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シングとオケーシーにおけるアイリッシュイズムの一端

2005年11月12日
川野富昭(崇城大学教授)
2005年(第7期)市民講座「アイルランドの社会と文化」(5回シリーズの第4回)
熊本市国際交流会館

アイルランドを旅して考えたこと
 アイリッシュイズムとは何か。実は私もまだ結論に達していません。この二人の作家も一般の人たちにとってはなじみのない名前だと思います。しかし私なりにその魅力とそれにともなうケルトの末裔たちの反骨精神、あるいは気骨というものの一端をお話してみます。

 今年の夏は久しぶりにアイルランドの旅に出ました。普通のグループ旅行と違って「アイルランド伝統音楽を求めて」の旅でした。この国へは4回目になりますが、これまでと比べてさらに興味深いものとなりました。私のケルトへの関心の始まりは小学校のころよく耳にしたアイルランド民謡なのですが、それが今になっておとぎの世界、妖精の住む国への憧憬が高じて、今年は妖精に出会うこと、妖精を捕まえてやろうという魂胆を持つようになったのです。アイルランドに関しては、司馬遼太郎さんの「愛蘭土紀行」がすべてを集約したようなできばえです。彼が見たアイルランドと、私が実際に見たこの国の姿、先に述べた二人の作家の作品に見る、いわゆるアイリッシュイズムなるものを、この旅の感想と写真を交えて最初にお話します。

私の愛蘭土紀行
 この写真1はこの国に行けば必ずお目にかかるケルトの十字架です。ケルト民族はアイルランド人のルーツですが、このように、非常に迫力のある十字架はアイルランド中どこででもお目にかかれます。この十字架がベストだと断言されたのはこの旅行を取り仕切ってくださった守安夫妻でした。おふたりはアイルランド伝統音楽に造詣が深くかなりの実力を持った音楽家夫妻です。

 この写真2は典型的なこの国のトレードマークです。この愉快な交通標識は私がこの国へ出かけて実際に確認しようと思っていた代物です。今回は残念ながらこの標識が見られるケリーまで足を伸ばすことは出来ませんでしたが、幸い小泉凡夫妻から借用することが出来ました。アイルランド人の心の中に必ずあるといわれている妖精への思いがこういう形で現れているのは彼らの民族性の中にあるユーモアの一端を垣間見た気持ちになります。

 この写真3は妖精図鑑の中から引っ張り出したものです。ケルトの妖精の起源は、この国の歴史を紐解くときには必ず出てくるドルイドの中にも見受けられます。女ドルイドのイメージは、鶴岡真弓さんの本にたくさん出ています。この旅の中で私が妖精にこだわっているのにバスのドライバーが同情して「妖精の樹」(写真4)のある場所にバスを止めてくれました。こういうふうに、日本でもよく見かける「願掛け」の樹がかの国にもあるのは興味深い共通点を発掘したような気になります。靴下、手袋、帽子など、いろいろこの樹に吊るして願い事をする彼らの心の中には妖精のイメージが常にあるという証拠でしょう。

 これは(写真5)、道端に作った洞穴に飾られた 聖ブリジッドです。途中で何箇所かこのようなきれいな像を目にしました。その横の小さな祠に入ってみますと、いろいろな貢物が並んでいて、聖水の水溜りには日本で言うお賽銭がたくさん光っていました。このイメージは日本人の感覚にあい通じるところがあって非常に印象深いものでした。

 ここからの写真(写真6)は守安夫妻が取って置きの古城レップ城です。この音楽の旅できわめつきのスポットで、この城の主はショーン・ライアンといういかにもアイリッシュという雰囲気を持った笛の名手でした。奥さんのアン、娘のキアラ・セレーヌと3人並ぶと、きわめて神秘的な雰囲気を醸し出す不思議な家族です。キアラはリバーダンスのオリジナルタップを踏める全国でも有数のダンサーだそうで、この写真にあるとおり実に迫力のある踊りを見せてくれました。彼女のステップで居間の石畳は亀裂が入って凹みが出来ているのです。ライアンの幽玄で妙なる笛の音と、キアラの躍動感あふれるステップに加えて、古城のホールの荘厳な背景がわれわれの心に深い感動を与えたのは当然のことでした。妖精探しの旅の途上にある私としては、彼女はまさしくレップ城のフェアリーであると確信するに至ったのです。ご主人のショーンの腕前は言わずもがなで、皇太子夫妻がアイルランド訪問をなさった時御前演奏を行うほどであったのです。レップ城はBBC放送が取材に来るほどの名の知れた「幽霊城」で、その由来をこの薄暗いろうそくのともる居間で聞かされると、思わず後ろを振り返ったものです。壁には古色蒼然たる絵、骨董品から、はたまた日本の浮世絵まで城主の本性も読める雰囲気でした。

