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1 お知らせ 1-3 事務局よりお知らせ

2009年度熊本アイルランド協会総会

 2009年10月4日17時30分から、鶴屋百貨店東館7Fカーネーションサロンにて、2009年度熊本アイルランド協会総会が開催されました。

 開催に先立ち、アイルランド大使館特命全権大使のブレンダン・スキャネル(Brendan SCANNELL)閣下より、お祝いのメッセージを頂戴しましたので、ご紹介いたします。

 

Ambassador of Ireland’s Message
For
Kumamoto Ireland Society Annual Gathering 2009

 

It is a great pleasure to congratulate the members of the Kumamoto Ireland society on the occasion of their Annual General Meeting.

Kumamoto has long had a strong connection with Ireland through Lafcadio Hearn and more recently through the growing success of the Saint Patrick’s Day parade there. I would like to thank you for your dedication to the promotion of Ireland in Kumamoto and beyond the city’s boundaries.

As Ireland’s good relations with the region continue to grow, I would like to wish you every success with this year’s gathering and with your activities throughout the year.

 

Brendan Scannell
Ambassador of Ireland

 

 総会では昨年度の事業報告、決算報告、監査報告が了承され、今年度の事業計画、予算が可決されました。そのほか役員改選も行われ、新理事、新監事よりご挨拶をいただきました。また、今年度より事務局を下記へ引き継ぐことになりました。

  〒862-0959 熊本市白山1丁目6番31号 株式会社お菓子の香梅内

  電話:096-366-5151

  FAX:096-372-1857

  メール:office[atmark]kumamoto-ireland.org ([atmark]を@にしてお送りください)

 

 総会後は懇親会が開かれ、熊本保健科学大学学長の小野友道先生より卓話をいただきました。

熊本アイルランド協会事務局

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3 アイルランド 3-8 アイルランドの教育

アイルランドの教育 ~その歴史と現状~

和田英武(崇城大学非常勤講師(元教授))
2009年(第11期)市民講座「ラフカディオ・ハーンとアイルランド文化」(5回シリーズの第3回)
小泉八雲熊本旧居

 こんにちは! 崇城大学非常勤講師の和田です。本日は、表題のようにアイルランドの教育、特にその初等及び中等教育について話をさせて頂きます。

1 我国におけるアイルランド研究について
 アイルランドは、日本から見るとイギリスのさらに西の方にあり、我国ではあまり知られておりません。しかし、我国では戦前からアイルランドについての研究は進められていたんですね。それは、日本が日清・日露戦争の頃より大陸進出をして、多くの異民族を日本帝国の中に抱えるようになり、それらの民族を如何にうまく統治していくのかということが当時大きな課題となっていたからです。すなわち、その課題を解決するために、我国は、当時の大英帝国のアイルランド統治から何かを学ぼうとしていたのです。このアイルランド研究の大半は、日本帝国主義政策を推進するものでしたが、戦後、東大総長になられた矢内原忠雄氏(1893~1961)の研究は、当時としては珍しいアイルランド人の側に立つ研究であり今日でも高く評価されています。皆様も何かの機会に氏の著作を読まれると良いと思います。

2 イギリスの植民政策により苦しんだアイルランド人
 本日のテーマは、アイルランドの教育についてですが、その前に教育の背景の1つである「イギリスの植民地としてのアイルランドの歴史」について簡単に触れておきます。
 アイルランドは、12世紀のイギリス国王ヘンリⅡ世(1133~89)の頃よりその支配を受け、その後数多くのイギリスの国王や支配者によって侵略を受け植民地化されました。その中でも特にオリーヴァ=クロムウェル(1599~1658)の侵略は激しく残酷だったと言われています。彼は、我国の高校の世界史では、清教徒革命の指導者、近代化の祖、正義の人として英雄視されています。しかし、アイルランドでは極悪人として全く反対の評価を受けています。いずれにせよ、イギリスによる支配は過酷でアイルランド人はカトリック教の信仰を禁止され、土地を奪われ貧困と差別に苦しみました。
 1800年になるとイギリス・アイルランド連合法が成立し、翌年、アイルランドは法的に完全にイギリス帝国に併合されてしまいました。併合した後のイギリス政府は、懐柔策と弾圧策を繰り返しながらアイルランドを支配してきました。これに対して、アイルランド人は、次第に組織的な抵抗運動を行うようになってきました。その先駆けをなした人物が、ダニエル=オコンネル(1775~1847)という人物です。彼は、いわばアイルランド独立の父とでも言える人です。現在のダブリン市の中央の大きな通りをオコンネル通りと呼び、その中央に彼の大きな像が建っています。彼は、今でもアイルランドの多くの人々から尊敬されています。
 1845~48年には有名な大飢饉がアイルランドを襲い、ただでさえ苦しかったのに一般庶民の生活はますます苦しくなり、彼らは塗炭の苦しみを味わいました。その時約100万人が死亡し、約120万人が外国へ移民したと言われています。このような状況の中で特に悲惨だったのは、19世紀半ばころに約10万人もいたと言われている小農民たちでした。彼らは、15エーカ以下の借地を持ち、農業や漁業及び海藻集めなどに従事し、生計を移民した子どもたちからの送金で補い、重い地代を払っていました。もし、地代を払えなければ、追い立てを受けました。最近のアイルランドの高等学校の歴史教科書には、多数の警察を伴った地主による追い立てを受け、家から引きずりだされる農民の姿が描かれています。その姿はあまりにも悲惨であり、それを見るとき我々は涙せずにはおれません。
 このような状況のもと、その後数多くの民族独立運動が頻発するようになりました。まさに、19世紀後半以降はアイルランドにとって自治権獲得ないしは民族独立運動の時代であったと言えるでしょう。その中で特に有名なのは、非合法的な独立運動を行ったIRB(アイルランド共和兄弟団)の武力団であるフィニアン(Fenian)たちでした。彼らは、他の集団と共に1916年にイースター蜂起を決行し、1919~21年には独立戦争を戦いました。彼らの長い苦しい戦いの末、アイルランドは遂に1922年に自由国となりました。しかし、その後も内乱が続きました。それをなんとか克服したアイルランドは、ようやく1949年にイギリスから完全に独立を遂げることが出来、今日のアイルランド共和国の誕生に至ったのです。

