アイルランドと私 ~その魅力について~

久野啓介(熊本アイルランド協会副会長 宇土市史編纂委員長)

2006年(第8期)市民講座「ハーンを育んだアイルランドの風土と文化」(7回シリーズの第3回)

熊本市産業文化会館

第1話 把手のある風景
 私はこの7月まで熊本近代文学館に5年間勤め退職しました。その間皆様には大変お世話になり感謝しています。
 今日は「アイルランドと私 ~その魅力について~」と題して私的よもやま話を三題噺風にお話しします。

(1) アイルランドへ行こう
 平成14年9月発行の「ハーン通信」9号に「アイルランドへ行こう」という私的な文章を執筆しました。アイルランド訪問の直後に亡くなった熊本出身の女牧師さんのことを書いたものでした。アイルランド旅行の印象が大変強烈だったらしく、いただいた絵はがきに、アイルランドの魅力について「話しまくりたい」と熊本弁で書かれていました。結局その話は聞けず終いになり、気になって仕方なかった。今日はその話から始めたいと思います。

 林幸子さんは、旧制の熊本市立高女卒業後、結婚して満州へ行かれ、大病を患い数奇な運命に翻弄され、最後は信仰の道へ入って牧師になられた方です。父上の林一男氏は、熊日の前身「九州新聞」地方部長をされ、元・熊日社長の島田四郎氏が青年時代に林一家と親交がありました。「じゅったんぼ」という面白いエッセイ集を出しておられます。

 ではハーン通信の拙稿「アイルランドへ行こう」を読みます。(小泉八雲熊本旧居保存会発行「くまもとハーン通信」No.9より転載)
 「きょう、母が死にました」電話の声は唐突に告げてしばらく途切れた。
死因とされる脳出血に何の前触れもなかったのか、同居していた娘の荘子さんが外出先から帰宅したとき、すでにこと切れていたという。

 なんと言うことだ。あんな元気な便りをもらったばかりではないか。
 アイルランドの田園風景を絵はがきにしたもので、いかにも林さんらしい短い文章が添えられていた。
「アイルランドの風景のヨサヨサ。忘れることは出来ません。ハーンの育った家(大おばさんと)見ました。お会いすることあらば、話しまくりたいと思います」
 二日後、基督聖協団大宮教会牧師、林幸子師の告別式は、さいたま市内のホールで青梅教会浜野牧師の司式により執り行われた。(中略)

 最後に挨拶に立った喪主荘子さんの夫君の浅野氏が、「義母はアイルランド旅行の印象がよほど強烈だったのか、帰国後、この数日はいつになく口数が多くなっていました」と語った。(中略)
 「大病を患った三十代には夢想だにしなかったことだが」と言いながら、聖地エルサレムへの旅をはじめ、何度かの海外旅行も経験した彼女が、生涯の最後の旅にアイルランドを選んだのは、いかなる理由、経緯があったものか、詳しくは知らない。出発前、電話で「あーたがアイルランドはよかよかと言うから、私も行ってくることにしたよ」と、冗談のように語っていたが。

 昭和の初めに詩人丸山薫がまだ見ぬ国を想って、「汽車に乗って/あいるらんどのやうな田舎へ行かう/ひとびとが祭りの日傘をくるくるまはし/日が照りながら雨の降る/アイルランドのやうな・・・」と歌った、ケルトの地アイルランドの田舎には、つい最近まで古代・中世の妖精信仰が息づいていたという。人間と動植物、妖精や妖怪までもが入り乱れて暮らしていた、“失われた世界”がいまに名残を残す、そんな雰囲気がある。

 信仰を持たぬ私には、神学上の論議や信仰者の心の問題は分からないが、なぜか林さんのキャラクターには他の宗教者とは少し違うところがあるように思えて仕方がなかった。その精神には融通無碍なとでもいいたい、独特の自由さがあると感じられた。それが八十四歳にしてなお幼子のごとき林さんの魂を、アイルランドへ呼び寄せたのではないかと思えてくるのだった。(後略=以上転載)

 彼女にアイルランド行きを勧めたのは確かに私です。私はハーンの足跡訪ねがきっかけで、三度アイルランドを訪問しすっかりアイルランド大好き人間になりました。例の清和文楽アイルランド公演の言い出し兵衛も私ですが、それにしても「アイルランドの風景のヨサヨサ。忘れることはできません」と、これほどストレートに言い切ったのはさすが林さん、それだけにその話を聞きたかったと思います。

(2) 風景は幻を見せる
 アイルランドの風景が独特の魅力をもっていることは、誰しも認めるところだと思います。独特の風景を作り出している要素の一つは色です。ご存じのようにアイルランドのナショナルカラーは緑色で、セントパトリックの日には緑衣で街は緑一色になります。元々アイルランドの田舎の草原の緑で、緑一色の景色の中に、白壁の家ぽつんぽつんと建っている田舎の風景は、まるでおとぎ話の中の世界です。

 それと共に、最初の訪問の際に見たヒースの原の印象が圧倒的でした。このときはロンドンからまずイングランド北部の学園都市ダラムへ行き、ハーンが学んだセント・カスバート校(神学校)を訪ねました。ダラムはエミリー・ブロンテの「嵐が丘」の舞台ヨークシャーの隣です。同行した妻が女学生時代に見た映画の場面で、主人公キャサリンが恋人のヒースクリフに向かって、「ヒースの花をたくさん摘んできてちょうだい」と言う場面があって、それを生徒達が休み時間に真似をしていたと聞きました。小説にはそんな場面はないのですが、ヒースの荒野が小説の重要な要素となっていることは間違いなさそうです。阿部知二の文庫版解説に、作者エミリー・ブロンテ自身大層ヒースを好んだこと、エミリーの最期の日、姉のシャーロットがヒースの花を摘んできてエミリーの目の前にかざしたが見ることが出来なかったというエピソードも書かれています。そのヒースの野が見えるかも知れないと期待をしていましたが、残念ながら季節はずれで見ることが出来ませんでした。

 ところが三日後、アルバムによると9月25日、アイルランドのダブリン郊外ウイックローの丘へ行く途中、全山見渡す限りヒースの原に遭遇しました。ちょっと盛りを過ぎていましたが、それでも赤紫の何とも言えない幻想的な色彩の、魂が吸い込まれるような不思議な光景に魅了されました。そういう丘や原をヒース、ヘザ、ムアと言い、荒地、荒野と訳されております。荒れ地の小潅木もヒース、ヘザと言い、日本では学名でエリカと言います。以来アイルランドと言うと私はあのヒースの原を思い出し、連想は「嵐が丘」に及んで行きます。

 嵐が丘の舞台はスコットランドとの国境に近いイングランドのヨークシャーです。しかしブロンテ姉妹の父はアイルランドの農村出身で苦学して牧師になった人です。阿部知二は文庫本のまえがきで「そのアイルランドの血が姉妹の想像力の豊かさに関係あると考えるものもある」と書いており、私もそう考える一人です。

 「嵐が丘」についてはいろんな解釈があり、熊大におられた西成彦氏はクレオール文学の流れの中で読み直しを提起しておられます。つまりヒースクリフを英植民地主義が生み出した逃亡奴隷(マルーン)の先駆的形態とする刺激的論考(「耳の悦楽」)を展開しておられます。私は風景論としても、作品世界や登場人物の性格についてアイルランド的な特性に注目したい気がします。後述のように、風景は人間の精神に世代を超えて大きく作用すると考えるからです。

 二度目のアイルランドの旅では西の端のアラン島へ行きました。見渡す限り荒涼たる石の原、それに断崖絶壁です。島には特産のアランセーターを売る店があり、手編みの文様で作った家が分り、遭難者の身元識別にも役立つと言われます。過酷でしかも壮絶な美観と言うほかない景色でした。

 ただならぬ雰囲気を盛り上げるのが非常に変りやすい気象です。「アイルランド人はアイルランドのお天気のように気が変る」という諺があるそうですが、実際に行きますと現実に体験出来ます。アラン島へ行く時は、ゴールウェーで一泊して翌朝島へ渡りましたが、訪問前夜の夜半に目が覚めると激しい雨風の嵐でした。朝になっても雨は降っています。それでも大丈夫と言うことで出発し、バスの中でも降っていたが、波止場では小降りになり、船中でだんだん晴れ間が出てきて、島に行ったらもう晴れ。昨夜の嵐が嘘のようでした。