 これらの写真(写真7)は、これまでの旅行で集めた絵葉書をまとめたものです。これは 作家のシングです。ショーン・オケーシーは私の研究のしんがりを務める劇作家です。大学時代の恩師の評価は二流だそうですが評価は相半ばするところです。これは若々しいイェーツですが、これらの写真を並べるわけは不思議と皆妖精顔をしているからです。ワイルド、ジョイス、B・ビーハン等すべて同類に見えます。みな妖精の霊気が漂っているように思えてなりません。

 ビーハンといえば、以前ダブリンの劇場で彼のお芝居を見ましたが、もとIRAのメンバーであったことと、刑務所暮らしで虐待を受けた経験からなるその迫力に圧倒されてしまいました。「ボースタルボーイズ」は彼の刑務所暮らしの一部を描いたものですが、シャワーを浴びる場面では容疑者全員が素裸で、思わずここまでやるかと息を呑みました。彼らが命を賭けた反英闘争の凄みもそこから伝わってくるかのようでした。

 アイルランドといえばアラン島がイメージされます。アラン島のダン・エンガス(Dun Aengusは、馬車のおじいさんの発音によると「ダン・エンガシャ」だそうです)まで行って撮ってきた写真がこれです。我ながらいい写真(写真8)が取れたなと自慢したい一枚です。この断崖絶壁は 「アランの男」という有名な映画の主要な場面を構成しています。1934年、ロバート・フラシャーティー監督作品です。私の写真は素晴らしい好天に恵まれた波静かな一枚ですが、この映画に出てくるアラン島は、ものすごい波濤に洗われ一面荒蕪の島で、その自然の荒々しさに必死に耐える島の人たちの気骨がひしひしと迫ってくる名作の中にあります。

 この写真(写真9)はシングの「アラン島周遊記」に描かれている島の女たちのイメージそっくりの絵だったので写真に収めました。また、アラン島の漁師たちのイメージはこの布張りの小船、カラッハに集約されます。写真10、写真11はその漁師たちの背中、その後姿が男たちの気骨を裏付ける絵といえるでしょう。

司馬遼太郎氏の「愛蘭土紀行」
 ここから司馬遼太郎さんの「愛蘭土紀行」についてお話します。この司馬氏の紀行文とビデオを要約すると、キーワードは、不撓不屈の精神、激しい個性、爪に火をともすような生き様、辛らつな風刺精神、流浪、漂泊、自然との闘い、というところでしょう。不撓不屈の精神の根源はどこにあるのでしょうか。「山雨」という言葉が使われています。それはどんよりとした天気が続く山間の陰鬱な雨で、人の心を落ち込ませる元凶であるのです。シングがこの情景を巧みに描いています。In the Shadow of the Glen(山雨)ではそういう陰鬱な山奥の小屋で、年の離れた、猜疑心の強い夫と暮らすノラの現状離脱と再生願望への心の中が描かれています。その重苦しいテーマはこの「山雨」に集約されているのです。

 こんどは歴史的観点に立ちますと、避けて通れないのが クロムウェルの収奪、虐殺の歴史です。彼によって「アイルランド」は身包みはがれた、と司馬さんは表現しています。そのことによってアイルランドではこれまで連綿として続いてきた反英精神にさらに火がつくということになったのです。ここから幾多の試練を経て一応独立ということになりますが、赤いポストやバスが緑色に塗り替えられる社会現象は、司馬さんの言う「百戦百敗の民」からの現状離脱の思いの一端を物語っています。たとえ百敗してもそこから立ち上がろうとする彼らの気骨はマーガレット・ミッチェルの風とともに去りぬにおける「タラへ帰ろう」というセリフにおいてもうかがい知ることが出来ます。このスカーレットの激しい個性と不撓の血は彼女の体内において常に激しく燃え盛っているのです。それが昇華しようとする再生願望は、オケーシーのJuno and the Paycock(ジュノーと孔雀)の中に常に出てくるテーマです。「風とともに去りぬ」を読み返してみましたがスカーレットの不撓の血が延々と描かれ、一方でジュノーにおいても彼女の人生苦からの再生願望が絶えず流れ続けるのは不思議な共通点になっています。

 別な意味でのその精神は「ジャガイモ飢饉」にも端を発しています。この現象によってアイルランドは立ち直れないくらい何度も飢餓状態に陥り、その結果としてのアメリカ移民により、国全体が疲弊してしまうことになります。彼らはその移民先で今度は数限りない差別を受けてどん底の生活を送ることになる。でも彼らの中からやがてアメリカ大統領が二人も生まれてイギリス人に衝撃を与えたのはやはり彼らの反骨精神のなせる技でしょう。

