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4 イベント 4-5 親睦遠足

親睦遠足2012(小楠ゆかりの弥冨家、矢嶋姉妹のふるさと探訪)

今回の親睦遠足には40名強の方々にご参加いただきました。ありがとうございます。春先の心地よい天気の中、横井小楠、徳冨蘇峰、徳冨蘆花、後藤是山、竹崎純子、横井つせ子、徳冨久子、矢嶋楫子の足跡をバスでたどり、潮井水源・潮井神社まで散策しました。行く先々で貴重なお話しをお伺いできましたことを、関係各位に厚く御礼申し上げます。

2012年5月13日(日)

  • 10:00 熊本近代文学館集合/「江津湖の文芸」見学
  • 10:30 バス移動
  • 10:50 弥冨家・横井小楠記念館(四時軒)・見学
  • 12:20 移動・昼食
  • 13:30 後藤是山記念館見学
  • 14:00 移動
  • 14:30 四賢婦人記念館見学
  • 15:00 移動・散策
  • 15:30 潮井水源(神社)見学
  • 16:30 熊本近代文学館到着/解散
弥冨家1(2012年5月13日)
弥冨家1(2012年5月13日)
弥冨家2(2012年5月13日)
弥冨家2(2012年5月13日)
弥冨家3(2012年5月13日)
弥冨家3(2012年5月13日)
弥冨家4(2012年5月13日)
弥冨家4(2012年5月13日)
横井小楠記念館1(2012年5月13日)
横井小楠記念館1(2012年5月13日)
横井小楠記念館2(2012年5月13日)
横井小楠記念館2(2012年5月13日)
後藤是山記念館1(2012年5月13日)
後藤是山記念館1(2012年5月13日)
後藤是山記念館2(2012年5月13日)
後藤是山記念館2(2012年5月13日)
後藤是山記念館3(2012年5月13日)
後藤是山記念館3(2012年5月13日)
四賢婦人記念館1(2012年5月13日)
四賢婦人記念館1(2012年5月13日)
四賢婦人記念館2(2012年5月13日)
四賢婦人記念館2(2012年5月13日)
潮井水源1(2012年5月13日)
潮井水源1(2012年5月13日)
潮井水源2(2012年5月13日)
潮井水源2(2012年5月13日)
潮井水源3(2012年5月13日)
潮井水源3(2012年5月13日)

熊本アイルランド協会事務局

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4 イベント 4-5 親睦遠足

親睦遠足2011(水前寺・江津湖界隈)

本日の親睦遠足には約30名の方々にご参加いただきありがとうございます。強い北風が吹き、ときおり雪がちらつく中の遠足でしたが、先々で貴重なお話しをお伺いすることができました。詳細は後日更新いたします。

  • 10:00 水前寺公園参道集合
  • 10:10 古今伝授の間訪問
  • 11:00 出水神社参拝・記念撮影
  • 11:20 ジェーンズ邸訪問
  • 12:30 昼食(近代文学館レストラン)
  • 13:30 近代文学館 山頭火展見学
  • 14:10 江津湖畔文学碑散策
  • 14:40 現地解散
古今伝授の間1(2011年2月12日)
古今伝授の間1(2011年2月12日)
古今伝授の間2(2011年2月12日)
古今伝授の間2(2011年2月12日)
出水神社(2011年2月12日)
出水神社(2011年2月12日)
ジェーンズ邸1(2011年2月12日)
ジェーンズ邸1(2011年2月12日)
ジェーンズ邸2(2011年2月12日)
ジェーンズ邸2(2011年2月12日)
近代文学館1(2011年2月12日)
近代文学館1(2011年2月12日)
近代文学館2(2011年2月12日)
近代文学館2(2011年2月12日)
江津湖畔1(2011年2月12日)
江津湖畔1(2011年2月12日)
江津湖畔2(2011年2月12日)
江津湖畔2(2011年2月12日)

