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2 小泉八雲(ラフカディオ・ハーン) 2-1 小泉八雲の魅力

ハーンとのかかわり

樋口欣一(まるぶん書店顧問)
2006年10月22日(日時は調査中です)

はじめに
 私とハーンとのかかわりについてはハーン来熊百年記念祭報告書にありますように1988(昭和63)年4月、ハーン研究会を立ち上げた頃より始まりました。そのきっかけは、ある東京の出版社の社長さんの耳の痛い忠告でした。

実はその4年前に「ラフカディオ・ハーン著作集」の第15巻が発行されました時に、その翻訳に当たられた早稲田大学の先生を呼んで熊本で講演会を開催しましたのでかれこれ22年以前になります。先程の出版社の社長さんの忠告で、熊大の中島先生や中村先生に相談して勉強会を始めてのが昭和63年の事でした。
 
私は去年4月にも熊本八雲会でお話ししましたので(*注1)、今日はハーン来熊百年記念事業行事で熊本へ見えた先生の中でひょんな事で知り合いになった方々の内から3名の方とのお話をさせて頂きたいと思います。

洋学校の市原
 朝そと庭の掃き掃除していますとジェーンズ邸の前を行きつ戻りつしておられる方がいます。「どうされましたか」と声を掛けると「ジェーンズ邸を見学に来たが開館していないので・・・」と言われるので「まだ30分もあるので、私の所でお待ちになって」と言って迎え入れました。すると丹沢栄一と言われる東京の大学の先生で“ハーン”の勉強で来たと仰るので、ハーンと熊本のこと、ジェーンズの事など暫く話して、ジェーンズ邸へ送りました。これが機縁でハーンの資料や研究論文を次々に送って頂くようになりました。
 ジェーンズにつきましてはノートヘルファー先生著「アメリカのサムライ」という本がありますが、その中に市原盛宏と武正とを混同した記述があります。盛宏は京都の同志社に進んでいますが市原武正は東京の商法講習所に進んでいます。実は洋学校への入学は武正の方が早く、後進生教授方となっています。この事を丹沢先生に申し上げると間もなく早稲田大学の図書館でジェーンズの死去に伴う香奠奉納者名簿に二人の名前が出ていて、当時日銀名古屋支店長の盛宏は武正の5倍以上の香典を納めており、この点で「アメリカのサムライ」の訂正が必要と判りました。一方、武正は商法講習所を卒業したと云う記録はありません。英語が出来ましたので外国へ出たのかと渡航記録を調べましたし、一橋大学も調べましたが杳として掴めません。武正は花岡山の熊本バンドには参加していない所から阿蘇の市原家と関係ないか調べましたが判りません。

モースとハーン
 その後、丹沢先生が「モース」の調査で再び来熊されました。モースが熊本に立ち寄ったのは明治12年6月のことでした。ハーンはスペンサーの進化論に関心を寄せていましたが、「龍南会雑誌」にモースに触れています。恰もハーン自らが大野貝塚古墳を見たようにもとれますが、この時はハーンは手取本町から坪井へ移転中であり、之は五高の鹿児島への行軍旅行の学生か、引率の秋月胤永の話を聞いて書いたのではないかと私見を申し上げて、龍北町から法道寺に来ますと、境内の大樹はモースの「その日その日」にあるスケッチ画そのものでした。

シャーキー駐日アイルランド大使
 所で私は平成7(1995)年11月アイルランドの駐日大使でしたシャーキー氏をダブリンに訪ねました。その際ハーン来熊百年記念祭報告書と「ラフカディオ・ハーン再考」などを差し上げ、話は浦島太郎の伝説に及びました。するとシャーキー氏はアイルランドにもそれと同じような伝説があると云って「オシーン」の話をされました。こちらは亀ではなくて、白馬です。シャーキー氏は三角の旅館、浦島屋に行かれていますが、釣鐘島の伝説はご存じではありませんでした。

 釣鐘島の話は川尻の大禅寺の住職が唐より帰るとき2つの鐘を持って帰られたが、舟が難破して1つは中神島に流れ着いたが、もう1つは辛うじて川尻に持ち帰られその鐘をつくと中神島の鐘が鳴るというのです。川尻の鐘は男の鐘で、中神島のは女の鐘といわれるのも美事な伝承です。時は文永4(1267)年の事でした。