3 昔から教育に熱心だったアイルランド人
 アイルランド人は、昔からとても教育に熱心だったと言われています。例えば、アイルランドでは、既に6世紀ころから吟遊詩人学校や修道院学校が発達していました。この中でも修道院学校は、数も多く当時「西欧世界の教育センター」と呼ばれていました。
 その後16世紀から19世紀前半にかけて、イギリス国王や議会の息のかかったいろいろな学校が誕生するようになりました。具体的には、それらは教区学校、司教区学校、王立学校やチャーター=スクールなどです。これらの学校は、いろいろな事情で誕生して、それぞれ性格が異なっている面もありましたが、大局的にはいずれも、イギリス人によるアイルランド人支配を促進しようとする学校でした。すなわち、これらの学校はアイルランド人の子どもたちに英語を話させ、イギリスの秩序や習慣を学ばせ、イギリス国教会のプロテスタントを信仰させようとするものでした。従って、これらの学校は、いずれもカトリック教徒の多いアイルランドの庶民階級にはあまり人気がなく、その数も僅かでした。
 その他、19世紀になると聖書協会と呼ばれる国家の支援を受けたプロテスタント系の宗教団体から多くの援助を受けっている学校が誕生しました。特にキルディア地区協会の援助を受けた学校は、1831年には1,621校となり、生徒数は137,639人となっていました。これは、協会が最初は宗教的に中立の立場を取っていたからです。しかし、後にだんだんとその協会が住民にプロテスタントを強要するようになると住民はそれから離れていくようになりました。
 この他、今まで見てきた学校とは全く異なる垣根学校(hedge school)という学校があり、それは国家の支援を全く受けずアイルランドの庶民に広く受け入れられていました。この学校は、1695年に発布された刑罰法による厳しい弾圧の下で、非合法的に営まれており、一般的には学校の周りを溝や垣根で囲み、非常に小さな部屋で、時には納屋の隠れ屋よりもっと小さな教室で、見張りの子どもを置きながら、非常に貧しい教師が教えていました。教師は、ときどき巡回し、家に住み込み、見返りにその子どもたちを教えていました。家を提供しないその他の親はわずかの授業料を硬貨か物品を支払うという状態でした。この学校では、1820年代の半ばまでに30万人から40万人の生徒が学んでいたと、アケンソンという学者は推測しています。このことから、如何にこの学校が庶民階級に人気があったのか分かると思います。また、如何にアイルランド人が教育に熱心であったかが、分かると思います。
 アイルランドを統合した後のイギリス政府や議会は、それまでの反省から1831年に国民学校(national school)を誕生させました。この学校は、アイルランドの教育史にとってとても重要なものと私は考えています。何故かと言えば、それは、国家が支援する学校でありながら、庶民階級のための教育も行おうとしていたからです。私は、ここにアイルランドの近代的な公教育が始まったと考えています。この学校は、その後それまでプロテスタントが支配していた学校から、庶民の多くが信仰しているカトリック教の声に次第に耳を傾ける学校となっていきました。この学校は、最初のうちは数も少なく、就学する生徒数も少なかったのですが、年を追うに従って増えていき、盛衰を繰り返しながらも長く貧しい植民地時代を生き続け、今日ではアイルランドの初等教育の根幹をなしています。
 なお、アイルランドでは、植民地時代にはあまり中等教育は発達しませんでした。というのは、1695年の刑罰法によりカトリック教徒の教育が禁止されていたからです。そのため、高い教育を受けたい若者は、海外に渡り海外のアイルランド人が設立したカレッジで非合法的に学んでいました。しかし、18世紀後半の救貧法によりカトリック教徒の教育が許されると、教会や修道会により上級学校が設立され中等教育も行われるようになりました。ただ、これはあまり多くはありませんでした。