熊本アイルランド協会事務局

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4-2 清和文楽アイルランド公演

清和文楽アイルランド公演関係者感想集

アイルランド 安達 東彦

“花かご抱えて誰を待つ”で始まる「アイルランドの村娘」の歌を聴いたのが私にとって最初のアイルランドです。それから長い年月が経って、この夏私は、何故かひょっこりダブリンにいたのです。ほんの少し一夜づけの知識をポケットに入れて。ただし魔法にかかったわけではなく、実はちゃんとした目的をもっていたのです。ハーン生誕記念の協賛で「ハーン幻想紀行」なる個展のための取材旅行だったのです。そして同行された方々の好意で自由にスケッチができ、貴重な体験もしました。限られた日数でアイルランドがわかる筈がありませんが・・。ダブリン空港で清和文楽の道具「屋台」が紛失し新しく作ろうということになり翌朝、公演予定の劇場へ。ちょっと早く着いて待っていると舞台係のダブリンの青年がやってきて挨拶をかわすや「珈琲を飲むか」と聞くのです。今逢ったばかりの外国人と珈琲を飲むために街角に消えたのです。こんなダブリン気質!まず感動しました。

ハーンの父系の地アイルランドは・・“魂”がつく数少ない国のひとつでしょう。ダブリンの若者達の風貌やパブでの行動を見ていると感じるのです。アイルランド魂を。その風土の美しいこと、それも“人工”を抑えた風景に人々の姿の溶け込む様は。例えばある日、緑に囲まれたブラーニー城を背に新婚のカップルが二組記念撮影です。淡い単色のドレスの新婦と取り巻き、それぞれの表情がまさしく森の妖精。実はその夜のホテルは偶然彼らと同じでした。二組のパーティは当然別々のホールでしたが、食事を終えてロビー近くに行くと、何かさっきと雰囲気が違うのです。なんと彼らは踊りながら合流していたのです。何もかも自然なのです。ハーンはこの素敵なアイルランドを離れたのです。不幸な事情があったようです。複雑な想いが彼にもあったのでしょう。古き良きものを大切にし、質素で自分達の在りようをわきまえ、人生を楽しむ術を知っているアイルランドの人達。いつの日か、ロック・オブ・キャシェルの下の小路でバラを描いている絵描きと逢うかもしれませんよ、皆さん!

出会いに感謝 吉田 春代

あれから二ヶ月余りの月日が過ぎただけなのに、遠い日の出来事だったのか、楽しい夢を見ていたのだろうかと、不思議な想いで、今秋風に身をゆだねています。

旅の記念にと求めたグレッグ・アーウィンさんの日本の歌のCDを聴いていると、映画のスクリーンのように、アイルランドの風景や、出会った現地の人達の顔、そしてご一緒した皆さんとの楽しい会話までも鮮明に思い出すことが出来るのです。なぜ、アイルランドで日本の赤とんぼを、アメリカ人のグレッグさんが歌うのに違和感がないのか、ぴったりと馴染んでバックミュージックとなり私の脳に記憶しているようです。道中、彼の気遣いにみられたやさしさや温かさ、その人のハートが伝わるから心に響くのだということを、今更ながら学ばせて貰いました。

私はこの度太夫を務めましたが、未熟な芸ゆえに申し訳なさを感じています。今年三月、「むじな」の詞に曲をつけろとのいうご依頼を受けたものの、全く初めての経験で産みの苦しみでした。登場人物をどのかしら(頭、人形の首)にするのか、村の情景をどんなふうに表現しようとか、イメージを膨らませるまでの、のた打つ日々、ニ幕構成ではあるものの、ストーリーの展開の早さに間が持てず、ましてや、言葉の通じない異国の地で、そっぽをむかれないためにはと苦肉の策が、アイルランド民謡の庭の千草を、忠兵衛に唄わせて登場させることでした。古典芸能ゆえに、とんでもないことをやるとお叱りを受けるであろうけれども、あのメロディに耳を傾け現地の人が喜んでくれたことに免じてお許しを得たいと思います。多分、庭の千草を太棹三味線にのせて義太夫に唄ったのは、私が世界で初めてではなかろうかと、ひそかに自負しています。