風呂鞏さん
 次は中村青史先生のご紹介で広島の風呂鞏という先生とお知り合いになりました。矢張りハーンの研究会で熊本に来られた大学の先生で、最近お手紙を頂きました。と言うのは本日のこの会の通知状に私の紹介が出ていたからで、先生は熊本アイルランド協会の会員でいらっしゃるのですね。お手紙には広島で開催されている藤田嗣治展の印象を詳しく述べられています。実は私も8月末日帰りで、広島に見に行きました。風呂先生のお手紙では展覧会を見て帰宅後近藤史人著『藤田嗣治「異邦人」の生涯』を読まれた所、私の名前が出てきたので驚いて、手紙を認めたとありました。

 私は現在本山町の石光眞清生家の保存運動に携わっていますが、石光眞清も藤田嗣治も私の小学校の大先輩です。この2人は第一次世界大戦の折、フランスで会っています。この辺の事情は「石光眞清の手記」には触れられてはいませんが、ホームぺージでは藤田とパリで会いその紹介でジャン・コクトーともあっていることが判りました。

ハーンと藤田
 風呂先生のお手紙では「ハーンを裏返しにしたような面もある藤田―社会の底辺に住む人々への思いやりなど」とあります。私は広島で藤田の戦争画に隠された意図を探すのに熱中して、風呂先生の「ハーンと通底するもの」とのご指摘に改めて画集を見直しました。風呂先生の云われるハーンと藤田嗣治の関係で「ハーンを裏返しにしたような面もある藤田」とはどういう事でしょうか。藤田は戦時中に戦争画の大作を次々に発表しましたが、戦争が終わると画壇の戦犯騒ぎで、遂にフランスへ出国して国籍を得、カトリックに帰依して遂に日本に帰ることはありませんでした。

 一方ハーンはギリシャで生まれ、父の出身地アイルランドへ渡り、更にイギリスを経てフランスからアメリカに移りマルティニークを経て日本に来ました。つまり二人は母国を去り外国で生涯を終えています。

 ハーンを裏返したような面とはこの事でしょうか。また先生の社会の底辺に住む人人々への思いやりとは?。藤田は日本の画風にヨーロッパの技法を取り入れてエコールドパリで名声を博しました。広島で実物に触れてその歩みを辿ることが出来ました。

 ハーンの作品に「草ひばり」と云うのがあります。実は私の弟が安永信一郎先生のご指導で昭和21年2月「草雲雀」という短歌集を出していますが、その裏表紙に、ハーンの「草ひばり」の「・・・だが要するところ飢餓の為に自分の脚を噛むということは詩の天禀ともつといふ呪詛を蒙ってゐる者に起こりうる最大の凶事では無い、歌はんが為には自分自身の心をも食べなければならぬ人間の蟋蟀が居る」とあり、巻頭の「草雲雀宣言」には敢然と歌のマンネリズムに斧を打込む」と唱っています。弟は五高生として愛読していたのでしょう。

 ハーンの妻セツの「思ひ出の記」には「ヘルンは虫の音を聞くことが好きでありました。この秋、松虫を飼っていました。9月末の事ですから松虫が夕方近く切れ切れに少し声を枯らして鳴いて居ますが、常になく物哀れに感じさせました。・・・段々寒くなって来ました。知って居ますか、知って居ませぬか、直に死なねばならぬと云うことを。・・・」そしてハーンは2年後の9月26日にこの世を去りました。ハーンは草雲雀や松虫の様な微細な生命の内に自分と同じ感情乃至魂が存在するということの神秘を読んでいたのです。

 ハーンの別の作品を見てみます。「ある保守主義者」の最終章には、一旦祖国に背を向けた明治の一自由思想家が、長年の西洋滞在の後、船に乗って日本へ回帰して来ます。すると富士山が見えて、皆心打たれてひとしくおし黙ります。