4 1960年代から発達したアイルランドの教育
 1922年に自由国となり、さっそく新しい国作りが始まりました。その一環として、1924年には教育省が設立され、1926年には義務教育も始まりました。
 しかし、アイルランドの教育の本格的な発展は、1949年に共和国となった後の1960年代以後です。アイルランドでは1960年代以後急激に経済が発展し、それに伴って教育も急激に発展しました。そのとき成立した諸々の教育制度が現在のアイルランドの教育制度の基盤となっています。この時期には、教育省は組織を整え機能を拡大させ、初等・中等教育のほとんどの分野に強い影響を及ぼすようになってきました。その結果、1967年には義務教育の無償化が実施され、義務教育年齢の就学率も1992年の時点で99.9%となってきました。また、中等教育も整備され、現在約60%の生徒が通う中等学校は勿論のこと、他に職業学校、総合学校、地域学校など新しいタイプの学校が誕生しました。

5 最近のアイルランドの教育の動向
 次に、最近のアイルランドの教育の幾つかの動向について触れてみたいと思います。
 その1つは、教育省内のスリム化が行われているということです。1960年代以後の教育省は、教育の広範囲な業務を抱え込んでしまいました。従って、それは、激しい時代の変化に対応出来なくなったのです。そこから、それを出来るだけスリム化しようということになったのです。そのために諸々の改革が行われました。まず、1997年に「教育省」という名称を「教育科学省」に変えました。そして、それまで教育省内にあった諸機能を分離独立させ、それらをパートナー制度として教育科学省に協力させることにしたのです。このパ-トナーには、国家試験委員会など全部で27あります。その他、学校現場を直接支援する学校管理委員会等のパートナー制度も多数出現しました。
 2つ目は、カトリック教の教育に対する影響が、近年薄らいできているということです。実はアイルランドの教育は、先に述べました国民学校の時代からカトリック教会の力がかなり及んでいたのです。表面的には、国家の力が強く支配的に見えましたけれども、現場の学校の創設者や経営者及び教師は、教会の支配を強く受けていたのです。特にその傾向は、中等教育において顕著でした。その傾向は、近年まで続いていたのです。しかし、最近は若者をはじめ、大人も宗教から離れつつあります。従って、カトリック教の教育への影響は薄らいでいるのです。
 3つ目は、中等教育のシニア課程(日本の高校)の第3学年での「移行年」制度の普及です。この制度は、シニア課程の最終学年で1年間じっくりと自分の将来を考えるために設けられた制度です。そのため、生徒は自分の進路に合わせていろいろな社会体験や勉強をするのです。なかなかユニークな制度だと思います。この制度を採用する学校は、シニア課程が3年間ということになり、もしそれを採用しなければその学校は2年間ということになります。最近は、かなりのシニア課程がこの制度を採用しています。
 4つ目は、中等教育段階で全国的な公的試験が行われているということです。我国では学習指導要領によって学校教育の内容や方法の大枠が決められているため、北海道から沖縄まで大体似たような教育が行われ、一定の教育水準が保たれています。しかし、アイルランドでは、我国のように文部科学省が出している学習指導要領というものはないのです。その代わり、公的試験が行われ、一定の教育水準を保とうとしているのです。この試験には、ジュニア認定試験とシニア認定試験とがあります。最近ではこの試験は、生徒の実態に合わせ、いろいろと細分化が行われています。

6 アイルランドの教育史から学ぶもの
 最後に、今まで見てきましたアイルランドの教育史から何を学ぶべきか、この点について私の考えを2点ほど述べてみたいと思います。
 その第1は、国及び社会の発展の裏には教育への情熱があるということです。1960年代以後、アイルランドはハイテク産業を中心として経済的に急激な発展を遂げ、ごく最近まで「ケルティック・タイガー」と呼ばれていました。こう呼ばれるようになった原因にはいろいろ考えられますが、その中の1つにアイルランド古来の教育の発展、すなわち、教育への情熱があったと思います。アイルランドの教育史は、そのことをよく示しています。
 第2は、一般庶民の声に耳を傾けない教育は発展しないということです。確かに、アイルランドでは昔から諸々の学校が存在していました。しかし、庶民の声を無視したイギリスの植民地主義の教育は、アイルランドでは受け入れられなかったのです。それに反し、垣根学校や国民学校が庶民の声に耳を傾けるようになると、庶民は貧困に喘ぎながらもそれを受け入れるようになりました。しかも、それが1つの大きな原因となり、今日のアイルランドの繁栄を生みだしたと言っても過言ではないと思います。まさに、教育は庶民の声を聞くべきだと思います。