 そういう体験から思いますのは、風景は単なる美醜ではない、目の保養などではないということです。魂に直接訴えてくるものがあります。風景画家は何を見ているかと言うと、ただ山や川や、色や形をのみ見ているのではない。一言でいうと、「風景は幻をみさせる」と思います。視覚的な眺めは精神の奥深く作用する、慰撫であると同時に呪縛であると考えます。

 私はそれを「把手のある風景」と呼んでおります。風景に把手が付いていて把手を引き開ければ幻が見える。いたるところに把手があるのがアイルランドの風景ではないかと思います。しかもそこで見える幻は個人的幻想ではなく、いわゆる「共同幻想」ではないか、共同であるが故に世代を超えて受け継がれていくこともあるのではないかと思います。

(3) 「アイルランド田舎物語」の世界
 司馬遼太郎の「街道を行く」シリーズの「愛蘭土紀行」に、田舎道を通っていたら「レプラコーン・クロッシング」の標識があったという記述があります。レプラコーンつまり妖精(靴直しをする小人)が道路を横断中という意味です。アイルランドならではのジョークでしょうが、つい先頃までフェアリービリーフ(妖精信仰)が生きていたその名残だと司馬さんは書いています。

 それをなるほどと思い知らされたのがアリス・テーラーの「アイルランド田舎物語」という本でした。1988年刊ですから18年前の発行です。アイルランド出版史上空前のベストセラーになった本です。日本語版は1994年に出版され、熊本日愛協会では訳者の高橋豊子さんを呼んで話を聞いたことがあります。
 アリス・テーラーさんは1938年生れの主婦作家です。原題は「牧場を通って学校へ―アイルランドの田舎のこども時代」で、帯に「小さな村の自然と神が間近な静かな暮らし」と書いてあります。第二次大戦から終戦直後のアイルランド南部の牧場の大家族の生活を描いたものでした。

 農場を経営して、自然を心から愛している父親と、信心深く面倒見のよい母親と、7人兄弟姉妹と隣人たちが登場人物で、その何でもない日常の出来事を描いています。
 例えば、一家が密猟のサケを貰いますと、父親は皆の前で腹を裂き、溢れてこぼれる卵を見せて、一匹のサケを殺せばこれだけのサケが失われるのだと命の大切さと自然のバランスの大切さを教えるのです。「親が3人いるようなものだった」という、本当に家族同然のビルおじさんの死んだ時のこととか、服は全部母親の手作りであること、放課後2時間もかかって帰宅する途中の学校の楽しさ、ダンスパーティの夜、自分の自転車がパンクしたので他人の自転車を拝借して彼女を家まで送ったため、窃盗罪に問われ6ヶ月投獄された青年を村人が温かく迎え入れる話等々。要するに近代法以前の世界に住む村人たちの暮らしが書いてあるわけです。

 何でもない話が空前のストセラーになった理由は、それほどアイルランドの国民は失われた世界へ強い郷愁を抱いていたと言うことです。前近代、中世の世界に近いような世界が地球上に最後に残っていたのがアイルランドだと思います。

 「アイルランド地誌」には12世紀、ギラルドゥス・カンブレンシス司祭がアイルランド各地を歩いて収集した話を書いております。ケルト綺譚というか、人語を話す狼、ひげが生え背中にたてがみのある女、手首足首が牛の人間など出てきます。
 こういう話は昔は世界中何処にでもありました。日本でも例えば「肥後国誌」を読んでみますと、室町時代の連歌師宗祗が肥後に来た話に「西国紀行に云う。網田の海辺にて清らかなる男の潮の上に座して、酒を飲むを見る。宗祗怪しんで里人に問えば、伊津奈の法(妖術使い)を行う者なりと云う」とあります。更に「三角の浦を通る時、磯の岩に蛇がいて尾で潮を叩いている。怪しんで里人に問えば、蛇の化して蛸となったもの、9本足の蛸は毒があると答えた」とあります。洋の東西を問わず昔は人も自然も妖怪も入り乱れて暮らしていた。失われた世界の物語が地誌だろうと思います。

 アイルランドでも既に失われた訳です。ただ失いはしたけれど、まだそう遠くではなく、その残り香が近年まで残っていたのがアイルランドであり、それがアイルランドと付き合う楽しさの一つになっております。そこで熊本でそういう前近代的な雰囲気、文化を残しているところはどこかと考えたとき、ふっと清和村を思い出し、清和文楽による物語文化交流ということを言い出したわけです。
 中島日愛協会会長夫妻と清和村へ出かけていき、当時の村長と兼瀬文楽館長に提案しましたが、ほとんど取り合ってもらえませんでした。言い出し兵衛の自分自身、実現するとは思っていませんでしたが、数年後、文楽館長の兼瀬さんが村長になり「あの時の話はまだ生きとりますか」となり、思いがけないアイルランド公演が実現したのです。

第2話 侵略と抵抗の歴史
(4) 異民族支配の受難史
 こういう夢のような話は何となくアイルランドに似つかわしいのですが、この「夢の国」が気になるもう一つの理由は、その現実の歴史にあります。
 アイルランドと日本はユーラシア大陸の西端と東端にある小さな島国同士、最も遠い国の一つと言って良いと思います。なのになぜか気になるのです、なぜなのか。そこには非常に過酷な被支配の歴史が今もかいまも見られるからではないかと思います。

 アイルランドという国名は現存する世界でも最も古い国名の一つです。地名の起こりはアイルランドへやってきた地中海人種イベリア人、アイルランドではイブ=エルニ(エールの末裔の意味)と言われ豊穣の女神を意味する「高貴なる者」、このエールEireに後でランドがつき、エールランド、その後、Eがなくなって、Irelandになったそうです。
 その後、紀元前4世紀に別人種のケルト人が来て、鉄器文化をもたらし、これがケルト文化の基になっている訳です。

 降って紀元前55年、ローマ帝国のカエサルがブリテン島へ上陸します。以後400年英国はローマの支配を受けるのですが、ローマ軍は征服するには値しないと思ったのかアイルランドを目前に反転する訳です。アイルランドはヨーロッパでローマの直接支配を免れた数少ない国になり、その後小王国が分立しタラに上王国が出来ました。ローマ領ブリテンへの逆侵攻もありますが、その辺りは圧倒的な中国文明の影響下にありながら、一度も大国中国の武力侵略、直接支配を受けなかった日本と似ているようです。その後の歴史は大違いですが。
 8世紀になりますと、スカンジナビア系民族のヴァイキングの侵攻が起こり、いわゆる異民族支配の受難史が始まります。

 12世紀以降、隣国英国からの征服が本格化して、様々な植民地差別政策が打ち出されて来る。これに対する「トーリー」と呼ぶゲリラ的反抗が始まります。仇討ちする者「トリド」が英語化したのだそうです。
 アイルランド史を繙くとき、しばしばわれわれの歴史認識に逆転現象が起こることに驚かされます。例えば1585年、エドモンド・スペンサーがエリザベス女王に「焦土化政策」を献策し、英国総督が断行し、そのために南西部マンスターは惨憺たる状況になったということがあります。このエドモンド・スペンサーは英文学史上最大級の詩人と言われる人で、「妖精の女王」の作者です。和田勇一先生ら熊大スペンサー研究会が翻訳をしてエリザベス女王から感謝状をもらいました。「愛の詩人」と呼ばれ、私も結婚式のスピーチでその詩を何回か引用したことがあります。このスペンサーがアイルランドでは大の悪役なのには驚きました。

 オリバー・クロムウエルは高校の世界史では清教徒革命の英雄として習いましたが、アイルランド総督として、まさに苛斂誅求を極めた男としてアイルランドでは記憶されております。1649年、8年前に入植者多数が現地住民に殺害された報復として、10ヶ月にわたって戦火で全土を荒廃させ、60万人のアイルランド人と英国系アイルランド人を殺害した。これをドロエダの大虐殺と言うそうです。アイルランドの総人口100万人以下になったということで、アイルランドの歴史の中では極悪非道の大悪人となっています。これもアイルランドと付き合ううちのショックでした。