異文化を温かく受け入れてくれたひとびとと心が通じ合えたことは最高の喜びであり、すべての出会いが偶然ではないことを感じずにはいられないのです。このようなすばらしい体験をさせていただいたことを私の財産とし、清和文楽海外公演を支えてくださいました多くの関係者の皆様に、厚くお礼を申し上げます。最高の感動と思い出をありがとうございました。

楽しい思い出 河田 知栄子

今年は、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の生誕150年祭に当たり、熊本アイルランド協会の協力で清和文楽が行くことになり、海外公演と聞いて、まさかと思った。主人の海外旅行の時も行かず、長男一家がギリシャ・アテネの日本人学校に三年間いたときも行かなかった私です。冗談に文楽人形となら何処までも行くと言っていたら、本当のことになり、主人に相談したら、文化交流の目的があるのだろうし、言葉はわからないだろうが、身振り手振りで理解されるように頑張って来いと勧められ、私で良いか迷いましたが、行くことにしました。後に残って文楽をされる人達も大変だろうと思いました。

清和文楽が演じる外題は、怪談「むじな」に決まった。保存会の中で、6人が行くことになり、むじなの段、蕎麦屋の段というハーンの怪談もので、脚本家の土居さんが来られて、話が進み人形をすることになり、土居さんの指導で練習が始まった。語りの吉田春代さん、三味線の長迫紀子さんの義太夫にあわせて練習も徐々に進み、土居さんのアドバイスを受け忠兵衛の着物がどうか、町人風のようで合わないとの事で、着物選びが大変でした。探して合うのが見つかり、練習に入り、何回となく練習をし、いろいろと苦労もありました。鶴屋デパートで出発式があり、いよいよと思いました。初めての海外公演に不安もあり、知らぬ人と会う心細さに迷い、だが皆さんの助けを借りて無事アイルランドに着きました。公演前には小道具の蕎麦屋の屋台が無くなり、いろいろの方の屋台作りは大変だったでしょう。一回目のチボリ劇場のすばらしさにビックリしました。文化の違い、日本の着物の人形が外国の人にどう映るか、理解されるか心配でした。公演が始まり、一心になっていたところ、拍手があり、いっぺんに不安も取れました。上演後客席に出てのふれ合い交流タイムで、言葉はわからないが、笑顔を見て喜びの表情を見ると心がじんとして、はるばる遠いところまで来てよかったと本当にうれしかった。二回目の公演、三回目の公演と歓迎され、いろいろの人達と出会い、接することができ、初めての海外で、みんなに喜ばれるとは夢にも思いませんでした。楽しい思いを胸に、帰国の途中、フランスに立ち寄り、パリを一日見て歩きました。歴史と文化を感じる国でした。

今思うと、これまで海外旅行に行かなかったことが、悔しくなります。不安だった海外公演が拍手の中に終わり、皆様方のお陰で無事帰国できました。見知らぬ人達に巡り会い、楽しい思い出が出来ました。私の清和文楽人形保存会にいたことは、一生の宝物です。しかし、今迄続けてこられた清和文楽を守って、苦労と努力をされた先輩の方々に感謝します。

これからも私達は頑張って、次の世代に伝えることをしっかりと身につけていきます。下手な文で終わります。

一生の思い出 高木 サナエ

アイルランドに行って、三ヶ月に入ろうとしています。行くまで、長い旅ですのでどうしようかと考えてしまい、止めようかとも思いましたが、一生に一回くらい海外旅行に行くのもいいかもしれないと、やっと行くことにしました。

7月2日から福岡に一泊して9日間アイルランドに行き、一生の思い出になりました。長い旅をして、行ってみたら、一日が早いし、整理と準備で夜は遅いし、朝は出発が早いし、毎日楽しい旅でした。アイルランドの人達は、みんないい人ばかりです。しかし英語ですから言葉がわかりませんでした(ノーとサンキュウだけ)。熊本に帰ってから、多くの人に「テレビで放送がありましたよ。良かったですよ。」といわれました。

