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3 アイルランド 3-8 アイルランドの教育

アイルランドの教育 ~その歴史と現状~

和田英武(崇城大学非常勤講師(元教授))
2009年(第11期)市民講座「ラフカディオ・ハーンとアイルランド文化」(5回シリーズの第3回)
小泉八雲熊本旧居

 こんにちは! 崇城大学非常勤講師の和田です。本日は、表題のようにアイルランドの教育、特にその初等及び中等教育について話をさせて頂きます。

1 我国におけるアイルランド研究について
 アイルランドは、日本から見るとイギリスのさらに西の方にあり、我国ではあまり知られておりません。しかし、我国では戦前からアイルランドについての研究は進められていたんですね。それは、日本が日清・日露戦争の頃より大陸進出をして、多くの異民族を日本帝国の中に抱えるようになり、それらの民族を如何にうまく統治していくのかということが当時大きな課題となっていたからです。すなわち、その課題を解決するために、我国は、当時の大英帝国のアイルランド統治から何かを学ぼうとしていたのです。このアイルランド研究の大半は、日本帝国主義政策を推進するものでしたが、戦後、東大総長になられた矢内原忠雄氏(1893~1961)の研究は、当時としては珍しいアイルランド人の側に立つ研究であり今日でも高く評価されています。皆様も何かの機会に氏の著作を読まれると良いと思います。

2 イギリスの植民政策により苦しんだアイルランド人
 本日のテーマは、アイルランドの教育についてですが、その前に教育の背景の1つである「イギリスの植民地としてのアイルランドの歴史」について簡単に触れておきます。
 アイルランドは、12世紀のイギリス国王ヘンリⅡ世(1133~89)の頃よりその支配を受け、その後数多くのイギリスの国王や支配者によって侵略を受け植民地化されました。その中でも特にオリーヴァ=クロムウェル(1599~1658)の侵略は激しく残酷だったと言われています。彼は、我国の高校の世界史では、清教徒革命の指導者、近代化の祖、正義の人として英雄視されています。しかし、アイルランドでは極悪人として全く反対の評価を受けています。いずれにせよ、イギリスによる支配は過酷でアイルランド人はカトリック教の信仰を禁止され、土地を奪われ貧困と差別に苦しみました。
 1800年になるとイギリス・アイルランド連合法が成立し、翌年、アイルランドは法的に完全にイギリス帝国に併合されてしまいました。併合した後のイギリス政府は、懐柔策と弾圧策を繰り返しながらアイルランドを支配してきました。これに対して、アイルランド人は、次第に組織的な抵抗運動を行うようになってきました。その先駆けをなした人物が、ダニエル=オコンネル(1775~1847)という人物です。彼は、いわばアイルランド独立の父とでも言える人です。現在のダブリン市の中央の大きな通りをオコンネル通りと呼び、その中央に彼の大きな像が建っています。彼は、今でもアイルランドの多くの人々から尊敬されています。
 1845~48年には有名な大飢饉がアイルランドを襲い、ただでさえ苦しかったのに一般庶民の生活はますます苦しくなり、彼らは塗炭の苦しみを味わいました。その時約100万人が死亡し、約120万人が外国へ移民したと言われています。このような状況の中で特に悲惨だったのは、19世紀半ばころに約10万人もいたと言われている小農民たちでした。彼らは、15エーカ以下の借地を持ち、農業や漁業及び海藻集めなどに従事し、生計を移民した子どもたちからの送金で補い、重い地代を払っていました。もし、地代を払えなければ、追い立てを受けました。最近のアイルランドの高等学校の歴史教科書には、多数の警察を伴った地主による追い立てを受け、家から引きずりだされる農民の姿が描かれています。その姿はあまりにも悲惨であり、それを見るとき我々は涙せずにはおれません。
 このような状況のもと、その後数多くの民族独立運動が頻発するようになりました。まさに、19世紀後半以降はアイルランドにとって自治権獲得ないしは民族独立運動の時代であったと言えるでしょう。その中で特に有名なのは、非合法的な独立運動を行ったIRB(アイルランド共和兄弟団)の武力団であるフィニアン(Fenian)たちでした。彼らは、他の集団と共に1916年にイースター蜂起を決行し、1919~21年には独立戦争を戦いました。彼らの長い苦しい戦いの末、アイルランドは遂に1922年に自由国となりました。しかし、その後も内乱が続きました。それをなんとか克服したアイルランドは、ようやく1949年にイギリスから完全に独立を遂げることが出来、今日のアイルランド共和国の誕生に至ったのです。