 さて、ビートルズとスウィフトの話になりますが、彼らは、アイルランド系の人間なら誰にでもあるユーモアと風刺精神が特に突出している典型です。ビートルズが流行したのは私の学生時代ですがそのころはただやかましいだけと思っていましたが、 最近では「イエスタデイ」や「イマジン」などを聞いてみるとクラシックだなと思うようになりました。彼らが世界的名声を博したことでイギリス政府は勲章を授けたわけですが、今度は退役軍人たちがプライドを傷つけられたとして勲章返上騒ぎが起きました。そのとき彼らは「人を殺してもらったんじゃない、人を楽しませてもらったんだ」と言ったそうです。これはいわゆる「死んだ鍋」、ポーカーフェイス、で辛らつな風刺をやった典型でしょう。強烈な自我があって初めて出てくる表現でしょう。十年前のアイルランド旅行で旧跡を訪ねたときの切符切りの青年もnever give up, never defeated(ギブアップするな、殺られぬな)と繰り返し、英国への怨念を口にしていました。そういう強烈な自我意識と反骨精神は普通のアイルランド人の心の中の精神風土なのかもしれません。パブでクリーム状の泡盛のギネスを飲んでいると、それは漂泊、流浪のイメージである、という司馬さんの主張に素直にうなずくことになるのです。

アラン島雑感
 これからアラン島の話をします。何回もこれまでこの島を訪れました。何しに行くのかと聞かれれば、原始的なままの自然観察です。今年はイニシア島へ行きました。どの島に行ってもあるのは見渡すかぎり霧と岩盤ばかりでほかに何もないところです。荒蕪の島、と司馬さんは言ってまいす。そこでは人間を寄せ付けないほどの荒々しい自然、延々と続く石垣があって、月まで続こうかという石積みを重ねていく人たちの根性と意固地が感動を呼ぶのです。

 この島に魅せられて紀行文の名作を書き上げたのが J.M.シングです。アラン島の住民たちの素朴で原始的な生活の中に見られるたくましい精神力と、この島の漁師たちの苛酷な荒海での運命は、この島独特の編み目を持つアランセーターに表されています。

 セーターもそうですが、ソックスの話がシングの海に駆ける御者に出てきます。その中で、老女モーリヤが自分の7人の息子をアランの波濤の中に失います。行方不明の漁師たちの遺体を識別するのに、彼女の娘は靴下の編み目からそれが自分の兄であることを確認する場面があります。いわば遺体確認のために自分の家独特の模様を編み出すことになり、歴史をたどれば悲しい物語へ戻ってしまうのです。

 老女モーリアの嘆きは息子たちを次々に荒海に奪われてもなお厚い信仰心と強情とも受け取れる人生への開き直りがあります。「これから先はどんなに海が荒れて大波が立とうとも、ほかの女たちが男たちを案じて泣き叫んでも私は案じることはない。暗い夜に起き出してお水取りに行くこともない。」

 このイメージに酷似する場面がジュノーにあります。彼女もひどい生活苦の中で、息子を失い、連れ合いと娘から離別する不幸のきわみに陥って嘆き悲しみますが、神への祈りと頑ななまでの再生願望が見て取れます。この二つの作品の女主人公たちの中に見受けられるイメージの重なり、類似性はこれからの研究のテーマです。

 ところで、アラン島周遊記の中で、シングが描いている島の娘たちの中に見られる霊的な神秘性は、妖精に魅入られたような彼女たちの瓜実顔に見出されると彼は描いています。島の古老から彼は色々と妖精が乗り移った娘たちの話を聞かされた結果、妖精と妖精顔の娘たちの間には神秘的なつながりがあると思い込んでいるのです。

 結局、アラン島の住民の素朴さに惹きつけられて、シングが再三この島を訪れて感じたことは、「いつ命を落とすかわからぬ荒海でカラハを操り漁をするその緊張感は、いわゆる原始的な漁師の俊敏性、芸術家に求められるある種の情感にも通じるところがある」ということで、そこが私も大いに惹きつけられる点です。さらにこの島では「泣き女」というのがいて、島の人が死んだとき、泣いて葬儀の雰囲気を昇華させる役を果たすのだそうです。このkeeningは、過酷な自然の猛威にさいなまれる人たちの叫びがすべてそこに集約されてすごい迫力を醸し出し、その中に自然と人との共鳴を体感せずにはいられないのです。シングは、お年寄りの死に集まってきた人たちが一緒になって嘆き悲しむ光景は、この人たちの心のどこかに潜んでいる激情がその場面にすべて吐き出され、恐ろしい運命を前にして痛ましい絶望に打ち震えるのだと確信します。その中にアイルランドの人たちの反骨精神の根源が潜んでいるようにも思えるのです。