アイルランドでは、旅行社の大竹さんの言葉に従って、一日を有意義に過ごし、石の建物が見事にできて、石の所で仰向けになって石を眺めていました。あれが一番思い出で、下を見るととても怖ろしくなり、気分が悪くなりそうです。でも人がいっぱい並んでしているので、私もやってみました。人が多いのにも驚きました。海外は広いところで、人の影もなく、みんな何をしているのだろうと思いました。

文楽の道具を持って行ったのに、蕎麦屋の屋台が無くなり、大変心配していましたところ、絵を描かれる人がいらしたので、きれいにボール箱で作ってもらいました。屋台がないと「むじな」ができなかっただろうとおもいます。皆様のおかげです。海外にまで行くなんて、思いがけないことでした。

参加してよかった 松田 信雄

清和文楽アイルランド公演が決定、不安と期待が交差する中、連日の様に練習が始まった。報道関係者も毎回のように取材に来られる。仕上げも終わり一路アイルランドへ、着いたのは良いが、舞台装置の一部(麦屋屋の舞台)が途中で紛失、支配人他スタッフも困り果てておられた。するとそこに現れいでたる安達先生(画家)、すかさず何かお手伝いしましょうかとの救いの声。ホテルに着いたのが7月3日21時30分。部屋割りも終わり床に着いたが、やはり眠れず安達先生に電話する。すると今から屋台作りについて協議しましょうとのこと。その時すでに午前0時をすぎていた、何で作るか、どこから品物を調達するか等々、午前2時までかかり打ち合わせは続く。翌4日、午前9時チボリ劇場到着、直ちに前田さん(現地の演劇研究家)に説明し、ダンボール調達に回ったが適当な材料が見つからず、探す当てもなく、困り果てていた。すると、チボリ劇場のボランティア(女性)の方がワゴン車で大きなダンボール数枚を持ってこられた。ありがたやありがたや、直ちに屋台作りに取りかかる、色を塗り、本物そっくりの屋台が出来上がる。勿論この屋台を作るのに必死で協力されたチボリ劇場のスタッフ(男性)の方、部品及び材料調達など手伝ってくださった方に再度会ってお礼を言いたい気持ちでいっぱいである。できたら是非日本へ遊びに来て欲しい。

最後にこの企画を立案された方々に心からお礼を申し上げ皆様の今後のご健勝をお祈り申し上げたい。

行くまでが心配 飯星 勉

アイルランドツアーの皆様大変お疲れさまでした。皆様方にはたいへんお世話になり厚くお礼を申し上げます。私にとりましては、一生忘れられない海外旅行でした。

この度の海外公演にあたり、まず心配したのが十日間という長旅です。体は大丈夫だろうか?あまり体力に自信が無く不安でした。次に文楽についてです。日本で公演していても、なかなか解りにくい文楽が、果たして海外の人に解ってもらえるかという点でした。練習の方は、二ヶ月ちょっとやりましたが、最後の方が一週間位前までなかな決まらず、何回もやりました。7月2日いよいよ村を出発、博多で一泊。私にとりましては、初めての海外。不安と期待で複雑な気持ちでした。飛行時間の長いのにはまいりました。ホテルへ着いた時は、ぐったりで、これから十日間どうなるやらと体の方が心配になりました。しかし、初日は早く目覚め、さあ今日から私達の文楽が海外で試されるのだと思うと少し緊張しました。午後チボリ劇場へ着いて、ここが海外での初舞台です。うまくできますようにと祈りながら、リハーサルに臨んでいるうち、舞台は狭いがどうにかなるだろうと思いました。いよいよ本番。あがってはいませんでしたが、最大の難関、蕎麦屋から鬼に変身する場面になり、カシラ(人形の首)の付け替え場面で、どうしても所定の所にはまらず、これはやばいぞとおもいましたが、はめていたら間に合わず、このまま行くしか仕方がないと思い、何とかわからぬように出来ましたが、冷や汗をかきました。