3 昔から教育に熱心だったアイルランド人
 アイルランド人は、昔からとても教育に熱心だったと言われています。例えば、アイルランドでは、既に6世紀ころから吟遊詩人学校や修道院学校が発達していました。この中でも修道院学校は、数も多く当時「西欧世界の教育センター」と呼ばれていました。
 その後16世紀から19世紀前半にかけて、イギリス国王や議会の息のかかったいろいろな学校が誕生するようになりました。具体的には、それらは教区学校、司教区学校、王立学校やチャーター=スクールなどです。これらの学校は、いろいろな事情で誕生して、それぞれ性格が異なっている面もありましたが、大局的にはいずれも、イギリス人によるアイルランド人支配を促進しようとする学校でした。すなわち、これらの学校はアイルランド人の子どもたちに英語を話させ、イギリスの秩序や習慣を学ばせ、イギリス国教会のプロテスタントを信仰させようとするものでした。従って、これらの学校は、いずれもカトリック教徒の多いアイルランドの庶民階級にはあまり人気がなく、その数も僅かでした。
 その他、19世紀になると聖書協会と呼ばれる国家の支援を受けたプロテスタント系の宗教団体から多くの援助を受けっている学校が誕生しました。特にキルディア地区協会の援助を受けた学校は、1831年には1,621校となり、生徒数は137,639人となっていました。これは、協会が最初は宗教的に中立の立場を取っていたからです。しかし、後にだんだんとその協会が住民にプロテスタントを強要するようになると住民はそれから離れていくようになりました。
 この他、今まで見てきた学校とは全く異なる垣根学校(hedge school)という学校があり、それは国家の支援を全く受けずアイルランドの庶民に広く受け入れられていました。この学校は、1695年に発布された刑罰法による厳しい弾圧の下で、非合法的に営まれており、一般的には学校の周りを溝や垣根で囲み、非常に小さな部屋で、時には納屋の隠れ屋よりもっと小さな教室で、見張りの子どもを置きながら、非常に貧しい教師が教えていました。教師は、ときどき巡回し、家に住み込み、見返りにその子どもたちを教えていました。家を提供しないその他の親はわずかの授業料を硬貨か物品を支払うという状態でした。この学校では、1820年代の半ばまでに30万人から40万人の生徒が学んでいたと、アケンソンという学者は推測しています。このことから、如何にこの学校が庶民階級に人気があったのか分かると思います。また、如何にアイルランド人が教育に熱心であったかが、分かると思います。
 アイルランドを統合した後のイギリス政府や議会は、それまでの反省から1831年に国民学校(national school)を誕生させました。この学校は、アイルランドの教育史にとってとても重要なものと私は考えています。何故かと言えば、それは、国家が支援する学校でありながら、庶民階級のための教育も行おうとしていたからです。私は、ここにアイルランドの近代的な公教育が始まったと考えています。この学校は、その後それまでプロテスタントが支配していた学校から、庶民の多くが信仰しているカトリック教の声に次第に耳を傾ける学校となっていきました。この学校は、最初のうちは数も少なく、就学する生徒数も少なかったのですが、年を追うに従って増えていき、盛衰を繰り返しながらも長く貧しい植民地時代を生き続け、今日ではアイルランドの初等教育の根幹をなしています。
 なお、アイルランドでは、植民地時代にはあまり中等教育は発達しませんでした。というのは、1695年の刑罰法によりカトリック教徒の教育が禁止されていたからです。そのため、高い教育を受けたい若者は、海外に渡り海外のアイルランド人が設立したカレッジで非合法的に学んでいました。しかし、18世紀後半の救貧法によりカトリック教徒の教育が許されると、教会や修道会により上級学校が設立され中等教育も行われるようになりました。ただ、これはあまり多くはありませんでした。