以上で、本日の私の拙い話は終わります。ご清聴ありがとうございました。

和田英武氏
和田英武氏
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3 アイルランド 3-4 アイルランドの音楽

ジャッキー・デイリー with 守安功&雅子 コンサート

2006年11月23日(祝)15時から、熊本市総合女性センターで、アイルランド伝統音楽の調べCONCERT2006が開催。会場に約200人のファンが訪れた。ジャッキー・デイリー(Jackie Daly)氏と守安功&雅子(もりやすいさお&まさこ)夫妻が現れコンサート開始。演奏曲目はO’Farrell’s Welcome To Limerick、Coast of Austria、Inishmore、五木の子守歌、ねんねんころりよなど約20曲。地元のアイルランド伝統音楽演奏グループ「アイリッシュ・クリーム」なども共演、会場を盛り上げた。コンサート終了後、午後7時から10時まで市役所14階レストラン「彩」でウェルカムパーティー。

熊本アイルランド協会事務局

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2 小泉八雲(ラフカディオ・ハーン) 2-1 小泉八雲の魅力

ハーンとのかかわり

樋口欣一(まるぶん書店顧問)
2006年10月22日(日時は調査中です)

はじめに
 私とハーンとのかかわりについてはハーン来熊百年記念祭報告書にありますように1988(昭和63)年4月、ハーン研究会を立ち上げた頃より始まりました。そのきっかけは、ある東京の出版社の社長さんの耳の痛い忠告でした。

実はその4年前に「ラフカディオ・ハーン著作集」の第15巻が発行されました時に、その翻訳に当たられた早稲田大学の先生を呼んで熊本で講演会を開催しましたのでかれこれ22年以前になります。先程の出版社の社長さんの忠告で、熊大の中島先生や中村先生に相談して勉強会を始めてのが昭和63年の事でした。
 
私は去年4月にも熊本八雲会でお話ししましたので(*注1)、今日はハーン来熊百年記念事業行事で熊本へ見えた先生の中でひょんな事で知り合いになった方々の内から3名の方とのお話をさせて頂きたいと思います。

洋学校の市原
 朝そと庭の掃き掃除していますとジェーンズ邸の前を行きつ戻りつしておられる方がいます。「どうされましたか」と声を掛けると「ジェーンズ邸を見学に来たが開館していないので・・・」と言われるので「まだ30分もあるので、私の所でお待ちになって」と言って迎え入れました。すると丹沢栄一と言われる東京の大学の先生で“ハーン”の勉強で来たと仰るので、ハーンと熊本のこと、ジェーンズの事など暫く話して、ジェーンズ邸へ送りました。これが機縁でハーンの資料や研究論文を次々に送って頂くようになりました。
 ジェーンズにつきましてはノートヘルファー先生著「アメリカのサムライ」という本がありますが、その中に市原盛宏と武正とを混同した記述があります。盛宏は京都の同志社に進んでいますが市原武正は東京の商法講習所に進んでいます。実は洋学校への入学は武正の方が早く、後進生教授方となっています。この事を丹沢先生に申し上げると間もなく早稲田大学の図書館でジェーンズの死去に伴う香奠奉納者名簿に二人の名前が出ていて、当時日銀名古屋支店長の盛宏は武正の5倍以上の香典を納めており、この点で「アメリカのサムライ」の訂正が必要と判りました。一方、武正は商法講習所を卒業したと云う記録はありません。英語が出来ましたので外国へ出たのかと渡航記録を調べましたし、一橋大学も調べましたが杳として掴めません。武正は花岡山の熊本バンドには参加していない所から阿蘇の市原家と関係ないか調べましたが判りません。

モースとハーン
 その後、丹沢先生が「モース」の調査で再び来熊されました。モースが熊本に立ち寄ったのは明治12年6月のことでした。ハーンはスペンサーの進化論に関心を寄せていましたが、「龍南会雑誌」にモースに触れています。恰もハーン自らが大野貝塚古墳を見たようにもとれますが、この時はハーンは手取本町から坪井へ移転中であり、之は五高の鹿児島への行軍旅行の学生か、引率の秋月胤永の話を聞いて書いたのではないかと私見を申し上げて、龍北町から法道寺に来ますと、境内の大樹はモースの「その日その日」にあるスケッチ画そのものでした。