終わってアイルランドの人々にも言葉は通じなくても理解してもらえたのではないかということと、あの拍手には驚きました。ホテルへ帰り、皆と一杯飲みながら、カシラの話をしたら、誰も気付かなかったそうです。自分としては、一番気にしていたことが上手くいかず、失敗でした。二回目からは失敗もなく、上手くできホッとしました。この三回の公演で、何処の会場でも言葉はわからなくてもわかって貰うことが分かり、今後も海外公演が入ったら、どんどん出ていって、海外交流を深めるべきだと思いました。最後にアイルランドという国は、本当にすばらしい国だと思いました。高い建物が無く、また高い山もなく、街もきれいだし、日本食さえあれば、住んでみたいと思いました。最後にアイルランド協会の皆様はじめ、多くの方々にたいへんお世話になりましたことを厚くお礼申し上げ、皆様のご健康とご多幸をお祈り申し上げます。

脚色者から 土居 郁雄

BSでアイルランド公演の模様を拝見しました。

バカ受けに受けてましたネ。子供の喜ぶ様、会場の熱気とどよめき。このことをヘボ脚色者として多としたいと思います。

脚本など書いた経験がない私。果たして向こうで理解していただけるだろうか。そればかりが心を支配していました。しかし、放送を見た時、杞憂に過ぎなかったことを知りました。座員の方々が真摯に、この継ぎ接ぎだらけの作品に取り組もうとされるお心が通じたのでしょう。無償でなければ、私もお話をお引き受けしなかったかもしれません。

ところで、今回初めて海外旅行される方も居られると聞きました。加えて少しお年召していらっしゃる。お疲れではないか。知人との友情で筆を執ったものの、座員の方々にとって却ってご負担ではなかったか。様々なことが頭を去来していました。

その素晴らしい演技に工夫をくわえた演出で、感動の嵐を起こされていた頃、私は奥飛騨に居ました。知人で名古屋のからくり人形師・九代玉屋居庄兵衛師らと共にその作品の群に触れ、日本文化を再認識していたのでした。

しかし、片時もアイルランド公演のことが頭からはなれません。こんなことだったら行けばよかったと臍を噛みましたが、機会があえばまた行けると心を慰めました。結果的には大成功をおさめられ、意気揚々と凱旋。電話口から「皆無事に日本へ到着しました」と、前館長の渡辺民雄さんの明るいお声。

安堵したのと同時に疲れが吹き出し、暫く放心状態に陥ったことです。今後はこの経験を生かされて、再度海外公演に挑んで頂き、世界を舞台にご活躍をとお祈りします。また、今回の「むじな」は、一幕二場構成ですが、今一場加えて抑揚のあるものに仕立てたいと念願しております。

マルティニーク寸描 中村 青史

小泉凡さんから渡された資料をまず紹介しょう。「マルティニーク島について」より。

「カリブ海、小アンチル諸島中部に位置する。面積は約1,100平方キロ(東西約30キロ、南北約80キロ、淡路島の約2倍)、人口約35万人。気候的には熱帯サバンナ気候。年平均26℃。県都はフォール・ド・フランス(人口約5万人)。

17世紀までは、南米大陸から渡来したアラワク人やカリブ人が居住。17世紀以後、フランス人が彼ら先住民を絶滅させ入植を始める。その際、西アフリカのさまざまな地域から黒人奴隷が運び込まれ、サトウキビのプランテーション経営が行われた。しかし、1848年に奴隷制が廃止されると、インドから契約移民を補充し労働力を確保した。1902年にはピレー山の大噴火でサン・ピエールの町が絶滅。以後、島の中心は、フォール・ド・フランスに移る。1946年、マルティニークはフランスの海外県となり急速に近代化が進み、1970年代には農業人口12%に対し、サービス・商業・観光業の人口は70%に達した。現在、GNPの一人あたりの平均は4,000ドルとカリブ諸国ではトップクラスに位置する。」