4 1960年代から発達したアイルランドの教育
 1922年に自由国となり、さっそく新しい国作りが始まりました。その一環として、1924年には教育省が設立され、1926年には義務教育も始まりました。
 しかし、アイルランドの教育の本格的な発展は、1949年に共和国となった後の1960年代以後です。アイルランドでは1960年代以後急激に経済が発展し、それに伴って教育も急激に発展しました。そのとき成立した諸々の教育制度が現在のアイルランドの教育制度の基盤となっています。この時期には、教育省は組織を整え機能を拡大させ、初等・中等教育のほとんどの分野に強い影響を及ぼすようになってきました。その結果、1967年には義務教育の無償化が実施され、義務教育年齢の就学率も1992年の時点で99.9%となってきました。また、中等教育も整備され、現在約60%の生徒が通う中等学校は勿論のこと、他に職業学校、総合学校、地域学校など新しいタイプの学校が誕生しました。

5 最近のアイルランドの教育の動向
 次に、最近のアイルランドの教育の幾つかの動向について触れてみたいと思います。
 その1つは、教育省内のスリム化が行われているということです。1960年代以後の教育省は、教育の広範囲な業務を抱え込んでしまいました。従って、それは、激しい時代の変化に対応出来なくなったのです。そこから、それを出来るだけスリム化しようということになったのです。そのために諸々の改革が行われました。まず、1997年に「教育省」という名称を「教育科学省」に変えました。そして、それまで教育省内にあった諸機能を分離独立させ、それらをパートナー制度として教育科学省に協力させることにしたのです。このパ-トナーには、国家試験委員会など全部で27あります。その他、学校現場を直接支援する学校管理委員会等のパートナー制度も多数出現しました。
 2つ目は、カトリック教の教育に対する影響が、近年薄らいできているということです。実はアイルランドの教育は、先に述べました国民学校の時代からカトリック教会の力がかなり及んでいたのです。表面的には、国家の力が強く支配的に見えましたけれども、現場の学校の創設者や経営者及び教師は、教会の支配を強く受けていたのです。特にその傾向は、中等教育において顕著でした。その傾向は、近年まで続いていたのです。しかし、最近は若者をはじめ、大人も宗教から離れつつあります。従って、カトリック教の教育への影響は薄らいでいるのです。
 3つ目は、中等教育のシニア課程(日本の高校)の第3学年での「移行年」制度の普及です。この制度は、シニア課程の最終学年で1年間じっくりと自分の将来を考えるために設けられた制度です。そのため、生徒は自分の進路に合わせていろいろな社会体験や勉強をするのです。なかなかユニークな制度だと思います。この制度を採用する学校は、シニア課程が3年間ということになり、もしそれを採用しなければその学校は2年間ということになります。最近は、かなりのシニア課程がこの制度を採用しています。
 4つ目は、中等教育段階で全国的な公的試験が行われているということです。我国では学習指導要領によって学校教育の内容や方法の大枠が決められているため、北海道から沖縄まで大体似たような教育が行われ、一定の教育水準が保たれています。しかし、アイルランドでは、我国のように文部科学省が出している学習指導要領というものはないのです。その代わり、公的試験が行われ、一定の教育水準を保とうとしているのです。この試験には、ジュニア認定試験とシニア認定試験とがあります。最近ではこの試験は、生徒の実態に合わせ、いろいろと細分化が行われています。

6 アイルランドの教育史から学ぶもの
 最後に、今まで見てきましたアイルランドの教育史から何を学ぶべきか、この点について私の考えを2点ほど述べてみたいと思います。
 その第1は、国及び社会の発展の裏には教育への情熱があるということです。1960年代以後、アイルランドはハイテク産業を中心として経済的に急激な発展を遂げ、ごく最近まで「ケルティック・タイガー」と呼ばれていました。こう呼ばれるようになった原因にはいろいろ考えられますが、その中の1つにアイルランド古来の教育の発展、すなわち、教育への情熱があったと思います。アイルランドの教育史は、そのことをよく示しています。
 第2は、一般庶民の声に耳を傾けない教育は発展しないということです。確かに、アイルランドでは昔から諸々の学校が存在していました。しかし、庶民の声を無視したイギリスの植民地主義の教育は、アイルランドでは受け入れられなかったのです。それに反し、垣根学校や国民学校が庶民の声に耳を傾けるようになると、庶民は貧困に喘ぎながらもそれを受け入れるようになりました。しかも、それが1つの大きな原因となり、今日のアイルランドの繁栄を生みだしたと言っても過言ではないと思います。まさに、教育は庶民の声を聞くべきだと思います。

以上で、本日の私の拙い話は終わります。ご清聴ありがとうございました。

和田英武氏
和田英武氏