シャーキー駐日アイルランド大使
 所で私は平成7(1995)年11月アイルランドの駐日大使でしたシャーキー氏をダブリンに訪ねました。その際ハーン来熊百年記念祭報告書と「ラフカディオ・ハーン再考」などを差し上げ、話は浦島太郎の伝説に及びました。するとシャーキー氏はアイルランドにもそれと同じような伝説があると云って「オシーン」の話をされました。こちらは亀ではなくて、白馬です。シャーキー氏は三角の旅館、浦島屋に行かれていますが、釣鐘島の伝説はご存じではありませんでした。

 釣鐘島の話は川尻の大禅寺の住職が唐より帰るとき2つの鐘を持って帰られたが、舟が難破して1つは中神島に流れ着いたが、もう1つは辛うじて川尻に持ち帰られその鐘をつくと中神島の鐘が鳴るというのです。川尻の鐘は男の鐘で、中神島のは女の鐘といわれるのも美事な伝承です。時は文永4(1267)年の事でした。

風呂鞏さん
 次は中村青史先生のご紹介で広島の風呂鞏という先生とお知り合いになりました。矢張りハーンの研究会で熊本に来られた大学の先生で、最近お手紙を頂きました。と言うのは本日のこの会の通知状に私の紹介が出ていたからで、先生は熊本アイルランド協会の会員でいらっしゃるのですね。お手紙には広島で開催されている藤田嗣治展の印象を詳しく述べられています。実は私も8月末日帰りで、広島に見に行きました。風呂先生のお手紙では展覧会を見て帰宅後近藤史人著『藤田嗣治「異邦人」の生涯』を読まれた所、私の名前が出てきたので驚いて、手紙を認めたとありました。

 私は現在本山町の石光眞清生家の保存運動に携わっていますが、石光眞清も藤田嗣治も私の小学校の大先輩です。この2人は第一次世界大戦の折、フランスで会っています。この辺の事情は「石光眞清の手記」には触れられてはいませんが、ホームぺージでは藤田とパリで会いその紹介でジャン・コクトーともあっていることが判りました。

ハーンと藤田
 風呂先生のお手紙では「ハーンを裏返しにしたような面もある藤田―社会の底辺に住む人々への思いやりなど」とあります。私は広島で藤田の戦争画に隠された意図を探すのに熱中して、風呂先生の「ハーンと通底するもの」とのご指摘に改めて画集を見直しました。風呂先生の云われるハーンと藤田嗣治の関係で「ハーンを裏返しにしたような面もある藤田」とはどういう事でしょうか。藤田は戦時中に戦争画の大作を次々に発表しましたが、戦争が終わると画壇の戦犯騒ぎで、遂にフランスへ出国して国籍を得、カトリックに帰依して遂に日本に帰ることはありませんでした。

 一方ハーンはギリシャで生まれ、父の出身地アイルランドへ渡り、更にイギリスを経てフランスからアメリカに移りマルティニークを経て日本に来ました。つまり二人は母国を去り外国で生涯を終えています。

 ハーンを裏返したような面とはこの事でしょうか。また先生の社会の底辺に住む人人々への思いやりとは?。藤田は日本の画風にヨーロッパの技法を取り入れてエコールドパリで名声を博しました。広島で実物に触れてその歩みを辿ることが出来ました。

 ハーンの作品に「草ひばり」と云うのがあります。実は私の弟が安永信一郎先生のご指導で昭和21年2月「草雲雀」という短歌集を出していますが、その裏表紙に、ハーンの「草ひばり」の「・・・だが要するところ飢餓の為に自分の脚を噛むということは詩の天禀ともつといふ呪詛を蒙ってゐる者に起こりうる最大の凶事では無い、歌はんが為には自分自身の心をも食べなければならぬ人間の蟋蟀が居る」とあり、巻頭の「草雲雀宣言」には敢然と歌のマンネリズムに斧を打込む」と唱っています。弟は五高生として愛読していたのでしょう。

 ハーンの妻セツの「思ひ出の記」には「ヘルンは虫の音を聞くことが好きでありました。この秋、松虫を飼っていました。9月末の事ですから松虫が夕方近く切れ切れに少し声を枯らして鳴いて居ますが、常になく物哀れに感じさせました。・・・段々寒くなって来ました。知って居ますか、知って居ませぬか、直に死なねばならぬと云うことを。・・・」そしてハーンは2年後の9月26日にこの世を去りました。ハーンは草雲雀や松虫の様な微細な生命の内に自分と同じ感情乃至魂が存在するということの神秘を読んでいたのです。

 ハーンの別の作品を見てみます。「ある保守主義者」の最終章には、一旦祖国に背を向けた明治の一自由思想家が、長年の西洋滞在の後、船に乗って日本へ回帰して来ます。すると富士山が見えて、皆心打たれてひとしくおし黙ります。