 シングとアラン島のお話がすべてでしたが、表題のオケーシーとのつながりを少し述べて締めくくりにします。ある評論家は「オケーシーがシングのあとを受け継いだ」と言っています。シングの十年後にオケーシーが現れるのは年代的なつながりですが、アイルランドの西海岸、田舎が舞台であったシングとダブリンのスラム街と底辺層の人々の暮らしがテーマであったオケーシーの共通項は、いずれも現状離脱と再生願望という大枠でくくれそうです。ひとつ例を挙げますと前にも述べた「ジュノーと孔雀」です。ジュノーはスラム街の生活苦の中で、まったく生活力のない夫ボイル(Peacock(孔雀)とあだ名される)や、密告者として追われるIRAの息子、貧しい暮らしから抜け出そうとして男にだまされる娘、を抱えてたくましく生きようとする女ですが、最後の場面ではすべてを失って神に祈る姿はあのモーリヤの姿そのままなのです。

 彼女の嘆きと決意の場面が終わって、何もない、誰もいない部屋へ酔っ払って帰ってきたボイルの最後のせりふは「この世はどぶどろ」なのです。その中から這い上がろうとする女の強さ、が形を変えて、背景を変えて、二人の劇作家の共通のテーマの大部分を占めているのではないかと思われます。

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1 お知らせ 1-2 熊本アイルランド協会の歩み

Kumamoto Japan-Ireland Society Annual General Meeting 10th Anniversary

His Excellency Mr. Pádraig MURPHY

Mr. President, Member of the Kumamoto Japan-Ireland Society

As you all know, Lafcadio Hearn arrived in Kumamoto at the end of 1891 to teach Latin and English at the large Government College here, the predecessor of Kumamoto University. It would be unfaithful to the record to deny that he did not immediately fell in love with the place; on the contrary, he was immediately depressed with what he called this “straggling, dull, unsightly”, half-Europeanised garrison town with its soldiers and the antiseptic red brick of the Government College. What he had been hit with was the disappearance of enchantment, the knowledge that he would now have to grow old and suffer the “sorrows of the nineteenth century”, as he put it. “I wish I could fly out of Meiji forever”, he said, “back against the stream of time into Tempo, or into the age of the Mikado Yuryaku – fourteen hundred years ago. The life of the old fans, the old screens, the tiny villages, that is the real Japan I love. Somehow or other, Kumamoto doesn’t seem to me Japan at all. I hate it.”

Hearn was upset at the way modernisation was changing Japan. He yearned to turn back the clock. In a more extended diatribe, he put it thus:

“So Japan paid to learn how to see shadows in Nature, in life, and in thought. And the West taught her that the sole business of the divine sun was the making of the chaper kind of shadows. And the West taught her that the higher-priced shadows were the sole product of Western civilisation, and bade her admire and adopt. Then Japan wondered at the shadows of machinery and chimneys and telegraph poles; and at the shadows of mines and of factories, and the shadows in the hearts of those who worked there; and at the shadows of houses twenty storeys high, and of hunger begging under them; and shadows of enormous charities that multiplied poverty; and shadows of social reforms that multiplied vice; and the shadows of shams and hypocrisies and swallow-tail coats; and the shadow of a foreign God, said to have created mankind for the purpose of an auto-da-fé. Whereat Japan became rather serious, and refused to study any more silhouettes. Fortunately for the world, she returned to her first matchless art; and, fortunately for herself, returned to her own beautiful faith. But some of the shadows still cling to her life; and she cannot possibly get rid of them. Never again can the world seem to her quite so beautiful as it did before.”

This is a point of view which I well understand and with which we can all, I suppose, sympathise.

If I understand the point of view very well, it is because Ireland too can be seen as having lost its enchantment during my lifetime. Sixty years ago, one of the most famous Prime Ministers of Ireland, Éamon de Valera, set out his vision of an ideal Ireland on St.Patrick’s Day.

“That Ireland which we dreamed of,” he said, “would be the home of a people who valued material wealth only as a basis of right living, of a people who were satisfied with frugal comfort and devoted their leisure to the things of the spirit; a land whose countryside would be bright with cosy homesteads, whose fields and villages would be joyous with sounds of industry, the romping of sturdy children, the contests of athletic youths, the laughter of comely maidens; whose firesides would be the forums of the wisdom of serene old age.”