 英国とアイルランド、隣国同士の関係は支配・被支配の歴史の帰結として、1801年英国のアイルランド併合となるわけです。日本が韓国を併合するのが1910(明治43)年ですのでその109年前です。
 以来アイルランドの19、20世紀は長く暗い独立闘争の時代となります。そこに登場する実戦部隊が名高きIRA(アイリッシュ・リパブリカン・アーミー)アイルランド共和国軍です。

(5) 雑誌「ネイション」と徳富蘇峰
 そういう歴史に対し日本及び日本人はどう反応したか。江戸時代はともかく、明治以降、たしかに一部の人々の関心事でした。司馬遼太郎は「明治以後、アイルランドが日本人のさまざまな閉塞を晴らす呪文のような役割を果たしてきた」と書いています。

 さまざまな閉塞とは時代のテーマを反映しているのですが、藩閥政府の民権弾圧、小作争議、軍部の独走による閉塞感などなどがあります。歴史上、日本におけるアイルランド問題は、おおむね三度浮上したといわれております。一つは明治十年代の自由民権運動の時代、二つ目が昭和7~10年の米騒動、三つ目が大正8年の朝鮮3.1独立運動です。この時は20万人の反日デモがあり、7,500人が死亡しています。
 その第一の自由民権運動の時代に、アイルランドの動きに関心を寄せて、そこから学ぼうとした日本人の一人が徳富蘇峰であります。

 19世紀前半はアイルランドでは「オコンネルの時代」と呼ばれております。日本では文化文政から天保時代の幕末時代にあたりますが、一世を風靡した政治家にオコンネルと言う人がいました。この人はいわゆるイギリスのアイルランド併合法の撤廃を叫んでリピール(廃止)協会を設立し、アイルランドの聖地であるタラの丘でカトリック大衆を動員してモンスターミーティングと呼ばれる50万人から75万人の集会を開きました。その後、ダブリン市長となり、オコンネル通りに銅像が立っております。

 このオコンネルを懸命に支援したのが「青年アイルランド」党であり、1842年に創刊した抵抗のための週刊誌が「ネイション」です。リーダーはトーマス・デイビスという人でした。「ネイション」は1848年まで発行、その後再刊されとくにアメリカやオーストラリアの移住者に影響力を持ちました。このアメリカ版「ネイション」を蘇峰が愛読し、重大な感化を受けたのです。「蘇峰自伝」にそのことを三ヶ所にわたって書いています。

 その一つは明治15~19年に大江義塾を開いていた時に京都の同志社教授ラーネットに教えられて米国の雑誌「ネイション」「ライブラリー・マガジン」を購読したと言っています。「ネイション」は当時最盛期で「特別寄書」をとくに愛読していました。そこにはブライス、ダイシ、その他英、仏の大家の寄稿や新聞の社説、評論などが掲載され、その卓越した論理に大いに感銘を受けたそうです。

 その次には明治20年の「国民之友」創刊のくだりで「少壮以来米国の「The Nation」雑誌を愛読し、ネイションという字が頭の中に刻みつけられていたから」国民之友という名称を付けたとあります。それから社名の「民友社」も「国民之友」より二字抽出してつけた。国友とせず民友としたのは「当時、平民主義を主張し、人民の味方を以て自ら任じていたからである」。この国民之友では「ネイション」のスペシャル・コレスポンデンスを「特別寄書」と訳して、諸大家の寄稿を掲載するなど、非常に「ネイション」に依っておったと書いております。

 その三つ目は明治23年「国民新聞」を創刊したとき。「国民之友」の国民なる字をそのまま使用し、特に注目すべきは米ニューヨークにおける雑誌「ネイション」と新聞「イブニング・ポスト」の関係の如く、両者併立することを考えた。また新聞のおよぶ範囲を出来るだけ広くし、人間の生活、思想のあらゆる方面に新領土を開拓した。その中には政治だけでなく社会改良、文芸改良、宗教の改良などを取り入れたと熱っぽく書いております。平民主義を唱えた蘇峰が後年国家主義へ傾いて、「変節漢」呼ばわりされたことは皮肉としかいいようがありませんが、「国民之友」、「国民新聞」と「ネイション」の関係は知れば感慨深いものがあります。

(6) 丸山薫のアイルランドと朝鮮
 日本におけるアイルランド・ブームの第三期にあたる朝鮮独立問題に深い関心を寄せたのが、熊本ゆかりの詩人、「汽車にのって」の丸山薫です。

 汽車に乗って/あいるらんどのやうな田舎へ行かう/ひとびとが祭の日傘をくるくるまはし/日が照りながら雨のふる/あいるらんどのやうな田舎へ行かう/窓に映った自分の顔を道づれにして/湖水をわたり 隧道をくぐり/珍しい顔の少女や牛の歩いてゐる/あいるらんどのやうな田舎へ行かう

 この詩は昭和2年、東大の学生時代、「椎の木」誌に発表し、昭和10年詩集「幼年」に収録されております。大正、昭和初期の文壇のモダニズム流行と無関係でないと言われていますが丸山のアイルランドへの関心は、実は朝鮮問題とより深く結びついていました。

 「丸山薫全集」(全5巻)で履歴を調べてみますと、父重俊は安政2年(1855)熊本城下に生まれ、藩校時習館から熊本洋学校へ進み、明治9年ごろ東京遊学を命じられました。その後、内務省警察局に勤務し、各地を転勤。大分県警察部長のとき薫誕生。長崎、東京、京城、東京、松江、東京、豊橋など転々とし、明治38年、韓国治安顧問、39年には伊藤博文初代統監のもとで、朝鮮総督府警視総監になります。

 この辺のことは松本清張の小説「統監」にあります。伊藤博文が統監として韓国へ乗り込み、韓国併合を準備したときのことを、芸者光香の目で書いたものですが、「警察顧問の丸山」は実名で登場し、市内警備、暴動鎮圧、活動家の逮捕などに活躍しています。

 父親の朝鮮赴任時代のことは丸山自身、「私の明治」に書いております。それによると朝鮮風煉瓦造りの洋館で幼稚園から小学3年まで暮らしており、明治45年初夏、小2のとき統監官邸に招待されたことも書いています。
 「私の心を暗くしたものは、日本人の大人たちのこの国の民衆に対する態度だった。私は至るところで、日本からの出稼ぎ労働者やたちの良くない商売人たちが、この国の人間を見下げ、酷使し、時には手痛い目にあわせるのを見た」と書いております。

 散文詩「朝鮮」では、魔物に追われる姫が身につけたものを一つずつ投げて逃げる。最後の薄物を投げると、水になり洪水になる。書いたのは昭和11年ごろで、朝鮮の古い民話に潤色して、日本帝国主義と被圧迫国の運命を暗喩した、と書いております。

 父は明治44年5月25日腎臓病で57歳で死去。十数年後、父を反面教師として朝鮮問題を考え、アイルランドの詩を書いたのではないでしょうか。

 蘇峰の場合はやや判官贔屓的なアイルランド応援団という感じですが、丸山の場合は朝鮮の民衆に対して日本人、特に警察官僚の父は弾圧者の側にいることを認識しています。彼自身はそれをよしとしないわけですが、屈折した思いがあのような詩を書かせたのではないでしょうか。

 ところでアイルランド側から見た日本はどうだったか。近現代史上、日本に対するアイルランド側の対応は必ずしも一様ではありせんでした。例えば、昭和7年(1932)11月、国際連盟理事会は満州事変に関するリットン報告書を審議しております。議長を務めたアイルランドのデ・バレラ首相は日本の政策を厳しく批判し、激怒した日本代表松岡洋右は連盟を脱退、日本は危険な曲がり角を曲ったわけです。

 一方、アイルランドは第二次大戦には最後まで中立を守り、再三参戦を求めるチャーチル首相に、デ・バレラ首相は「仏が独に降伏後、米参戦まで英国がひとりで戦ったことを誇りにしているが、1~3年ではなく数百年侵略と戦っている小国があることを認める寛大な気持ちはないのだろうか」と痛烈に皮肉っております。遂に参戦せず中立を守りました。そのことが今日日ア両国の浅からぬ友好の一因ともなっております。