 夏目漱石もイギリス留学を切り上げて帰国した時には同じ様な祖国回帰を味わった事でしょう。弟は「草雲雀」に「シベリヤも春たけなはとなりけむ兄上よいのち生きをりたまへ」と詠んでいますが、私はその翌年の暮「ダモイ東京」でナホトカから恵山丸に乗り朝焼けの舞鶴に近づいた時同じ様な祖国への回帰を身に沁みて感じました。

藤田との思い出
 所でフランスに帰化した藤田嗣治は50年代にかっての猫や裸婦を描くことが少なくなり、題材は見違えるほど自由になり、中でも浮浪者の姿を多く描くようになり、ある時は路傍の物乞いに大金を与える姿が見られたといいます。ハーンもまた神戸時代には下層社会への関心を寄せています。

 さて私は最晩年の藤田に会うことが出来ました。画風は子供や猫、女性の裸像から次第に宗教画に収斂して、フランスで文字通り最後の大作に取り掛かった所でした。私が「熊本の付属小学校の後輩です」と申し上げると、作画を止めて、昭和4年付属小学校に来られた時の事を懐かしそうに話されました。当時の校舎は木造平屋で、私も入学した1年の1学期、その教室で習いましたと申し上げると、「年は幾つ?」と云われましたので「44歳です」と答えると、「若いなぁ」と云って、タバコに火をつけて、「稗田の記念碑を知っているか」とのお尋ねに「海老原先生に協力して手伝いさせて頂きました。場所も吉本家で、私の弟の通った英語塾のあった所です」と申し上げると「パリで海老原君に会ったか」と聞かれ、お互いの思いは次から次にふくらんで行きました。フランスで日本人に会うのも嫌がった文字通り日本を捨てたと云われた画伯には祖国への回帰の情が込められていると思いました。現に画伯と親しかったシャンソン歌手の石井好子は画伯が「もう一度日本に帰りたい」と云っていたと云います。

 ハーンも自分自身祖国への回帰の情にとらわれていたからこそ「ある保守主義者」に雨森信成の心境をダブらせたのでしょう。

本田増次郎
 何か文学と美術をゴッチャ交ぜにしたお話ですがもう一人「本田増次郎」に関連して小原孝氏に触れてみます。小原氏は当時岡山県立博物館に勤めておられましたが、リデル・ライト記念館へハンナ・リデルの事を調べに来られました。実は熊日にリデル・ライト記念館で行われた講演会の記事に山本有三と出ており本田増次郎の娘婿と云うのでした。弟の五高名簿に同じ増次郎だが大倉とあり藤本館長に電話して尋ねると同一人物と判り私が国会図書館でコピーした本田増次郎著「イートン学校及び其校風」を寄贈しました。小原氏はそれを見て、拙宅を訪ねて来られたのでした。平成12年12月「アイルランドの文化と岡山の文化」と云う展覧会が博物館で開かれ、イートン校のコピーも見てまいりました。岡山には「ケルト文化研究会」というのがあって「J.M.シングと木下順二の民話劇」など研究が進んでいる事が判りました。

 ハーンが東京大学を辞めて早稲田大学に転じた時実は本田増次郎も大学で同勤で、本田とハーンを結ぶ接点は余り無かったようですが、それから本田の縁戚の長谷川勝政氏が増次郎の自伝を作られて、その中に増次郎の姪(こま)が私の母の女学校で英語の先生をした事を知り、母の蔵書に「女学校四十年史」があり、その中に「本田先生」が出ているのが判りました。だとすれば母はこま子に英語を習った筈ですがもう後の祭りとなってしまいました。

 本田はハンナ・リデルと本妙寺に詣り、リデルがハンセン氏病患者と取組むことになります。ハーンも本妙寺に参りました。西成彦先生の「ハーンの耳」は熊日文学賞を受けられましたが、ハーンは目が悪かったとは云え、境内の情景が目に止まらなかったとはとても思えません。日清戦争で凱旋する将兵を見て、その作品「戦後に」では「しかし日本にとっての将来の危険はまさにこの途方も無く大きな自信の中にあるともいえよう」と書いていますが、第二次世界大戦でハーンの予告通りの結末を見ました。

 本田増次郎は後にアメリカで「オリエンタル・レビュー誌」の発行に携わっています。ハーンの年譜によれば、ハーンの死後「ラフカディオ・ハーンの伝記と書簡」が追悼の意をこめて発行されますが、丁度その時期に本田はアメリカで勤務していましたので、或いは書評でも書いていないかと思って冒頭の丹沢先生に申し上げましたところ、素人の思い付きがお手元のような発見(*注2)に結びつきました。30分の与えられた時間が参りましたので、お帰りになりましてからご一読下されば幸甚に存じます。

