に美しく見えたように、今後もう二度と日本人の目に映ずるようなことは、まずあるまい。
-引用終わり-

これは私にもよく解る観点であり、われわれ全員が同感できることだと思います。

なぜ私にこれがよく解るかといえば、それは私の一生の間に、アイルランドも、その魅力を失ったと見ることができるからです。60年前、もっとも有名なアイルランドの大統領の一人であるエーモン・デ・バレラは、アイルランドのナショナル・デーであるセント・パトリックス・デーに理想のアイルランド像ついて語りました。

「われわれが夢みるアイルランドとは、物質的豊かさをまっとうな暮らしの基礎であるとだけ考える人々、質素な楽しみに満足し、余暇を精神的活動に使う人々の集まる国でありましょう。その田園は居心地のよい農場であかるくかがやき、野や村には勤勉な人々の声や、元気な子供の遊ぶ声、筋骨たくましい若者の競いあう声、見目美しい乙女たちの笑い声で喜びかえる。そして、暖炉の周りでは落ち着いた老人たちが知恵を出し合い語り合う、そんな国であります」

現実はこのようにはなりませんでした。少なくとも、物質的豊かさに対する価値観や、質素な楽しみに満足すること、また精神的活動に没頭する点においては違っています。

アイルランドの経済発展は、日本よりずっと遅れてきました。10数年前に経済の著しい発展が始まり、数年間、OECD加盟国で最高の10%を超える成長を続けた後、現在は、EU諸国の中で、スウェーデン、ルクセンブルグ、デンマークにつぐ第4位の一人当たりGDPを持つようになりました。たった20年前にはヨーロッパの貧者といわれていた、それからの変身には、すべての変身がそうであるように、人を夢中にさせるものがあります。ですが一方、アイデンティティーというものは頑固なものです。たとえば、日本は世界第二の経済大国であるにもかかわらず、日本の自己認識は小国のまま、または、50年以上前の敗戦からくる犠牲者としてのイメージを持っています。アイルランドも同様に、数世紀にわたり、歴史のくじ引きの中の敗者として自らを見てきました。また、もちろん、日本と違ってアイルランドは事実、小さな国です。19世紀の末にラフカディオ・ハーンが日本について思ったように、アイルランドも最近まで、アイルランドには独特の牧歌的なあり方があるのだという幻想にとらわれていました。ですから、われわれは新しく起きた繁栄をうまく受け入れられないのです。

イメージと現実の分離は、少なくともアイルランドの場合、いくつかの問題を引き起こしています。アイルランドの場合は、過去の時代から引きついだ構造の不適切性-新しい時代的要求に調和しないことから起きています。物理的なインフラにおいても、アイルランドは19世紀型施設を21世紀型経済にあった新施設に改変しようと苦悩しており、たとえば地上輸送の分野で懸命の努力をしています。ある意味では、アイルランドは急に成長して服が窮屈になったティーンエージャーといったところでしょうか。

そして、アイデンティティーの問題が出てきます。アイルランドには独特のあり方があるという考えも含めた、強烈な愛国主義的思考の時代は過去のものとなりました。強烈な愛国主義的思考は、強いアイデンティティーの意識とつながっています。過度の愛国主義的思考の消失は非常に歓迎するものですが、それにともなうアイデンティティーの欠損は、より問題です。

この問題は、昨年ごろから、興味ある形で現われています。アイルランドは特にアメリカ合衆国などの外国からの投資を多く受け、それが90年代の高度成長を推進する重要な要素でありました。これに伴い、グローバライゼーションこそが国家の発展をもたらす最も重要な要素であるといった考えが起こり始め、「古いヨーロッパ」は将来、この波にのまれてしまうだろうと考える人が現れ始めました。こういった考えが、2001年にアイルランド副首相をもって、アイルランドはベルリンよりボストンに近いと思うと言わせたのです。時と場合によっては、これは頭韻を踏んだ無害な演説だと受け取られるでしょう。

しかし、2001年6月に、その問題が浮き彫りになったのです。アイルランドではニース条約の批准をめぐる国民投票が予定されていました。ニース条約は、EU拡大に道を開くためにEUの基本的条約の複雑な調整をするための条約です。アイルランドが1973年にEUに加盟して以来、4件以上このような国民投票が行われましたが、いずれも楽に可決されてきたという事実と、アイルランドがEU加盟国として享受してきたすばらしい経験を考慮すると、この国民投票は問題なく可決するというのが普遍的な予想でした。主要政党はその予想に満足し、そのすべての政党が批准に賛成であったのにもかかわらず、政治運動を活発に行いませんでした。