第3話 怨念と祈り
(7) 音楽と文学の国
 アイルランドの魅力は何かという本題に返ります、風景、歴史に続いて、現代のアイルランド人の心の中にあるものに触れないわけにはいきません。思い出すのは二度目のアイルランド訪問時、ダブリンでロックバンドU2フィーバーに遭遇したことです。一晩中若者が騒いでいました。ことし4月4日に横浜の日産スタジアムで予定されていたU2公演はメンバーの一人の家族が病気し看病のため延期となったそうですが、それを報ずる記事に「U2は今年2月、米グラミー賞で最多の5部門受賞。日本公演の約6万枚チケットは完売」とありました。日本でも大変な人気なのですね。

 私はU2は聞いたことがありませんがエンヤは大好きで癒されます。60年代に一世を風靡したビートルズ発祥の地はイングランドの港町リバプールですが、メンバー4人のうち3人はアイルランド出身者だそうです。

 第一回目のアイルランド訪問の時、ローナン愛日協会長(元駐日大使)の案内で伝統音楽のパブへ案内され、少女のアイリッシュダンスを見ました。上半身は全く不動で、ストイックなタップダンスだなと思いましたが、後日、リバーダンスを映画で見て、その奔放な迫力に圧倒されました。

 アイルランド歌曲は明治以降、日本でも愛唱されていますが、例えば「夏の最後のバラ Last Rose of Summer」は「庭の千草」として愛唱されてきました。音楽先進国アイルランドにそれと知らず惹かれ親しんでいた日本人は多いのではないでしょうか。
 一方アイルランドは文学大国です。ハーンは申すまでもなく、ジョナサン・スウィフト、イエーツ、バーナード・ショウ、オスカー・ワイルド、ジェームズ・ジョイス、近くはシェイマス・ヒーニー等々錚錚たる顔ぶれで、ノーベル文学賞作家も続々と誕生しています。

 そこで2001年、マルティニークの空港で小泉凡氏から聞いた話を一つ。3年前(1998年)松江を訪れた大江健三郎氏がした話だそうです。大江氏は1994年にノーベル文学賞を受賞したが、その2年前の1992年にはマルティニークの隣島セントルイスの詩人デレク・ウォルコットがノーベル賞を貰い、1995年には北アイルランドの詩人シェイマス・ヒーニーが受賞している。クレオール、日本、ケルトといずれもハーンの貴重な異文化体験の地の人が連続して受賞している。そこに今世界の注目が集まっていることが意味がある。考えてみるにこの三つの場所は、19~20世紀においては世界の周辺部だった。20世紀文明の人間中心、物質文明主義に対する反省から、いま周辺部の共存・共生的生き方に注目が集まっているのではないかと大江氏は言っているわけです。

(8) ヒギンズの小説世界とIRA
 最後にもう一つのアイルランド文学の話です。エンターテインメントの傑作といわれるジャツク・ヒギンズの冒険小説について述べたいと思います。ヒギンズは映画「鷲は舞い降りた(The Eagle has Landed)」の原作者です。ドイツ軍のチャーチル誘拐計画を題材にしたものです。
 本名ヘンリー・パタースン、1929年7月27日生まれで、間もなく77歳、我々の同時代人です。イングランド北部のニューカッスル・アポン・タイン生まれで、幼年時代は北アイルランドのベルファストに住み、イギリスとアイルランド双方の市民権を保有している英国作家でアイルランド作家です。生まれ育ちだけでなく作品内容からもそれは言えるのではないでしょうか。

 15歳の時ロンドンに出て、転々と職を変え、第二次大戦に従軍し、大学の歴史教師を経て専業作家になりました。第二次大戦やアイルランド紛争を題材にした冒険小説があり、複数のペンネームで執筆。1975年「鷲は舞い降りた」の大ヒット以後、ヒギンズ名義で書いています。1991年長編50作を記念して続編「鷲は飛び立った(The Eagle has Flown)」を執筆。ハヤカワ文庫に20冊ほど入っています。

 第二次大戦のエピソード(架空も)とともに、アイルランド紛争にからむテロリストを主人公にした作品が多い。テロを賞賛することはないが、テロリストは単なる悪人としてではなく、運命に翻弄され、暗い影をもった孤高の人物として人間的側面を魅力的に描き出しています。

 アイルランドものの代表作、「死にゆく者への祈り(A Prayer for the Dying)」(1973年刊)は「鷲は舞い降りた」の2年前の作品。ハヤカワ・ミステリ・マガジンの作家アンケートで「自作の中で一番好きな作品」にあげています。IRAの主人公マーティン・ファロンを自分のペンネームにしていたこともあります。
 あらすじは元IRA将校(中尉)が海外逃亡のためパスポートと切符を得るために、暗黒街のボスと取引し、ボスの敵役を墓地で暗殺する。ところが現場をダコスタ神父に見られたことから、命を狙われる神父を庇うため依頼主のボス一味と対決します。神父の盲目の姪・教会のオルガン奏者の女性が絡んできます。

 作品の魅力は一に懸かって登場人物の描き方にあります。とりわけ主人公のマーチン・ファロンの人物像が大変面白い。身長が5フィート4,5インチ(162~5センチ)の暗い感じの小男。ジームズ・ボンドとは大違いです。ところが大学出で、頭がよく、かっては詩人、頭の中からあらゆるものが湧き出してくるようにみえるときもあります。特技は天才的な射撃と、ピアノ(オルガン)の名手。教育を受けた男の穏やかな声、「アイルランド人独特の魅力」をもった男だが、ときに無表情、無反応、冷たくて暗い人間になります。なぜなら過去を持つ男で、IRAの闘士だった頃、装甲車を待ち伏せして仕掛けた地雷に、12人乗りのスクールバスが突っ込み、5人が死亡し沢山の子供がかたわになったということで、警視庁、軍情報部、昔の仲間のIRAにも追われる身になっているという設定です。

 スクールバス事件を「あれは事故だった」と弁解しますが、許されないことは本人自身が知っています。要するに正直で誇り高く、一見もの静かな一人の男の心の中に渦巻いている夢と理想、愛と正義、そして怒り、後悔、怨念、絶望等々の感情。複雑で魅力的な人物像が造形されています。そこに「アイルランド人独特の魅力」という言葉が使われていることに注目したいと思います。

 筋書きのなかでキーワードになっているのがカトリックの「告解」の絶対秘守です。神父は絶対に漏らしてはならないことを逆手にとって、自分が犯した罪を神父に告白することで、神父の口を封じます。それが成立するのは宗教的掟、信念が近代的な法体制に優先する世界であるからです。先に述べたアイルランド田舎物語の前近代的な世界とつながっているともいえるかもしれません。

 最後の決着は死しかありません。ギャングが教会に仕掛けた爆弾で、ギャング一味は死に、主人公も崩れた祭壇と十字架のキリスト像の下敷きとなって(十字架を背負って)死にます。その男の魂のために神父が最後の「痛悔の祈り」を捧げます。痛悔とは penance カトリックで信者が神に対して有意的、意図的に罪を犯した場合、その許しを得る為の手続き、悔悛の秘蹟(サクラメント)です。この「祈り」が「死に行くものへの祈り」というタイトルになっているわけです。「男の魂のために」祈ると書いてありますが、このバックには霊魂の不滅、一度死んで復活の願いがあると思います。主人公一人でなくテロリスト、IRA、アイルランドの悲劇の歴史からの復活をかけた黙示録が仕組まれていると思います。

【アイルランド紛争小史】
・1919 独立宣言。1922年、アイルランド島32州のうち北部6州を除く26州自治領
・1937 英連邦内共和国として独立。以後、北アイルランド紛争の時代に
・1973 IRA英本土でテロ開始。25年間にテロ9000件、3170人死亡、2万6000人負傷
・1998 20世紀終わり近く、包括和平合意。以来一進一退しながら、和平への歩み
・1998 北アイルランド議会発足
・1999 北アイルランド自治政府発足
・2001 IRA一次武装解除、2002二次、2003三次、2005終結宣言、国際委員会も完了発表
・2006.3.8 和平監視独立委員会の最新報告書、IRAにもはや「テロの驚異はない」との見解を示した

アイルランドとアメリカ

中島最吉(熊本アイルランド協会会長、祟城大学副学長)
2005年(第7期)市民講座「アイルランドの社会と文化」(5回シリーズの第5回)
熊本市産業文化会館

はじめに
 今日は「アイルランドとアメリカ」ということで、「風と共に去りぬ」の原作と映画にアイルランドがどういう形で絡んでくるかと、スタインベックの「エデンの東」でアイルランドのケルト的な影響が、作品の中にどのように出ているかをお話します。