 夏目漱石もイギリス留学を切り上げて帰国した時には同じ様な祖国回帰を味わった事でしょう。弟は「草雲雀」に「シベリヤも春たけなはとなりけむ兄上よいのち生きをりたまへ」と詠んでいますが、私はその翌年の暮「ダモイ東京」でナホトカから恵山丸に乗り朝焼けの舞鶴に近づいた時同じ様な祖国への回帰を身に沁みて感じました。

藤田との思い出
 所でフランスに帰化した藤田嗣治は50年代にかっての猫や裸婦を描くことが少なくなり、題材は見違えるほど自由になり、中でも浮浪者の姿を多く描くようになり、ある時は路傍の物乞いに大金を与える姿が見られたといいます。ハーンもまた神戸時代には下層社会への関心を寄せています。

 さて私は最晩年の藤田に会うことが出来ました。画風は子供や猫、女性の裸像から次第に宗教画に収斂して、フランスで文字通り最後の大作に取り掛かった所でした。私が「熊本の付属小学校の後輩です」と申し上げると、作画を止めて、昭和4年付属小学校に来られた時の事を懐かしそうに話されました。当時の校舎は木造平屋で、私も入学した1年の1学期、その教室で習いましたと申し上げると、「年は幾つ?」と云われましたので「44歳です」と答えると、「若いなぁ」と云って、タバコに火をつけて、「稗田の記念碑を知っているか」とのお尋ねに「海老原先生に協力して手伝いさせて頂きました。場所も吉本家で、私の弟の通った英語塾のあった所です」と申し上げると「パリで海老原君に会ったか」と聞かれ、お互いの思いは次から次にふくらんで行きました。フランスで日本人に会うのも嫌がった文字通り日本を捨てたと云われた画伯には祖国への回帰の情が込められていると思いました。現に画伯と親しかったシャンソン歌手の石井好子は画伯が「もう一度日本に帰りたい」と云っていたと云います。

 ハーンも自分自身祖国への回帰の情にとらわれていたからこそ「ある保守主義者」に雨森信成の心境をダブらせたのでしょう。

本田増次郎
 何か文学と美術をゴッチャ交ぜにしたお話ですがもう一人「本田増次郎」に関連して小原孝氏に触れてみます。小原氏は当時岡山県立博物館に勤めておられましたが、リデル・ライト記念館へハンナ・リデルの事を調べに来られました。実は熊日にリデル・ライト記念館で行われた講演会の記事に山本有三と出ており本田増次郎の娘婿と云うのでした。弟の五高名簿に同じ増次郎だが大倉とあり藤本館長に電話して尋ねると同一人物と判り私が国会図書館でコピーした本田増次郎著「イートン学校及び其校風」を寄贈しました。小原氏はそれを見て、拙宅を訪ねて来られたのでした。平成12年12月「アイルランドの文化と岡山の文化」と云う展覧会が博物館で開かれ、イートン校のコピーも見てまいりました。岡山には「ケルト文化研究会」というのがあって「J.M.シングと木下順二の民話劇」など研究が進んでいる事が判りました。

 ハーンが東京大学を辞めて早稲田大学に転じた時実は本田増次郎も大学で同勤で、本田とハーンを結ぶ接点は余り無かったようですが、それから本田の縁戚の長谷川勝政氏が増次郎の自伝を作られて、その中に増次郎の姪(こま)が私の母の女学校で英語の先生をした事を知り、母の蔵書に「女学校四十年史」があり、その中に「本田先生」が出ているのが判りました。だとすれば母はこま子に英語を習った筈ですがもう後の祭りとなってしまいました。

 本田はハンナ・リデルと本妙寺に詣り、リデルがハンセン氏病患者と取組むことになります。ハーンも本妙寺に参りました。西成彦先生の「ハーンの耳」は熊日文学賞を受けられましたが、ハーンは目が悪かったとは云え、境内の情景が目に止まらなかったとはとても思えません。日清戦争で凱旋する将兵を見て、その作品「戦後に」では「しかし日本にとっての将来の危険はまさにこの途方も無く大きな自信の中にあるともいえよう」と書いていますが、第二次世界大戦でハーンの予告通りの結末を見ました。