(*注1)くまもとハーン通信NO.6 平成11年9月26日 樋口 欣一「私とハーンとのかかわり」
(*注2)本田増次郎と小泉八雲―「オリエンタル・レヴィユー」誌上での八雲への献辞― 丹沢 栄一 工学院大学共通課程研究論叢 2003年2月発行

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2 小泉八雲(ラフカディオ・ハーン) 2-2 小泉八雲の作品

Lafcadio Hearn and the Clifton Waller Barrett Collection

Alan Rosen(アラン・ローゼン 熊本大学助教授)
2006年(第8期)市民講座「ハーンを育んだアイルランドの風土と文化」(7回シリーズの第5回)
熊本大学五高記念館

1.General Introduction to the Barrett Collection

The Clifton Waller Barrett Collection is one of the largest and best collections of American Literature in the world. Formerly housed in the Alderman Library of the University of Virginia in Charlottesville (Thomas Jefferson’s University), it is now housed in the university’s new Albert and Shirley Small Special Collections Library. The collection was opened to the public in 1960. Over 1000 authors are represented, and nearly 500 authors have been collected in depth. In total there are over 250,000 individual pieces by and about American writers from 1775 to 1950. Although the Hearn Collection is only a small part of the whole, it forms the most complete collection of original Hearn and Hearn-related materials in the world. Since some of these materials are still unpublished, or published only in part, this collection has become a kind of mecca for Hearn students and scholars. We can see and touch the actual paper Hearn wrote on, letters, manuscripts, and notebooks, and we can have photocopies made from any material that is not too fragile to be handled. Much of the collection has been recorded on microfilm, but much has not. In Japan there are only three places which have microfilm sets of the collection purchased from the Alderman Library: Kobe Shoin Joshidaigaku, Kumamoto Daigaku, and Shimane Daigaku. However, in order to see the real material and the many items not yet microfilmed, you must visit the University of Virginia Library. Once you are there, it is not difficult to see the materials in the Hearn Collection. In fact, the regulations are rather simple and straightforward. There are only three basic rules: 1. Researchers are asked to fill out a brief form and show a photo I.D. (such as a driver’s license, a passport). 2. Only loose paper, pencils, and a laptop computer are permitted in the reading room. No bags, envelopes, folders, notebooks, tablets, or containers of any type are permitted.

Lockers are provided to secure your belongings. 3. Paper is provided by the department for researchers. Laptop computers and other mechanical research tools are permissible provided that their use does not disturb other researchers (from Special Collections Library home page). Before you go into the special reading room with your laptop computer, you simply give your request to the librarian stationed at the desk outside the room. The request is simply a piece of paper stating the name and number of the box of materials that you wish to examine. You can leave the materials in the room when you go for lunch or a break, but at the end of the day all materials must be returned and checked.

When I visited the library several years ago in the summer of 2002, I especially enjoyed looking at Hearn’s manuscript letters and comparing them with the published versions edited by Elizabeth Bisland Wetmore to find the parts that she had omitted. From those manuscripts I was able to find a hidden side of Hearn’s personality that had been cut out from the public portrait of him.

For example, his bad-mouthing of important people and publishers, and his complaints about health or money. Today I would like to introduce the collection and take a closer look at the man who collected it and the story of why and how the collection came into being. In doing this, I hope to give a deeper impression of Hearn’s place in American literature.

2. What is in the Hearn collection?

The Hearn collection includes a wide range of materials by or about Lafcadio Hearn and his writings, both published and unpublished, partly preserved on microfilm, all housed in the same Special Collections Library. The types of materials are:
a. Manuscripts of published works, unpublished essays, and articles
b. Notebooks
c. Letters
d. Newspaper articles by Hearn (Japan Chronicle)
e. Newspaper articles and letters about Hearn and his writings
f. Photos, Fragments, etc.

The Homepage for the Special Collections Library calls it the “Finest Hearn collection ever assembled.” Joan Crane, the Curator of American Literature Collections when the collection was opened, writes:
In the Barrett Hearn collection are the original manuscripts of The Temptation of St. Anthony [Sento Antoni no yuuwaku], Exotics and Retrospectives [Ikoku joucho to kaiko], Kwaidan, and Glimpses of Unfamiliar Japan [Shirarenu nihon no omokage]; fragments of Two Years in the French West Indies [Futsu ryou Nishi indo shotou no ni-nen kan], Youma, Shadowings [Kage], In Ghostly Japan [Reiteki Nippon], Kotto, and Out of the East [Higashi no Kuni Kara]; forty unpublished essays and articles, seventeen notebooks ranging from the New Orleans period to the West Indies to Japan [Internet page says over 30 notebooks], more than 450 letters [Internet page says “nearly three hundred letters&rdquo], and Hearn’s holograph drafts of published articles. Five of the nine numbers of Ye Giglampz, described by Mr. Barrett as a Hearn rarissimum, are present (the only complete set known is in the holdings of the Cincinnati Public Library). The collection of printed works represents every publication: Hearn variant bindings, later editions, periodical printings, translations, inscribed association copies. This part of the Barrett Library devoted to Lafcadio Hearn’s works reflects one facet of Mr. Barrett’s extraordinary accomplishment as a scholarly collector.