 まず最初に、タラという土地について、「古くからケルト民族の間で、最も神聖な地とされてきた。ことに3世紀最初のハイキング(部族の上にたつ王様)・コーマックが全島の首都と定めたことで有名。7世紀半ばまでこの丘は、政治・宗教・文化の中心であった。タラとは諸王の聖所の意味である」と『アイルランド概説』(アイルランド政府観光庁発行)にあります。『風と共に去りぬ』の大農園があるところがタラです。映画でもタラというのが何回も出てきます。最後は主人公のスカーレット・オハラが二人の男性との恋に破れて、「明日はタラに帰って考えよう。明日は明日の日が昇るではないか」という所で小説は終っています。全編“プランテーション・タラ”というのが住まいのあるところで、それを南北戦争の始まる年から終ったあとの年まで。年数で言うと、1861年の4月が小説の最初にでてきて、そして65年に4年間かけて終りますが、そのあとの66年のあたりまで描いたのが小説です。小説は1000ページにいたる大作です。

 私が最初にタラというのに惹かれたのは、熊本大学と熊本学園大学とアメリカの交流を結んでおります所からタラという女の子が来ました。ほかを調べてみると、タラという名の女の子の名前はかなりあるようです。まず『風と共に去りぬ』の大農園のある場所がタラということを申しあげます。著者マーガレット・ミッチェルのことを最初に少し申します。

『風と共に去りぬ』
 ちょうど20世紀に入った1900(明治33)年生れで、49歳で亡くなっております。父親はジョージア州というずっと南の方のアトランタで弁護士をしていました。25歳の時に結婚、その翌年に足に大怪我をして、あまり出歩かれなくなったのでずっとうちに引きこもり10年かけて書いた小説が「風と共に去りぬ」で、あとは書いておりません。この1冊だけですがべらぼうに売れたのです。出版されたのが1936年、スペインの内乱が始まった年です。20年代の後半から、アメリカは非常に左翼文学が盛んな時代です。一番世の中で目立ったのが自動車の生産と映画です。映画は20年代後半から30年代が全盛期でした。29年末の大恐慌があるのに、どうして盛んだったかと言いますと、もの珍しさと映画でも見ないとやりきれないからだそうです。その30年代の最後の1939年に映画が出来ております。先祖はアイルランド出身のマーガレット・ミッチェルは最初は医学をやろうとスミス・カレッジに入りますが、すぐに母親が亡くなり大学を辞めて地元のアトランタに帰ります。そして、「アトランティック・マンスリー」という雑誌社にずっと勤めます。その時同僚スタッフの中に、アスキン・コールドウェルという作家がいて小説を書く心境になったそうです。

 小説の前にちょっと申し上げますと、映画の方は皆さんご存知のように、クラーク・ゲイブルとヴィヴィアン・リーがでまして、製作はデービッド・G・セルズニック、監督はビクター・フレミングで、アカデミー賞を全部とりました。アカデミー作品賞、監督賞、主演女優賞、もちろんヴィヴィアン・リーですが、助演女優賞はハティ・マクダニエル、脚色賞、脚本賞、美術賞、編集賞、色彩撮影賞、つまりテクニカラーの始まりですから、特に色彩撮影賞がありました。それに製作賞、特別賞ということで製作企画に対しても賞をもらっています。制作費はその当時600万ドルであったということです。

 映画のほうは簡単に言いますと、スカーレットという女性は、アシュレーという男を愛していますが、彼は従姉妹のメラニーという女性と結婚します。それで勝気なスカーレットはメラニーの兄と結婚しますが、彼は戦死してしまいます。妹のフィアンセと結婚しますが、彼も亡くなってしまいます。そして南北戦争の最中ですから、その中をたくましく生きていく野性的な男としてレッド・バトラーというのが出てきます。ご記憶にあると思いますがクラーク・ゲイブルです。バトラーの強引なやり方と言ってもいい愛情にひきずられて結婚しますが、結局最初のアシュレーへの思いが断ち切れないままにバトラーとの結婚生活もうまくいきません。破綻してバトラーが去っていくというところで、小説は終ります。この自分の家をモデルにしたと思いますが、新潮文庫の訳で一番最初の書き出しのところをご紹介します。

 「スカーレット・オハラ」は美人というのではなかったが、双子のカールトン兄弟がそうだったように、ひとたび彼女の魅力に捕らえられると、そんなことは気にするものはほとんどいなかった。その顔には(ここからが彼女の出生を書いてあります)フランス系の貴族の出である母親の優雅な顔立ちとアイルランド人である父親の赤ら顔の肉の厚い線とが目立ちすぎるほど入り混じっていた。」という文章で小説は始まっています。明らかに父親はアイルランド出身であり、農園の名前もタラと付けていることがわかります。それから10数ページたった所にこういう記述が出てきます。父親のことですが。「彼はアメリカに移住してからすでに39年にもなるのに、言葉はまだ生まれ故郷のアイルランドの訛りが強く残っていた」というふうにはっきり父親の出がアイルランドで、39年前に移住してきたことが書いてあります。

 何でこの小説が人気を取ったか。南北戦争は長くて大変なもので、最初はリー将軍が率いる南軍の方が優勢です。最初の1年ちょっとの間は、殆どの戦いで勝利し、グラント将軍率いる北軍を圧倒します。そのあとどんどん押し返され、最後に両将軍が手を打って南軍の方は敗戦を認めるというかたちになります。この小説に北と南という構図がいっぱい出てきます。バトラーが自分の子供を北部の人間とは絶対結婚させないとか言ったり、色々なところで北と南という意識があります。

南北戦争
 ちょっと中断して申しあげたいのは、アメリカの歴史を考える時に歴史で教わったのは、1620年にメイフラワー号でニューイングランドに移民がやってきたということを強く教わります。その10数年前にイギリスから南部の方に移民したという話はあまり出ておりません。それを頭の中に入れておかないと南北戦争はわからないと思います。こちらは政府の出先機関です。新大陸に政府の出先機関、要するに植民地化するための出先として政府の関係者が移民して来ました。お役人がちゃんと引率して希望者を連れてきたわけです。だからバージニア州のいま海に沈んでおります海岸の町に、当時のジェームズ1世の名前をとってジェームズタウンという名をつけます。私は行ってみましたがどこにありません。侵食の関係で海の中になっています。海岸から何マイルか離れた所になってしまっており、そこにこの名前をとって街づくりをしました。そこの人たちは政府の役人の代表を頼っていろんな人が入ってくる。そうするとその人たちはロンドンのことばかり気にして、いつロンドンに帰れるだろうかとか、ロンドンの雑誌をとったり、ロンドンのファッションはどうだろうと奥さんたちは考えているような町でありました。それが今のバージニア州のリッチモンドは首都ですけれども、その海側のところに拠点がある。それがドンドン、ドンドン南下していって、奴隷を使って大農園を作り上げていったというのが南部の成り立ちです。