同時に反対派は、批准用に提出された複雑な法律文書を平易に否定的に解釈し、比較的楽なキャンペーンを展開したのです。結果は非常に低い投票率で、反対派が小差で勝利しました。政府は大変に困難な立場に追い込まれたのです。ニース条約を批准しなければ、政治的に重要なEU拡大が前進しないからです。アイルランドの人々は、本当にベルリンよりボストンに近いのかどうかを真剣に考えなくてはなりませんでした。アイルランドによる批准がなければ、ニース条約の発効はなく、EU拡大は挫折するので、どうしてもふたたびこの問題を国民に問う必要がありました。

一年後、国民投票による批准を求めた運動は再開されました。今度はすべての既成政党が十分にかかわり、結果として何が問題なのかを選挙民がしっかりと理解したわけです。投票の結果、アイルランド国民にとって、ベルリンは少なくともボストンと同様に重要だということが明らかになりました。投票率は高く、ほぼ2対1の比率で人々は批准に賛成したのです。

そしてそれは批准されましたが、アイルランドのEU加盟国としての視点が、もう以前のものではない、5年前と比べても違ってきているのは事実です。来年の5月1日より拡大する25加盟国の中では言うに及ばず、アイルランドは、現在の15加盟国の中でも既に富める国の一つとなっています。そのため、EUの予算配分では、われわれはすでに受益者から、純貢献者に移行しつつあります。EU拡大と、WTOの折衝でおそらく起きるであろう農業政策の変化により、この傾向は進む一方です。

要約すれば、今日のアイルランドは、過去15年間で非常に重要な経済発展を遂げ、世界の先進国のトップグループに入りました。国民一人当たりのGDPは世界10位です。その急速な発展の中で、アイデンティティーの問題が出てきました。古い愛国主義的に彩られたアイデンティティーが薄れたのは確かです。しかし、よく考えてみれば、EUに表されるヨーロッパ統合事業への貢献が、近代アイルランドのアイデンティティーの主要部分であるとも思われます。しかし同時に、これが国際問題におけるアイルランドの立場を完璧に表しているわけではありません。世界平和の推進と維持に、アイルランドが国際連合を中心とした活動に長年、貢献してきたことは、その選択の将来的展望の問題とともに、焦点をあてる必要があると思います。

アイルランドは問題のない国ではありません。すでにいくつかは申し上げました。近年の経済発展の速度に、特に輸送部門でのインフラが追いつかず、キャッチアップする必要があります。また、開放経済が目覚しい発展をとげる上で非常に重要な要素だったのですが、現在のように世界経済が明らかに停滞している場合には、下落の可能性にさらされることになります。また、将来は、過去の数十年に比べ、より不確かさをますように思えます。世界経済は、アメリカ経済は、再生するのでしょうか? 第二次世界大戦後、地球規模で経済発展を指導してきた機関-IMF、世界銀行、WTO、GATTの後継機関-は、過去50年間のように、将来も機能できるでしょうか? こういった疑問は、日本にとってきわめて重要であるように、アイルランドにとっても重要です。アイルランドは日本以上に世界経済の健全性、特にアメリカ合衆国経済のそれに依存しているからです。しかしながら、全体としてみれば、アイルランドは現在、あらゆる見地からして、その歴史の中で最も幸せな時期にあることを述べておかねばならないと思います。おそらく、歴史の中で初めて、すべての国民に優れた生活程度を供し、もはや移民による人口消失はなく、世界中でもっとも進んだ国家社会の一員として安定した地位を保っています。

新世紀の冒頭にある我々は、祖父母が決して信じることのできない繁栄の中に立つと同時に、彼らには想像もつかない複雑な問題をも抱えています。将来については、ふたたびラフカディオ・ハーンにもどりたいと思います。今日、私がお見うけしますに、日本は高度に洗練された近代経済国家であると同時に、2000数年の歴史に培われた文化の産物である日本の独自性をまだ明確に保持しておられます。100年前にラフカディオ・ハーンが気づいた美徳は、まだ存在し、あちこちに見受けられると、私は思うのです。ですから、もし、1890年代にラフカディオ・ハーンが抱いた悲観論が2003年に実証されていないなら、私は、わが国にもいくばくかの希望があるのではないかと思うのです。エーモン・デ・バレラの1943年に見た夢は、むなしく終わることはないのではないでしょうか?

ご清聴、ありがとうございました。