It was not to be, at least not as far as the value placed on material wealth, or the satisfaction with frugal comfort, or the devotion to things of the spirit are concerned.

Ireland came to advanced economic development much later than Japan. After a spectacular burst of economic growth that began some 10 years ago, with growth rates for a number of years of over 10%, the highest in the OECD, Ireland today enjoys a GDP per person which puts it in fourth place, after Sweden, Luxembourg and Denmark, in the EU. The transformation from being the poor man of Europe only 20 years ago has been intoxicating, as all such transformations are. For identities are stubborn things. I have noted, for instance, that though Japan has for many years been the second economic power in the world, the Japanese self-image is still that of a small nation, even, to some extent, a victim perhaps – essentially an image which results from a defeat in a war of now over 50 years ago. Similarly, for centuries the Irish too saw themselves as essentially one of the great losers in the historical lottery and, of course, unlike Japan, we are really small. Just as Lafcadio Hearn did in regard to Japan at the end of the nineteenth century, Ireland until recently fed on the illusion that the country could have a uniquely idylic vocation. So we certainly have not come to terms with our new-found prosperity.

The disjuncture between image and reality does, of course, in the case of Ireland at least, give rise to some problems. In the Irish case they result from the inadequacy of some of the structures left over from an overtaken era – their incompatibility with the demands of advanced development. On the level of physical infrastructure too, Ireland finds itself struggling to update its sometimes 19th-century facilities to meet the requirements of its 21st-century economy and the strain is obvious in the area of ground transport, for instance. In some ways, Ireland is like a teenager who has recently grown too fast for his clothes.

Then there is the question of identity. The age of strong nationalistic feelings is gone in Ireland, including the sense of a special calling for Ireland. A strong sense of nationalism meant a strong sense of separate identity. The disappearance of strong nationalism is very welcome, but the accompanying loss of an assurance about identity is more problematic.

The question was posed in an interesting way over the past year or so. Ireland has enjoyed high levels of foreign investment, in particular from the U.S., which has been a very important factor in the high growth rates of the 90s. There has been growing along with this a sentiment that globalisation was the most important contributory factor to this development, and that what some have recently been calling “the old Europe” might have been overtaken by this wave of the future. Sentiments of this kind led the Irish Deputy Prime Minister to say during 2001 that she thought Ireland was nearer Boston than Berlin. This might in some circumstances be taken as a relatively harmless exercise in alliterative speech-making.

However, it so happened that in June 2001 a referendum was scheduled in Ireland on ratification of the Nice Treaty, a very complicated adjustment of the basic EU Treaties in order to permit enlargement of the European Union. Given the very happy experience that Ireland has had as a member of the EU, along with the fact that no less than four such referenda had previously, since we joined the EU in 1973, passed comfortably, the universal expectation was that the passing of this referendum too would be unproblematic. This expectation resulted in complacency on the part of the main political parties, all of which were in favour, but which did not campaign actively.

At the same time, those who opposed the proposal had a relatively easy time giving a simplistic negative reading of the complex legal document which was submitted for ratification. The result was a very low poll, in which a small majority said no. This was a severe embarrassment for the Government, for, without ratification of the Nice Treaty, the politically important enlargement of the EU could not proceed. The Irish people were obliged to consider very carefully whether in fact we were closer to Boston than to Berlin: the question needed imperatively to be put again to the people as, without Irish ratification, the Nice Treaty could not enter into force and enlargement of the EU could not take race.

And so a campaign for ratification by referendum was re-opened one year later with, this time, full commitment by all the established political parties and, as a result, full realisation by the electorate of what was at stake. The result showed that, for the people of Ireland, Berlin was at least as important as Boston: in a large turnout, voted in favour of ratification by a margin of almost to 1.

That having been decided, however, it is true to say that Ireland’s view of its membership of the EU is no longer what it was even five years ago. We have already progressed to being one of the richer member States of the present 15, not to speak of the 25 which will be members as of 1 May next. Because of that, we are already moving from being net beneficiaries from the operation of the Community budget to being net contributors. With enlargement and foreseeable changes in the agricultural policy because of WTO negotiations, this trend can only accentuate.

In sum, Ireland today is a country which has made very important progress in economic development in the past 15 years, bringing it to the first tier of developed economies in the world – in GDP per head, No.10 in the world. In the course of that same accelerated development, questions have arisen about its identity – it being certain that the old nationalistically accented identity has faded. But when well-considered, a commitment to the European integration enterprise as manifested in the EU seems to be an essential part of a modern Irish identity. At the same time, this does not yet completely cover Ireland’s stance in international affairs. Here, a long-standing Irish attachment to the central role of the United Nations in the promotion and maintenance of world peace comes to the fore, together with a question as to the future viability of this option.