 北の方に来た人たちは、ヨーロッパの各地から来た人はちろんアイルランドからもたくさん行きましたが、きっかけは自分のいるところで貧乏な暮らしをするよりは少々危険はあっても新大陸でチャレンジをしようというのが大きな原因でした。それともう一つは、国王がローマカトリック教会と縁を切って英国国教会というものをつくりました。これはカトリックでなく、カンタベリー僧正が宗教家の一番上で、その上に国王がいるという形です。そんなに勝手に宗教を変えられてたまるかという、特にアイルランドなんかはそういう気持ちが強かったと思います。それと貧乏のためにどんどんアメリカに渡って行った訳です。それが要するにメイフラワー号です。メイフラワー号で行った人たちは、まず貧乏だということがあるわけです。それから反政府です、元々北の方に反政府派の人たちがいて、南の方に政府派の人たちがいたということを頭に入れていただきます。これが17世紀の前半です。大雑把なことを言いますと、18世紀の後半にアメリカが独立宣言をします。まだ本当に独立したとはいえませんが独立宣言をします。それも東の方の13州だけで独立宣言したわけですから、中西部から西の方は全然関係ないわけです。それがドンドンふえていきます。一時はボストンあたりの周辺ニューイングランドあたりは人が溢れるほどいるわけです。年表を見ていただきますとわかりますが、1845年~49年大飢饉、じゃがいも飢饉といいますが。この49年頃にカリフォルニアで金鉱が見つかった、金がとれるといううわさが流れます。西部劇によくでてきますが、フライパン一つ持って川にいって砂を掬いますとキラキラしたのが砂金です。それを袋に入れて銀行に売りにいったりする光景が出てきます。そういう噂が流れて、ある程度事実だったわけですが、それで東側に残っていた移民の塊がワーッと西へ行くのです。誰でも金がとれる、これがジョン・ウェインの映画でお馴染みの『駅馬車』の幌馬車隊でした。とにかく食うや食わずの生活をするよりと西へむかったわけです。それが49年ですから、飢饉の年限は51年までといったりする人がおりますが、これでいっぱい移民したわけです。アイルランドだけでどれ位の人たちが行ったかと言いますと普通大体100万人前後ではないかと言われ、最低でも80万人はアメリカに行っていると言われています。それだけの東部にいた人が、砂金がとれるというのでワーッと西へ行きました。それでその頃南の方もドンドンふくらんできて、大農園制度の奴隷を使った農業が北の方にふくらんで行きます。それと西の方へ土地の危険を顧みず行く人たちが、接触せざるをえません。それが南北戦争と考えたら分かりやすいと思います。だから奴隷解放というのは喧嘩の口実でして、南部の方はそれに対して南部連盟を作ります。北の方も同じ人間を奴隷にするのはけしからんと声高らかに言いますが、北の方の人の中にも実際には奴隷を使っていたような事実が、当時はあったと思います。それでどこが境だったかと言うと、ミシシッピ川から分かれて流れているオハイオ川あたりです。オハイオ川を北へ越えると奴隷が逃げても助かる。オハイオ川の手前で捕まると殴り殺されるというふうに当時は言っていました。その頃の状況を書いたのが『アンクルトムズの小屋』という有名な小説です。

 南北戦争というのが政府側と反政府側の二つのグループによって起きました。北の方は貧乏ですから勉強を一生懸命するわけです。ですから産業革命で新しい工業は北で発達します。古い大学も全部北にあります。ハーバードにしても北の方にあります。一所懸命勉強して、新しい科学技術を発達させました。もし、南北戦争で南の方が勝っていたらどうなるだろうということですが、恐らく国が分裂していたと私は思います。別の国になっていたのじゃないか。北の方が南の方に追従して、服従して大農園式の農業をやるとは考えられません。どうしても二つになったという気がします。そういうことで南北戦争は、1861年から65年まで続き、65年に調停して終わりました。

 『風と共に去りぬ』という小説を、かなり忠実に引き抜いて映画にしたわけです。この中には南北戦争の状況を細かに書いていったと、そしてそれに伴ってジョージア州のアトランタやそのほかの町がどんな風に荒廃していったか、それから黒人奴隷が解放されるといっても何していいかわからないのです。戸惑ってうろうろしているばかりで犯罪ははびこるなど、どうしようもない状況を克明に書いていったわけです。その中のもう一つの大きな筋立てがスカーレット・オハラを中心とした彼女をとりまく男性群ということで、小説の最後はレッド・バトラーが彼女の元を去っていくという所で終わります。

 そのほかのいくらか言葉を拾ってみたいと思いますが、本当の終わりの方に、レッド・バトラーがいわゆる別れようと言い出す場面の所を拾い読みしてみます。スカーレットが「あんたどこへいくつもりなの」というふうに聞きます。そうするとバトラーが「そうだね、イギリスか、もしかすると故郷の連中と仲直りする為にチャールストンへ行くかもしれない」といいます。するとスカーレットが「だってあなたはチャールストンの人たちをひどく嫌っていたじゃありませんか。あなたはあの人たちを馬鹿にしていたでしょう」と言います。バトラーが「今だって馬鹿にしている。だが俺もこの辺で放浪生活を卒業したいと思うんだよ、スカーレット。お前も俺も45だ、45といえば若い頃は馬鹿にして気にもしなかった親戚づきあいをしたり、名誉を求めたり一身の安全を図ったり、しっかりと深いところに根を下ろしたものを尊重する年ごろである」と言うんです。しかし、スカーレットは分かりません。するとバトラーが「あんたも45くらいになると分かるようになるよ」というんです。バトラーがしばらくして、「俺の言う意味がわかったね」と言いますと、スカーレットは「分かっているのは、あんたが私を愛していないということとどこかへいってしまうことだけですわ。あなたが行ってしまったら私はいったいどうしたらいいの」というやりとりをして、別れるときの最後にバトラーは「でもね、俺は決してお前を恨んではいないからな」といって姿を消すのが、この二人の最後の場面と言うことになっています。本当にバトラーというのは映画でもそうでしたが、クラーク・ゲイブルの脂ぎった感じの顔で、日本でいうなら戦後の闇商売から何でもやるような男です。金儲けをやってその戦後のどさくさの中を生き抜いていくという形にしてやってきたわけでが、最後はそういう場面になっています。

アメリカ南部
 先ほどいいましたように、非常にスカーレットは楽観的だしそれくらいでは簡単にあきらめません。バトラーを本当は愛していたではないかということに気が付きますが、もう一度どんなことをしてでも、レッドを取り戻してみせる。どういうふうにして取り戻すかは、タラの丘に行って明日ゆっくり考える。明日は明日の陽が照るではないかというのが最後の台詞になっているわけです。これでどの程度彼女が自分の出生のことと絡ませてやったかと思いますが、少なくともオハラ家というのはあきらかに名前からもアイルランドの名前です。恐らくそういうのが南部の農園主の中にはいたんだろうと思います。後でスタインベックの話をしますけれども、スタインベックの母親のハミルトンも最初は南部に行っています。そして父親の方のスタインベックはドイツ系で、北ライン地方の出ですが、ここも移民してきて南北戦争の時は南軍に入っています。スタインベックのおじいさんになりますか、曽祖父になりますか。ですから先ほどいいましたように、だいたい北の方が多いのですが政府系の南部に行っています。それは17世紀の初頭のことでありまして、いろんな人が南部にも入り込んでいて、大成功している人もいます。アメリカは寄せ集めの民族ですから、分析することは難しいと思います。

 南部のことでちょっと脱線しますけれど、プワーホワイトもいるわけです。アパラチア山脈の山の中なんかに住んでおりまして、非常に極貧の状態で生活しています。私も一度ずっと昔NHKで様子を写したのを見ましたが、これは黒人の奴隷よりも馬鹿にされる存在でして、フォークナーの小説なんかにでてきます。南部というのは非常に複雑です。

 ミシシッピ川の下流の方、ラフカディオ・ハーンがいたような場所は、フランス語とスペイン語と英語と混じったような独特のクレオール語を話す人たちがいるなど南部は複雑なところです。この舞台になるジョージア州というのはフロリダ州の北側にあり、更に北がサウスカロライナ州です。もちろん首都はアトランタですが、この『風と共に去りぬ』の舞台になったのはもうちょっと北の方になっております。

ジョン・スタインベック
 前後わけの分からないような話をしておりますが、スタインベックのことを少し申しあげて見たいと思います。スタインベックは1962年にノーベル賞を貰いました。このときに一番ビックリしたのは賞をもらった本人でして、本人が信じられないといったといいます。受賞演説の時には適当に言っていますが、いろんなインタビューに本人がそう答えています。どういう出生かと言いますと、おじいさんは北ライン地方の出です。南北戦争では南軍に参加し、戦争が終わって10年経った1874年にカリフォルニアの方に移っております。お父さんは更にサリナスという所に移り、亡くなるちょっと前まで11年間郡の収入役をしていました。今その頃の生家が残っています。サリナスと言うのは、サンフランシスコとロサンゼルスの三等分しまして三分の一くらいサンフランシスコよりのところで、モントレーに近いところです。モントレーは漁業が盛んで昔は缶詰工場とか何とか海産物関係で栄えた所です。それでスタインベックにも「缶詰横町」という作品もあります。そこでスタインベックは生まれまして、母親の先祖は北アイルランド出身のアイルランド人です。この人はちょうど南北戦争が終わってからすぐ位にアメリカに渡って、近くのサンノゼやキングシティに住んだりして農業をしていました。このお母さんというのは、4箇所か5箇所で小学校の先生をしておられたと思います。スタインベックが生まれましたのは、マーガレット・ミッチェルの2年後、1902年ですが亡くなったのは68年です。非常にお母さんの影響が強くて、子供の頃からアーサー王伝説を読んだり、恐らくアイルランド関係の本とバイブルを相当読んだと思います。