パリはオルリー空港から直行便でマルティニークに降り立ったのは、すでに日没近い頃であった。空港からホテルまでのマイクロバスの中で日は落ちた。砂糖キビ畑と林と車の渋滞、林の中に牛がいた。砂糖キビ畑を見たのは、二泊三日の短い旅程の中でではあったが、そこだけだった。かっての砂糖工場も見当たらなかった。第一農地らしい農地がなかった。いや農地の多くはバナナ畑であった。砂糖キビは今やラム酒の原料だけなのかも知れなかった。農業人口12%というのもうなずける。サン・ピエールの町は、ハーンが滞在した頃の美しい町ではなかったが、そしてかって大繁盛した港も無かったが、それでもこぢんまりとした町で、火山記念館があり、ハーンが撮影した噴火前の町並みの写真もあった。この町の入り口ともいうべき、またコロンブス上陸地点ともいわれているカルベにはゴーギャン美術館があった。赤い屋根の花に囲まれた瀟洒な建物であった。赤い屋根といえば、岡の上から見たサン・ピエールの町も、みんな赤い屋根であり、紫紺のカリブ海と緑の山の間にあって、おとぎの国のようであった。

マルティニークの島は、少なくとも1ヶ月は居たい処であった。それにしても小泉凡さんのお陰で今回の旅は楽しむことができた。本当にありがとうございました。

清和村の「むじな」 西 忠温

ソウル空港からエア・フランスでパリへ向かった。二度目のダブリン行きである。今回も三年前同様、家内同伴であった。機内食にキムチが出たのは意外であった。パリでの乗り換えで例のごとく待たされた。四時間ほどであろうか。当の空港職員はいつもの事だの顔をしていた。すまないという風は微塵もない。結構なお国柄である。その間、清和文楽保存会長の平田さんから面白い話をうかがった。清和村に「むじな」が生息しているという。初耳であった。狸の一種だそうで、人里離れた山間地にいて、狸ほど臭くないという。一度見てみたいものである。その清和の人達がアイルランドで小泉八雲の「MUJINA」を演じようというのである。

やっとバスで駐機場まで来てみると、機内清掃中。おまけに、村の人たちが苦労して運んできた舞台用の屋台は行方不明であった。

ダブリンではちょっと早起きしてホテル近くの運河沿いに家内と散歩を楽しんだ。今では使用されていないもので、ドッグもきちんと保存されていた。いよいよ初演の日である。市内観光の後、夕方近くからチボリ劇場へ足を運んだ。300人を越える地元の人が集まっていた。何が演じられるのか、興奮気味の表情がみえた。美術家の東京の安達さんが中心になって急ぎ作られた屋台が舞台の袖に控えていた。出だしで歌った太夫の吉田さんのご当地ソング「庭の千草」が良かった。のっぺら坊の代わりに鬼女を使ったのも当たった。あの頭の方が外国人にはわかりやすかったと思う。この怪談には二度びっくりの仕掛けがあり、観客の反応から改めてその効果に気づかされた。短い時間であったが、初めての海外公演での堂々たる演技は大したもので、清和の皆さんは一流の国際人だ。文楽と八雲が取り持つ立派な国際交流であった。

公演の後、ダブリン・ラジオテレビ局のフィニー御夫妻が兼瀬村長以下を市内で一番古いパブへ招待してくださった。おふたりは今春熊本を訪ねていらっしゃる。この場を借りて、御好意にお礼申し上げたい。

翌日は中島団長御夫妻、小泉凡先生ら10名でパリからカリブ海に浮かぶ孤島、マルティニークへ7,000キロを8時間かけて飛んだ。八雲が1887年から2年ほど、ちょうど画家ゴーギャンがいた頃滞在したフランスの海外県である。傑作 「ユーマ」はこの地での見聞から生まれている。ここでの体験は別の機会に譲りたい。