Ireland is not a country without problems. I have indicated some of them: the speed of our recent economic development has left some of our infrastructure, especially in transport, with some way still to go in order to catch up. The very open economy, itself a very important factor in the rather spectacular development, also leaves one exposed to the possibility of downturn in the case of an evident slump in the world economy, such as that we are now going through. Here, too, the future is looking considerably murkier than it did only a relatively short time ago. Will the world economy, will the US economy, revive? Will the bodies that oversaw the economic development at universal level since the Second World War – the IMF, the World Bank, WTO, the successor of GATT – be still able to function in the future as they have for 50 years now? These are questions too which are as vital for Japan as they are for Ireland, dependent as we in Ireland are, even more than Japan, on the health of the world economies and, in particular, on that of the US economy. Overall, however, it would have to be said that, in any reasonable historical perspective, Ireland today is experiencing one of the happiest periods of her history, able for the first time ever, perhaps, to offer a premium standard of living to all its population, no longer suffering the hemorrhaging of emigration, and a secure member of one of the most advanced societies of states in the world.

And so we find ourselves at the beginning of a new century, with prosperity that our grandparents could not believe in, but also with problems of a complexity which they could not imagine. And as for the future, I return again to Lafcadio Hearn. What I see in Japan today is a highly sophisticated modern economy which still manages to preserve a distinctly Japanese identity, the product of a culture of some two thousand years. The virtues noticed by Lafcadio Hearn more than one hundred years ago I still see flourishing. So if, in the case of Japan, Lafcadio Hearn’s pessimism of the 1890s is seen not to be justified in 2003, I derive some hope for my own country. Perhaps, after all, the dream that was dreamt by Éamon de Valera in 1943 need not have been dreamed in vain?

I thank you for your attention.

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1 お知らせ 1-2 熊本アイルランド協会の歩み

熊本アイルランド協会創立10周年記念講演

駐日アイルランド大使 ポドリグ・マーフィー閣下

皆様ご存知のように、ラフカディオ・ハーンは、ここ熊本大学の前身である第五高等学校でラテン語と英語の教鞭をとるため、1891年末に熊本に到着しました。ハーンがただちにこの地を好きにならなかったことを否定しては、記録に不忠実でありましょう。反対に、彼は、自ら記したように、「兵隊たちが駐屯する、まとまりのない、退屈で、不体裁なヨーロッパナイズされた都市と、官立学校の味気ない赤レンガ」に意気消沈したわけです。ハーンを襲ったのは、魅惑状態からの脱却で、これから自分は老年期に入り、「19世紀の悲しみに耐え忍ばねばならない」と記しています。「永遠に明治以前に戻れたら」と彼は記しています。「時をさかのぼり、天保時代、または1400年前の雄略天皇の時代に戻れたら、どんなにいいか。昔の扇子、昔の屏風、小さな村、そのような生活が、私が愛する本当の日本なのです。どういうものか、私には熊本が日本のようには思えません。私は嫌いです。」

ハーンは近代化の中で日本が変わっていくことに動転しました。時計を逆回転させたいと願ったのです。もっと痛烈な非難を述べています。

(以下、平井呈一先生の訳を引用させていただきます)
「こうして日本は、わざわざ伝授料を出して、自然の陰影、人生の陰影、思想の陰影の見方を学んだのである。そこで西洋人は、影にもいろいろある、神聖なる太陽の本分は影を作ることにあること勿論だが、あれはしかし、どちらかというと、影は影でも安価な影だ、もっと高価な影ということになると、これは西洋文明が一手に製造しているのさ、といって、しきりと陰影を礼賛して、君たちもぜひこれを採用したまえと言ってすすめた。日本人は、そのとき、機械の影や、煙突の影や、電柱の影を見て、一驚した。鉱山や工場の影、あるいは、そこに働いている人たちの心のなかの影、そういうものを見ておどろいた。20階もある高層家屋の影、その下で物乞いをしている飢餓の影、貧困者をいやが上にもふやすばかりが能のおびただしい慈善の影、悪徳を増すばかりの社会改善の影、インチキと偽善と燕尾服の影、あるいは、火あぶりの刑にあわせるために人間をつくったといわれる異教の神の影。こういう影を、それからそれへと見せられた日本人は、そこまできて、ようやく本心に立ち戻って、それ以上影絵を学ぶことをきっぱりと拒絶したのであった。全世界にとって、まことにしあわせだったことには、日本は、この時いらい、ふたたび、比類なき自国本来の芸術に立ち戻ったのであった。日本が、日本自身の美の信念に、ふたたび立ち戻ったということは、日本自身にとっても、まことにしあわせなことであった。しかし、いったん習いおぼえた影は、いまでもやはり、多少は身にこびりついている。これをすっかり剥ぎおとしてしまうことは、おそらく、日本人にも、もはやできない業だろう。かつては宇宙の万象が、あれほど日本人に美しく見えたように、今後もう二度と日本人の目に映ずるようなことは、まずあるまい。
-引用終わり-