 ところが、1934年にお母さんが亡くなります。その数年前に30年の頃に20代の後半にキャロル・ヘミングという人と結婚します。この人がどうもお母さんそっくりだったみたいです。しかし1942年に離婚します。何故離婚したかと言いますと、惑わされたからと思います。彼が少し名前も出てきてハリウッドに出入りするようになります。ハリウッドは派手ですから、ハリウッドの女優さんじゃないですけどもグイン・バードンという女性がいて、離婚して1年後の43年にその人と一緒になります。私はアメリカに行った時に、そのバードンさんが最初の奥さんと離婚する時に3人で話し合った時のことを記録してある本をみつけて丹念に読みました。一番面白かったのはスタインベックがなかなかずるい男で、離婚話をする時に当事者が集まって話そうということを言ったそうです。自分も入れてキャロル・ヘミングと3人会いました。しばらく坐っていたら、関係者が話し合うのが一番効果的だと思うので「俺は庭を散歩してくる」と言ったそうです。そうしたらそのときに最初の奥さんが言うのには、「今のことでもわかるように、あの人はたいへん無責任な人だから、いつかは今の私の立場にあなたはきっとなると思うよ」というふうに言ったということを、2番目の奥さんがちゃんと書いて、その通りになり、5年後には別れています。そして3番目の奥さんはエレーヌ・スコットといいまして頭のいい女優さんです。

黄金の杯
 私がスタインベックについてどういうことを申し上げたいかと言いますと、この人の最初の本が出たのは1929年です。大恐慌の寸前に出版されて全然売れませんでしたが、「黄金の杯」という本です。これはパナマ運河のパナマのことを金の杯と言っているのです。これはあのあたりで大航海時代の後に、あそこには宝がいっぱいあるとか天下の美女がいるとか言うようなうわさがあり、海賊たちの憧れの地であったらしいのです。この小説の主人公は、ヘンリー・モーガンという海賊です。カリブ海を荒らしまわって、最後にはパナマを手に入れるという筋書きです。このヘンリーの出生がウェールズということになっております。15歳の少年がウェールズで、カリブ海の方に行って帰ってきた人の話をききながら、自分も外に出たいという風に思っているところから始まっています。そこに出てくるマービンという詩人というか占い師といいますか、何かたいへん変な人物がでてきます。その出だしのあたりがどうみてもこれはウェールズでなくても良かったと思うくらい、スコットランドのはずれでもアイルランドでも良かったと思うようにケルト的なムードを漂わせて始まります。そしてマービンは、親が引きとめて欲しいと思いますから、エリザベスという女の子が好きだということでエリザベスのところに行けよと言うのです。行きますけれども口笛を吹いて合図をしますがエリザベスは出てきません、そのままそこを去って船に乗って、最初は奴隷のような仕事をしながら海賊に成り上がっていくわけです。一番最後の彼が亡くなる前に、夢か現実か分からないようにしてエリザベスが現われるという非常に甘っちょろい小説です。最初の出だしのところの様子が非常にケルト的です。

『知らざれる神に』
 それからその次に『知られざる神に』というのを33年に出しておりますが、書いたのは「黄金の杯」の後だと思います。これはスタインベック全集にもありますから、大変へんてこな小説でありますが、是非チャンスがありましたら読んでいただきたいと思います。これもやはり先ほど言いましたモントレー、サリナスの近くの西部の農場の話です。東部から来た人がそこに農場を作ります。アメリカにはホーム・ステッド・アクトという自営法があります。アメリカは広いですから最初ドンドン広がっていく時に、法律が出来たのは南北戦争の後の62年だと思います。160エーカーまで自分の力で耕した所は自分の土地にしていいという法律。ドンドン西の方に行って、自営農法みたいなのに基づいて、東部から来た人には西の方に160エーカーを農場を作るわけです。その頃はもう土地はなかったはずですが、どうしてそういう土地があったかといいますと、土地の人の話によると4年おきか5年おきくらいに大干ばつがやってきます。その時は何にもとれないので、全部そこを手放してよそに移っていった土地が残っていたということです。そこに大きな樫の木がありました。そこにジョーゼフという主人公が住んで、父親の霊が宿っているという風に考えてその木の下に家を作るわけです。父の霊が宿っているということを本当に信じていますが、そこの農場に水を運んでくれる流れは、山の中の林の中に大きな岩からであります。その岩のもとから清水が流れ出しているということになっています。その場所を非常に大事にしているわけですが、色々ないきさつはありますけれども数年経って遂に干ばつがやってきます。そうすると何回もそこに行ってみますが、この奥さんの名前はエリザベスだったと思いますが、そこの岩を見に行って岩に登って奥さんが足を滑らして死んでしまうのです。それもちょっと唐突で因縁めいた話ですが、その後いよいよ雨が降らなくて雨乞いの祈りをしたりしますけれども、また本人が岩のところにやってきます。色々やってみるけれども元になるところが本当に枯れかかっているのです。そして、岩に登り自分の手首を切り雨乞いのため自分の血を岩に垂らします。だんだん意識が朦朧としてくると雨が降り出し、雨の音を聞きながら死んでいくという結末です。ひと口には言えませんが、少なくとも普通のアメリカで書かれる小説とはムードが違います。