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4 イベント 4-4 ハーン・ワークショップ

Lecture and Study in Cincinnati and New Orleans, July and August 2001

Alan Rosen

This summer I was honored to be asked to speak on Lafcadio Hearn at the Public Library of Cincinnati and Hamilton County in Cincinnati, Ohio, the city where roughly 130 years ago this lonely and very hungry, half-Greek half-Irish boy discovered his talent as a writer and consequently changed Japan.
For me, visiting Cincinnati was especially interesting since, although I had grown up in the United States, I had never been there before.
It was the first of many “firsts” for me on this brief (one-week) but very full lecture and study trip together with about 30 enthusiastic members of the Lafcadio Hearn Society of Japan.
Though I have known the Society’s president, Professor Zenimoto, and the Kumamoto Hearn Society members for years, I was fortunate to be able to make the new acquaintance of many Hearn lovers from various parts of Japan — from Shimane and Tokyo, of course, but also from Toyama and Yamaguchi.

The speech I presented was one hour long on the topic of my recent research, Hearn and Dreams.
The weather that day was quite hot and humid, but the Library’s lecture room was very cool and comfortable. This was good and bad, I realized, as the combination of jet-lag for the Japanese listeners (it was 4 a.m. Japan time), the topic (dreams), and the extraeffort required to comprehend an academic talk in English created a nearly irresistible temptation for the Japanese audience to fall asleep. Which many of them did. Still, it was a rare pleasure for me to be able to speak about Hearn in my mother tongue and in the city of Cincinnati, about which I had read so much through Hearn’s writings.
My only concern was that I try to speak slowly enough for the Japanese members to keep up, but not too slowly so as to bore the native-speaker listeners.

There were many surprises. The first such surprise was the luxuriousness of the hotel room I was given at the Garfield Suites: apent house suite, two floors, two very spacious bedrooms, three bathrooms, a big kitchen with everything you could want including a dishwasher, and two balconies from which to enjoy views of the city.
This hotel room was largerthan my house in Kumamoto. Everyone who saw it said, “Mottainai”. I owe thanks to Dr. Tanaka and his family and to Sylvia Metzinger, the Rare Books librarian, for arranging this and many other things so perfectly.
In Cincinnati we had a custom bus-tour of the city, focussing on places related to Hearn’s life and writings.
Many of the buildings and houses are,of course, no longer standing, so it was interesting to watch many members of our tour group –including me– taking numerous photographs of empty spaces and parking lots and buildings that no longer have anything to do with Hearn except that they may be standing in a spot where we think Hearn used to do something.
Still, it was exciting to be in the same places Hearn had been.

The group’s next visit was to New Orleans. It was my first time there, too. I was dreading the heat, for it is supposedly one of the hottest cities in the US. But compared with summer in Kumamoto, it was not so uncomfortable at all. There was usually a good breeze, a tolerable level of humidity, and once you were in the shade, it was quite pleasant.
I enjoyed nearly everything about the city, and I felt I knew why Hearn had decided to live there so long.
It had polite and friendly people, excellent food (cajun and creole), charming architecture (French Quarter), live music (cajun and dixieland), and a special Southern atmosphere (full moon over the Mississippi River, a steamboat gliding down).

Our visits to the Tulane University Library, with special permission to access their collection of rare Hearn materials, were especially fruitful.
There was an abundance of manuscripts and other material that is very hard, if not impossible, to find in Japan. The staff seemed prepared for our arrival, as they were extremely helpful, kind, and tolerant of our sometimes noisy group of 30 excited visiting researchers. I did not know when I could get another chance to visit Tulane, so I thought it best tospend the entire day looking through the materials and copying, copying, copying.
My suitcase got very heavy, but I am content that I can now spend time leisurely reading over the thick stack of Hearn papers I brought back to Japan.

It was also enjoyable to be part of a Japanese tour group, not in Japan, where I have joined such tours, but in my own country.
This was another first-time experience, and I learned a lot from watching the two cultures interacting.
I was reminded that knowing the language of a countryis only the first step in intercultural communication, and that all of us who participate in the fascinating activity of crossing cultures need to continue our efforts to understand and to be understood. Wherever we went,Hearn was with us in spirit, as we all tried to be cross-cultural bridges for understanding.