 本田増次郎は後にアメリカで「オリエンタル・レビュー誌」の発行に携わっています。ハーンの年譜によれば、ハーンの死後「ラフカディオ・ハーンの伝記と書簡」が追悼の意をこめて発行されますが、丁度その時期に本田はアメリカで勤務していましたので、或いは書評でも書いていないかと思って冒頭の丹沢先生に申し上げましたところ、素人の思い付きがお手元のような発見(*注2)に結びつきました。30分の与えられた時間が参りましたので、お帰りになりましてからご一読下されば幸甚に存じます。

(*注1)くまもとハーン通信NO.6 平成11年9月26日 樋口 欣一「私とハーンとのかかわり」
(*注2)本田増次郎と小泉八雲―「オリエンタル・レヴィユー」誌上での八雲への献辞― 丹沢 栄一 工学院大学共通課程研究論叢 2003年2月発行

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ハーン雑話

宮崎啓子(小泉八雲熊本旧居館長)
2006年(第8期)市民講座「ハーンを育んだアイルランドの風土と文化」(7回シリーズの第1回)
小泉八雲熊本旧居

 今日はハーンゆかりの人たちを通して、エピソードなどを紹介しながらハーンの人柄などのあれこれについて話したいと思います。

西田千太郎
 西田千太郎はハーンが島根県尋常中学校の英語教師として松江に赴任したとき、公私にわたってハーンを支えた人です。

 西田は松江で修学ののち上京し、約2年間苦学して中学校教員免許を受けました。その後兵庫県の姫路中学校、香川県の済々学館で教えたのち、請われて明治21年に島根県尋常中学校の教諭になっています。その2年後、ハーンとの出会いがありました。

 ハーンは西田の頭脳明晰、親切で人情味あふれる誠実な人柄にひかれて、二人の親交は西田が明治30年に36歳の若さで亡くなるまで続きます。西田は公的にはもちろん、資料収集、取材活動への協力、私生活の世話にいたるまでハーンに不自由を感じさせなかったといわれています。ハーンの長男一雄は『父小泉八雲』の中で西田について「松江聖人と噂されており、父が最も信頼した日本人中第一の友人である。父の日本研究に多大な援助を与えた人。日本の人情風俗においても懇切丁寧に説明を施した。」と書いています。

 明治25年夏、ハーンが約2ヶ月にわたって関西・隠岐方面を旅行している間に、西田は九州地方を旅行し、この手取本町の家に立ち寄り3泊して五高、水前寺公園、本妙寺などを訪れています。

 ハーンは熊本時代に執筆した『東の国から』を「出雲時代のなつかしい思い出に、西田千太郎へ」と献呈しています。熊本にも西田のような心を許せる友人がいたならば、ハーンの熊本時代も違ったものになっていたかもしれません。

藤崎八三郎
 旧姓を小豆沢といいます。島根県尋常中学校での教え子で、ハーンの作品『英語教師の日記から』の中に「今後わたくしの記憶に最も長く明白に残るだろうと思う」生徒の一人として紹介されています。ハーンが熊本に移った後もハーンを慕って文通を続け、資料提供の手伝いなどをしています。明治26年に卒業しますが、進路についてハーンに相談し熊本に訪ねてきたりもしました。

 明治28年9月、五高に入学しますが前年12月志願兵として入営していたため、出校しないまま休学し、翌年3月に退学しています。結局、陸軍士官学校に入り、職業軍人の道を選びました。この時、藤崎家の養子になっています。

 東京時代のハーンは、毎年のように家族を連れて焼津に海水浴に行き1ヶ月ほど滞在しました。明治30年の夏には藤崎も訪ねていき、ハーンのかねてからの念願であった富士登山に同行します。この登山からは『富士の山』という作品が生まれました。その当時ハーンは身体に少し衰えを感じていたらしく、富士登山はとても無理だと諦めていました。藤崎が「私が一緒に行きますから」といって周到な準備のもと、決行します。藤崎の手記によれば「一人の強力が先生の腰に巻いた帯を引いて、もう一人は後ろより押し上げやっと夕方8合目に到着。一泊して翌朝8時についに頂上に到着した」というような登山だったようです。