『ツラレシート』
 次に32年に出る『天の牧場』といいますかそういう名で、短編が10個くらい入った本で、これは売れました。先ほどの3冊の中で一番売れて、一息ついたような感じです。これも奇妙な話で、場所はそこら辺の場所が舞台です。マンローという家があり、そのマンロー家が絡むようにして色々な話を10個並べているわけですが、そこの中に4番目の話に「ツラレシート」という話があります。作者は「小さなカエル」ということを意味するスペイン語だと書いております。スペイン語の辞書をどんなに調べてもそういうのはでてきません。絵空事かもしれませんが、小さなかえるとあだ名で呼ばれる子供、11歳の少年についての話です。これが一番アイルランド的といいますか、ケルト的といいますか、普通の人間の子供とは全然違いまして、捨て子だったんです。パンチョという農園の下僕みたいなのがおりますが、これが仕事をして楽しみはお休みのときに給料をためてモントレーの町に出て行って、お酒を飲んで酔っ払って馬車で帰ってくる。馬の方が道を覚えていますから帰りは馬車に乗って寝てるとちゃんと農場までつれて帰ってくるという生活をしています。そのパンチョがある朝、眠らないで大声を出して帰ってくるのです。まずモントレーの町に酒飲みに行き、朝帰って来るときに目を覚ましているということにみんなビックリする。それから大声でわめいているので何事だと言いますと、今来る途中で、3ヶ月くらいの子供が捨ててあった。それが見た目になんとも人間の子供と思われないのでビックリして、助けてくれといって帰ってくるのです。その3ヶ月くらいの赤ん坊が、拾おうとしたら「俺には鋭い歯が生えているぞ」と言ったので、ビックリ仰天してゴメスという主人に話します。主人が行ってみますと、ちゃんと馬車の中に赤ん坊がいて、その時は全然何も言いません。でも形は普通の子供と違って、異様な感じのする子供ですが、それを親切な人が育てるわけです。5歳くらいになったときは、知能は遅れているけど力仕事はなんでもやる。動物なんかは大人がてこずるような馬だって彼が行って言うとおとなしくなる。植物なんかも接木をしようとすると他の人ができないのに彼にやらせるとチャンとつがってしまうというわけです。学校は行っても仕様がないからとやりませんが、郡の教育委員会の方で必ず学校にやらないといけないと言うことで11歳になったときに強引に学校に連れて行かされるわけです。ですけれどもすぐ帰ってきてしまう。勉強は全然覚える気がないわけですけれども、本人は彫刻をしたり絵を描いたりが大得意でして、マーチン先生というかなり年配の女の先生が「これはやっぱり好きなことをやらせないといけない」、学校にこさせるために、何回も本人に言ってきかせるわけです。それで「あなたは素晴らしい才能をもっている。これは神様からいただいた大切な才能だから大事にしなさい」ということを繰り返して聞かせる。そしてある時に、黒板に絵を描いてみようということで描かせる。そうすると黒板いっぱいに見事な動物の絵を描くわけです。ところが他の子供にも授業をしないといけないので「あなたが絵を描いたから今から算数の授業をするから」と先生が言って、黒板を消しにかかったら獣みたいにつかみかかってきて、クラス全体と女の年配の先生を相手に、大騒動になるわけです。最後は先生も他の生徒も一緒に教室から逃げ出してしまうということで、先生は頭に来て、農場主のゴメスの所につれていってこういうことがありましたと二度としないように鞭打ちをやってくださいと言うのです。農園主の方は「それは先生が悪い。本人に描けといって描かせて消すのは本人が怒るのは当然ではないですか」といったりするのです。鞭打ちをやれといわれればやりますということで本人は縛られて鞭打つのですが、鞭で打たれながらニヤニヤして眺めている。怒りもしなければ泣きもしないというようなことを書いている。鞭打ったって同じでしょうと先生に言うのですが、先生は嫌になって学校をやめてしまう。その次にどうも母親をモデルにしたのではないかという若くて頭が良くて美人の先生が来るわけです。その先生は絵を描かせるのに黒板を仕切って、ここまで描いてよろしいということで絵を描かせます。この先生はお話を読んで聞かせるのが得意で、その頃の小学校というのは何年担任ということではなく全部一緒ですから、低学年から高学年まで、若いものいるし、かなり年とっとったものもいて、色んな本を読んだということが書いてあります。イギリスのスコットの小説とかアメリカのジャック・ロンドンの小説とかいうのを読むと書いてあります。ところがあまり大人っぽい小説ばかりじゃいけないと、ある時低学年のためにいわゆる童話みたいなものを読んであげるのです。そうすると絵を描いておったツラレシート絵を描くのをやめて一生懸命聞くのです。先生は喜んで、こういうところもあったかということでそういう話もずっとしてあげます。一番熱心に聞くのはツラレシートです。その人たちはどこにいるのですかというように。そして自分はどうも童話の中に出てくる妖精とか何とかと親戚だと思うようになるのです。自分の一族は全部地面の下に人間から目につかないところに住んで、地面の下はヒヤヒヤとして涼しくて、そういうところに自分の一族は居るはずだということで、山の中を歩き回ったりするようになります。先生が学校から帰っているとついてくるのです。先生は気持ちが悪いから何でついて来るのかと聞くと「いや僕は親戚を探しに行くんだ」と。先生も口を合わせて「なかなか見つからんと思うよ。見つかったら先生に教えてね」と。必ず見つけるのだと言い、先生の帰り道でそういう話をして別れます。本人は、誰にも親戚探しをする。これは確か英語ではGNOME(ノーム)という名前を使ってたいと思いまが、訳では地の精と書いてあります。地の精の一族だと思うようになりずっと探し回ります。そのとき先生が「昼間は出てこないのじゃないか」と言いますから、夜中に探し回るようになります。そして大きな農園で、柔らかく肥料をやったりして耕してある所に行って、ここに穴を掘れば一族と会えるかも知れないということで、朝までかかって大きな穴を掘ります。「誰かいないか」と言いますが返事がないので、くたびれて自分は別の所に寝てしまいます。そこへ農場主が来て、コヨーテを捕まえる罠を作っていて、わなが無くなって大きな穴が空いているから、誰か悪戯したのだろうと思って埋め戻します。そうするとまたあくる日、自分が掘った穴が埋めてありますから、自分の一族が埋めたのだと思い、必ずここにいるとまた掘るのです。掘っても出てくるはずはないのでよそに行って寝ていますと、農園主が来てかんかんに怒って、埋めかかります。そうするとツラレシートがそれをみて、穴掘りのショベルで後ろから農園主をなぐりつけて、殺しはしませんけど倒します。それでそこの子供が見つけて大騒ぎになり、ツラレシートがやったということが分かってしまいます。教育委員会はその農園主のゴメスにも話して、要するに囚人用の精神病院に送らざるをえなかったという所で話が終っています。

 ツラレシートが自分の一族は必ず地中にいて、穴を掘ればいつか会えると思っていく。妖精の話を聞くと一生懸命に聞く。ずっとその話を読んでいますと、普通にアメリカの人が書く話ではないなという気がして、作品の出来・不出来は論外としまして、どうしてもスタインベックが小さいときに母親から聞かされたような話とか、若い頃に読んだアーサー王伝説とかそういうものの影響が出てきて、そういうものを書きたくなるのかなと思います。ただこれを読んでいただきますと全体的には非常にバランスのとれたいい作品だと思います。

 特に西部のあのあたりには、パイサノと言う人たちがおりまして、スペイン人とインディアンと混じったような特別な人たちがおり、そういうのを主人公に特に好んで書いています。スタインベックのいろいろ書いた小説の中で一つの特徴は、知能が低くて勉強は出来ない。しかし色々なことがいっぱいできないが力持ちで性格は素直で、言われたことは何でも一生懸命するというようなタイプの人がいくつもでてきます。一番有名なのは映画にもなった『二十日鼠と男たち』の中に出てくるレニーという大男です。非常に知能は低いが、ちょっと力を入れただけで握りつぶしてしまうような大力のを持った男です。

 私はスタインベックの中に、人間としての知能は低く動物に近いような存在だけれども、そういうものに対して作者がすごく興味があったのではないかという気がします。その後『怒りの葡萄』とか『エデンの東』とか写実的な作品を書いたりして、評価の高いものがあります。一番いいのは結論的評価が高いのは短編集ですが『赤い子馬』というのがあります。これが一番評価されていると思います。アメリカで高校なんかの教科書によく使われているということです。

『われらが不満の冬』
 亡くなる前の61年に書きました『われらが不満の冬』という最後の小説があります。『われらが不満の冬』と言うのは何かと言いますと、シェークスピアの『リチャード3世』の中に出てくる言葉です。我々のいわゆる冬の時代、こういう苛められてよくなかった時代が、新しい太陽(SUN)ですけれども(これは息子SONとかけてある)新しい世界の夜が明け来るのだと言う台詞が『リチャード3世』の中で出てきます。これは56年に書いた銀行強盗の話を拡げたといわれますが、不出来の作です。しかし、この中に小さな飲食店をやっている主人公がいて先祖は移ってきたときは立派な人でしたけれども今は恵まれない暮らしをしています。アレンとヘレンという男女二人の子供がおり、作文コンクールに息子アレンが投稿し一席になるのです。お祝いをしようと言っていますと、報道関係が来て一席になった懸賞作文は全部剽窃であるということがわかったと問題になります。どうもインチキだといったのは、妹のヘレンみたいだとほのめかしてあります。最後に銀行強盗をやったりしますけれども、俺はダメだということで自殺をしようと思って海際の洞窟みたいなところに剃刀の刃をもって行くのです。そして、波が押し寄せてくる中でいろいろ考えていますと、この彼のうちに、変てこな魔よけの石があり、それらをたいへん大事にしているのです。彼はいろいろ考えながら、俺の明かりは消えたんだと言いながら、最後に思い直します。俺にはもうひとつ仕事がある。娘の方のヘレンに、この魔よけの石を渡さなければならない。どうしてかというと、ヘレンにはまだ明かりがあるからというようなことを考えて自殺を取りやめる所で終っています。洞窟の中にいると気持ちがいいとか気分が収まるとか、魔よけの石自体いまどき大事にされるなんて考えられませんが、最初の3作くらいと最後の1作だけが、どうしてもケルト的な妖精の話とか、そういうものに関わっているような気がしてなりません。

最後に
 本当はもう少しいろいろ分析をしてお話をした方がいいと思いますが、あまりに横文字を出してもいけないと思いますし、評論家の名前を出すのもそぐわないと思いますからたいへん大雑把な話になりました。『風と共に去りぬ』はご存知だと思いますし、スタインベックもご存知だと思いますから、そういう二人の作家とも先祖にはアイルランドの血が入っている、そういう作家がアメリカには非常に多いということです。アメリカ文学をみても、例えばラテン系の血を引いた作家が盛んだったり、ユダヤ系統の作家が盛んにもてはやされた時期もあります。今アイルランド政府は第2公用語は英語のようですが公用語としてゲール語、いわゆるケルト語を使っています。最近アメリカではケルト語で小説を書いた人がいるというようなことを聞きました。アメリカの文学だけじゃなくて風土の中にはケルトの血が入っていると思います。