In the display of these books and manuscripts at the Alderman Library of the University of Virginia, it is our purpose to draw back the attention of students, scholars, teachers, and readers to a figure in the literary history of this country whose importance has become obscured.

3. Who was Clifton Waller Barrett?

Clifton Waller Barrett was born in the US in 1901. Barrett graduated from the University of Virginia, Class of 1920 at 19 years old. He became chief executive of the North Atlantic and Gulf Steamship Company, Inc. During WWII he was Director of Sugar Transportation for the War Shipping Administration. He was a great reader and book-lover, but he started collecting books rather late [at 38 years old in 1939]. Even so, by 1950 he had a personal library that was considered outstanding among book-lovers in the US. Throughout his life he continued to spend a large part of his fortune on literary materials, slowly building up an outstanding collection of American literary material, including lesser-known writers along with the works of those who were already famous. He gave his entire collection to the university he loved, his alma mater, the University of Virginia.

He continued to support the library’s acquisition of rare American literary materials until he died.[From “A Brief Account of The Clifton Waller Barrett Library” Charlottesville, The University of Virginia, 1960, by Herbert Cahoon, Curator of Autograph Manuscripts, The Pierpont Morgan Library]

4. Why and how did the collection come into being?

We have the words of Mr. Barrett himself to tell us the details. “In 1939 … I [Clifton Waller Barrett] decided to amass a comprehensive collection of American literature-first editions and original manuscripts of American writers from the beginning of the Republic in 1776 to the present day. … Acquiring these milestone’s of a nation’s literary life became a full-time occupation. I retired from business to carry it forward….

At first, my efforts were devoted to forming collections of the great figures of American literature: Walt Whitman, Herman Melville, James Fenimore Cooper, Mark Twain, Poe, Longfellow, Emerson…. Early on, however, I began to realize the importance of so-called minor writers who fleshed out and formed the underpinnings of the nation’s literature….One writer who stood out in this group was Lafcadio Hearn.

His amazing originality, combined with the unusual beauty and quality of his writing had won praise from discriminating critics; however, in the years of World WarII and the decade following he was neglected. When I started to collect his works they were in modest demand, though prices of available material were quite high-due perhaps to his emergence as a cult figure and to the paucity of items on the market. My first purchase was … Some Chinese Ghosts (Boston 1887). I read these tales with increasing pleasure and immediately decided to collect more of Hearn. Soon, a respectable assemblage of his printed works was gathered, but little manuscript material was available aside from the occasional letter at auction which I added to my hoard. Influenced by accounts of this strange romantic life, I resolved to build a representative collection of Hearn’s printed works and original manuscripts most particularly.

My quest took me to Cincinnati and later to Japan, but the first rich strike came on a trip to New Orleans in 1954…. I visited many bookshops on Royal Street and lingered in an old print shop where the proprietor, learning of my interest in Lafcadio Hearn, advised me to call on a lady in the city who was the great-niece of Miss Leona Queyrouze, a Creole poet of New Orleans with whom Hearn enjoyed a platonic affair. [Barrett met her and purchased a signed copy of Some Chinese Ghosts, an inscribed-by-Hearn photo, etc.] When I returned to New York with these exciting documents and memorabilia, I quickly let it be known to various book sellers that I was definitely in the market for Hearn material. John Fleming, bless him, came to my office with a list of original Hearn manuscripts that had languished in Dr. Rosenbach’s vault for years. [Dr. ASW Rosenbach of Phila., whose house is now a modest but well-known museum in Phila.. It houses, eg., manuscripts for such outstanding literary works as James Joyce’s Ulysses, Charles Dickens’ Pickwick Papers, and Joseph Conrad’s Lord Jim.] These were principally manuscripts of Hearn’s Japanese books…. Needless to say, they were a major acquisition.

Some years passed before other important material was forthcoming. [Through the James F. Drake bookshop in NYC, Barrett purchased a large collection from Mr. Leon Godchaux (the Sugar King of Louisiana), a New Orleans native working for the Illinois Railroad who had spent many years collecting Hearn.]

The extent of the collection overwhelmed me as box after box arrived. More space would clearly be required to house it. [He rented an entire floor of a building on 46th St. New York City to keep the new books and materials.] … By serendipity and a series of fortunate coincidences, it had been possible to acquire a great collection of printed works and original manuscripts left by an extraordinary literary and artistic genius, Lafcadio Hearn.”
(From “On Collecting Lafcadio Hearn” by Clifton Waller Barrett, 1983)