これは私にもよく解る観点であり、われわれ全員が同感できることだと思います。

なぜ私にこれがよく解るかといえば、それは私の一生の間に、アイルランドも、その魅力を失ったと見ることができるからです。60年前、もっとも有名なアイルランドの大統領の一人であるエーモン・デ・バレラは、アイルランドのナショナル・デーであるセント・パトリックス・デーに理想のアイルランド像ついて語りました。

「われわれが夢みるアイルランドとは、物質的豊かさをまっとうな暮らしの基礎であるとだけ考える人々、質素な楽しみに満足し、余暇を精神的活動に使う人々の集まる国でありましょう。その田園は居心地のよい農場であかるくかがやき、野や村には勤勉な人々の声や、元気な子供の遊ぶ声、筋骨たくましい若者の競いあう声、見目美しい乙女たちの笑い声で喜びかえる。そして、暖炉の周りでは落ち着いた老人たちが知恵を出し合い語り合う、そんな国であります」

現実はこのようにはなりませんでした。少なくとも、物質的豊かさに対する価値観や、質素な楽しみに満足すること、また精神的活動に没頭する点においては違っています。

アイルランドの経済発展は、日本よりずっと遅れてきました。10数年前に経済の著しい発展が始まり、数年間、OECD加盟国で最高の10%を超える成長を続けた後、現在は、EU諸国の中で、スウェーデン、ルクセンブルグ、デンマークにつぐ第4位の一人当たりGDPを持つようになりました。たった20年前にはヨーロッパの貧者といわれていた、それからの変身には、すべての変身がそうであるように、人を夢中にさせるものがあります。ですが一方、アイデンティティーというものは頑固なものです。たとえば、日本は世界第二の経済大国であるにもかかわらず、日本の自己認識は小国のまま、または、50年以上前の敗戦からくる犠牲者としてのイメージを持っています。アイルランドも同様に、数世紀にわたり、歴史のくじ引きの中の敗者として自らを見てきました。また、もちろん、日本と違ってアイルランドは事実、小さな国です。19世紀の末にラフカディオ・ハーンが日本について思ったように、アイルランドも最近まで、アイルランドには独特の牧歌的なあり方があるのだという幻想にとらわれていました。ですから、われわれは新しく起きた繁栄をうまく受け入れられないのです。

イメージと現実の分離は、少なくともアイルランドの場合、いくつかの問題を引き起こしています。アイルランドの場合は、過去の時代から引きついだ構造の不適切性-新しい時代的要求に調和しないことから起きています。物理的なインフラにおいても、アイルランドは19世紀型施設を21世紀型経済にあった新施設に改変しようと苦悩しており、たとえば地上輸送の分野で懸命の努力をしています。ある意味では、アイルランドは急に成長して服が窮屈になったティーンエージャーといったところでしょうか。

そして、アイデンティティーの問題が出てきます。アイルランドには独特のあり方があるという考えも含めた、強烈な愛国主義的思考の時代は過去のものとなりました。強烈な愛国主義的思考は、強いアイデンティティーの意識とつながっています。過度の愛国主義的思考の消失は非常に歓迎するものですが、それにともなうアイデンティティーの欠損は、より問題です。

この問題は、昨年ごろから、興味ある形で現われています。アイルランドは特にアメリカ合衆国などの外国からの投資を多く受け、それが90年代の高度成長を推進する重要な要素でありました。これに伴い、グローバライゼーションこそが国家の発展をもたらす最も重要な要素であるといった考えが起こり始め、「古いヨーロッパ」は将来、この波にのまれてしまうだろうと考える人が現れ始めました。こういった考えが、2001年にアイルランド副首相をもって、アイルランドはベルリンよりボストンに近いと思うと言わせたのです。時と場合によっては、これは頭韻を踏んだ無害な演説だと受け取られるでしょう。

しかし、2001年6月に、その問題が浮き彫りになったのです。アイルランドではニース条約の批准をめぐる国民投票が予定されていました。ニース条約は、EU拡大に道を開くためにEUの基本的条約の複雑な調整をするための条約です。アイルランドが1973年にEUに加盟して以来、4件以上このような国民投票が行われましたが、いずれも楽に可決されてきたという事実と、アイルランドがEU加盟国として享受してきたすばらしい経験を考慮すると、この国民投票は問題なく可決するというのが普遍的な予想でした。主要政党はその予想に満足し、そのすべての政党が批准に賛成であったのにもかかわらず、政治運動を活発に行いませんでした。