 藤崎は東京でもハーンを慕ってよく訪ねています。藤崎夫人ヲトキさんの回想によると、縁談はハーンの助言でまとまり、お見合いも小泉家の座敷で行われたということです。明治37年2月、日露戦争が始まり藤崎は満州に出征することになりますが、ハーンは家族ぐるみで送別会を開いています。9月26日、ハーンは戦場の藤崎に手紙を書き数冊の本とともに発送して、数時間後に心臓発作で亡くなりました。藤崎は「先生の最後となった手紙と贈ってくださった本と、それから先生の亡くなられたという知らせと同時に受け取って悲嘆に耐えなかった」と手記に書いています。この絶筆となった手紙は戦災で焼失しましたが、幸い木下順二氏が写真に撮ってあった原板があり、それを焼き付けたものがこの記念館に展示されています。

 ハーンの没後、上京した藤崎一家がすぐに家が見つからなかったので、小泉家の半分を借りて住んだこともありました。大正12年、熊本で済々黌高校の教師となって英語、地理を教えますが、晩年、本当は文学がやりたかったんだと孫たちに語っていたそうです。小泉時氏のお話では「藤崎さんが上京される際は好物のちらし寿司をつくってお待ちしたものでした」ということでした。

雨森信成
 あめのもり のぶしげといいます。1858年、福井に生まれました。藩校の明新館で英語を学び、更に横浜のブラウン塾で学んでおります。20代の後半から西洋諸国を遍歴し、30歳頃に日本に帰ってきたといわれています。

 ハーンの熊本時代にマクドナルドの紹介によって交際が始まり、ハーンにとって「真面目な、あたたかい、利己心のない友人」となりました。その優れた学識と語学力を生かして、ハーンの良き協力者となり、貴重な資料を提供したりして親交を深めました。ハーンは著書『心』を雨森に献呈していますが、「ある保守主義者」は雨森がモデルといわれています。

 ハーンの没後、アメリカの雑誌『アトランティック・マンスリー』に「人間ラフカディオ・ハーン」という追悼文を寄せております。ハーンをよく理解した友人として、作家としてのハーンの一面を生き生きと描写したすばらしい名文といわれるものです。その一節を紹介します。

 「ハーンは夜が遅いにもかかわらず、早起きだった。気が乗ると午前2時、3時まで書き続けた。初めて彼の家に泊まった晩に見たものは私の記憶に焼きついて、生涯忘れることがないであろう。私も夜は遅い方であったから、その晩も寝床で本を読んでいた。時計は午前1時を打ったが、ハーンの書斎にはまだ灯りがともっていた。低い、かすれた咳のような音がした。わが友が病気なのではないかと私は心配になった。それで自分の部屋から抜け出て彼の書斎に行ってみた。しかし執筆中には邪魔はしたくないと思い、用心深く少しだけ戸を開けて覗き込んだ。友は例の高い机に向かい、鼻をほとんど紙にくっつけんばかりにして、一心不乱にペンを走らせているところであった。一枚一枚と書き続けてゆく。しばらくして彼はふと顔を上げた。その時私は何を見たであろう。それはいつもの見慣れたハーンではなかった。全くの別人であった。顔がふしぎなほどに白かった。大きな眼がきらきら光った。何かこの世ならぬものと通じ合っている人のように見えた。」

ミッチェル・マクドナルド
 ハーンが来日した時、エリザベス・ビスランドの紹介状をもって横浜海軍病院勤務のマクドナルドを訪問して以来の友人です。ハーンが帝国大学講師となって上京してからは,東京と横浜とをお互いに行き来し信頼関係を深めていきました。マクドナルドは雨森とも親しく、二人はハーン一家と一緒に海水浴に行き、皆で楽しく一日を過ごしたこともありました。ハーンは子供のように喜んで、得意の泳ぎを披露したそうです。

 ハーンの没後は、小泉家の遺産管理人として遺族を支えました。ハーンの帝大講義録も彼の尽力で出版が実現しました。1920年横浜グランドホテルの社長に就任。生涯を独身で通したマクドナルドは、ハーンの長男・一雄を我が子のように可愛がりました。

 ハーンを支え、ハーンを慕い、ハーンが心を許した友人たちをとおしてみると、ハーンがいかに魅力的な人物であったかということに改めて気付かされます。