同時に反対派は、批准用に提出された複雑な法律文書を平易に否定的に解釈し、比較的楽なキャンペーンを展開したのです。結果は非常に低い投票率で、反対派が小差で勝利しました。政府は大変に困難な立場に追い込まれたのです。ニース条約を批准しなければ、政治的に重要なEU拡大が前進しないからです。アイルランドの人々は、本当にベルリンよりボストンに近いのかどうかを真剣に考えなくてはなりませんでした。アイルランドによる批准がなければ、ニース条約の発効はなく、EU拡大は挫折するので、どうしてもふたたびこの問題を国民に問う必要がありました。

一年後、国民投票による批准を求めた運動は再開されました。今度はすべての既成政党が十分にかかわり、結果として何が問題なのかを選挙民がしっかりと理解したわけです。投票の結果、アイルランド国民にとって、ベルリンは少なくともボストンと同様に重要だということが明らかになりました。投票率は高く、ほぼ2対1の比率で人々は批准に賛成したのです。

そしてそれは批准されましたが、アイルランドのEU加盟国としての視点が、もう以前のものではない、5年前と比べても違ってきているのは事実です。来年の5月1日より拡大する25加盟国の中では言うに及ばず、アイルランドは、現在の15加盟国の中でも既に富める国の一つとなっています。そのため、EUの予算配分では、われわれはすでに受益者から、純貢献者に移行しつつあります。EU拡大と、WTOの折衝でおそらく起きるであろう農業政策の変化により、この傾向は進む一方です。

要約すれば、今日のアイルランドは、過去15年間で非常に重要な経済発展を遂げ、世界の先進国のトップグループに入りました。国民一人当たりのGDPは世界10位です。その急速な発展の中で、アイデンティティーの問題が出てきました。古い愛国主義的に彩られたアイデンティティーが薄れたのは確かです。しかし、よく考えてみれば、EUに表されるヨーロッパ統合事業への貢献が、近代アイルランドのアイデンティティーの主要部分であるとも思われます。しかし同時に、これが国際問題におけるアイルランドの立場を完璧に表しているわけではありません。世界平和の推進と維持に、アイルランドが国際連合を中心とした活動に長年、貢献してきたことは、その選択の将来的展望の問題とともに、焦点をあてる必要があると思います。

アイルランドは問題のない国ではありません。すでにいくつかは申し上げました。近年の経済発展の速度に、特に輸送部門でのインフラが追いつかず、キャッチアップする必要があります。また、開放経済が目覚しい発展をとげる上で非常に重要な要素だったのですが、現在のように世界経済が明らかに停滞している場合には、下落の可能性にさらされることになります。また、将来は、過去の数十年に比べ、より不確かさをますように思えます。世界経済は、アメリカ経済は、再生するのでしょうか? 第二次世界大戦後、地球規模で経済発展を指導してきた機関-IMF、世界銀行、WTO、GATTの後継機関-は、過去50年間のように、将来も機能できるでしょうか? こういった疑問は、日本にとってきわめて重要であるように、アイルランドにとっても重要です。アイルランドは日本以上に世界経済の健全性、特にアメリカ合衆国経済のそれに依存しているからです。しかしながら、全体としてみれば、アイルランドは現在、あらゆる見地からして、その歴史の中で最も幸せな時期にあることを述べておかねばならないと思います。おそらく、歴史の中で初めて、すべての国民に優れた生活程度を供し、もはや移民による人口消失はなく、世界中でもっとも進んだ国家社会の一員として安定した地位を保っています。

新世紀の冒頭にある我々は、祖父母が決して信じることのできない繁栄の中に立つと同時に、彼らには想像もつかない複雑な問題をも抱えています。将来については、ふたたびラフカディオ・ハーンにもどりたいと思います。今日、私がお見うけしますに、日本は高度に洗練された近代経済国家であると同時に、2000数年の歴史に培われた文化の産物である日本の独自性をまだ明確に保持しておられます。100年前にラフカディオ・ハーンが気づいた美徳は、まだ存在し、あちこちに見受けられると、私は思うのです。ですから、もし、1890年代にラフカディオ・ハーンが抱いた悲観論が2003年に実証されていないなら、私は、わが国にもいくばくかの希望があるのではないかと思うのです。エーモン・デ・バレラの1943年に見た夢は、むなしく終わることはないのではないでしょうか?

ご清聴、ありがとうございました。