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2 小泉八雲(ラフカディオ・ハーン) 2-1 小泉八雲の魅力

ハーン雑話

宮崎啓子(小泉八雲熊本旧居館長)
2006年(第8期)市民講座「ハーンを育んだアイルランドの風土と文化」(7回シリーズの第1回)
小泉八雲熊本旧居

 今日はハーンゆかりの人たちを通して、エピソードなどを紹介しながらハーンの人柄などのあれこれについて話したいと思います。

西田千太郎
 西田千太郎はハーンが島根県尋常中学校の英語教師として松江に赴任したとき、公私にわたってハーンを支えた人です。

 西田は松江で修学ののち上京し、約2年間苦学して中学校教員免許を受けました。その後兵庫県の姫路中学校、香川県の済々学館で教えたのち、請われて明治21年に島根県尋常中学校の教諭になっています。その2年後、ハーンとの出会いがありました。

 ハーンは西田の頭脳明晰、親切で人情味あふれる誠実な人柄にひかれて、二人の親交は西田が明治30年に36歳の若さで亡くなるまで続きます。西田は公的にはもちろん、資料収集、取材活動への協力、私生活の世話にいたるまでハーンに不自由を感じさせなかったといわれています。ハーンの長男一雄は『父小泉八雲』の中で西田について「松江聖人と噂されており、父が最も信頼した日本人中第一の友人である。父の日本研究に多大な援助を与えた人。日本の人情風俗においても懇切丁寧に説明を施した。」と書いています。

 明治25年夏、ハーンが約2ヶ月にわたって関西・隠岐方面を旅行している間に、西田は九州地方を旅行し、この手取本町の家に立ち寄り3泊して五高、水前寺公園、本妙寺などを訪れています。

 ハーンは熊本時代に執筆した『東の国から』を「出雲時代のなつかしい思い出に、西田千太郎へ」と献呈しています。熊本にも西田のような心を許せる友人がいたならば、ハーンの熊本時代も違ったものになっていたかもしれません。

藤崎八三郎
 旧姓を小豆沢といいます。島根県尋常中学校での教え子で、ハーンの作品『英語教師の日記から』の中に「今後わたくしの記憶に最も長く明白に残るだろうと思う」生徒の一人として紹介されています。ハーンが熊本に移った後もハーンを慕って文通を続け、資料提供の手伝いなどをしています。明治26年に卒業しますが、進路についてハーンに相談し熊本に訪ねてきたりもしました。

 明治28年9月、五高に入学しますが前年12月志願兵として入営していたため、出校しないまま休学し、翌年3月に退学しています。結局、陸軍士官学校に入り、職業軍人の道を選びました。この時、藤崎家の養子になっています。

 東京時代のハーンは、毎年のように家族を連れて焼津に海水浴に行き1ヶ月ほど滞在しました。明治30年の夏には藤崎も訪ねていき、ハーンのかねてからの念願であった富士登山に同行します。この登山からは『富士の山』という作品が生まれました。その当時ハーンは身体に少し衰えを感じていたらしく、富士登山はとても無理だと諦めていました。藤崎が「私が一緒に行きますから」といって周到な準備のもと、決行します。藤崎の手記によれば「一人の強力が先生の腰に巻いた帯を引いて、もう一人は後ろより押し上げやっと夕方8合目に到着。一泊して翌朝8時についに頂上に到着した」というような登山だったようです。

 藤崎は東京でもハーンを慕ってよく訪ねています。藤崎夫人ヲトキさんの回想によると、縁談はハーンの助言でまとまり、お見合いも小泉家の座敷で行われたということです。明治37年2月、日露戦争が始まり藤崎は満州に出征することになりますが、ハーンは家族ぐるみで送別会を開いています。9月26日、ハーンは戦場の藤崎に手紙を書き数冊の本とともに発送して、数時間後に心臓発作で亡くなりました。藤崎は「先生の最後となった手紙と贈ってくださった本と、それから先生の亡くなられたという知らせと同時に受け取って悲嘆に耐えなかった」と手記に書いています。この絶筆となった手紙は戦災で焼失しましたが、幸い木下順二氏が写真に撮ってあった原板があり、それを焼き付けたものがこの記念館に展示されています。

 ハーンの没後、上京した藤崎一家がすぐに家が見つからなかったので、小泉家の半分を借りて住んだこともありました。大正12年、熊本で済々黌高校の教師となって英語、地理を教えますが、晩年、本当は文学がやりたかったんだと孫たちに語っていたそうです。小泉時氏のお話では「藤崎さんが上京される際は好物のちらし寿司をつくってお待ちしたものでした」ということでした。

雨森信成
 あめのもり のぶしげといいます。1858年、福井に生まれました。藩校の明新館で英語を学び、更に横浜のブラウン塾で学んでおります。20代の後半から西洋諸国を遍歴し、30歳頃に日本に帰ってきたといわれています。

 ハーンの熊本時代にマクドナルドの紹介によって交際が始まり、ハーンにとって「真面目な、あたたかい、利己心のない友人」となりました。その優れた学識と語学力を生かして、ハーンの良き協力者となり、貴重な資料を提供したりして親交を深めました。ハーンは著書『心』を雨森に献呈していますが、「ある保守主義者」は雨森がモデルといわれています。

 ハーンの没後、アメリカの雑誌『アトランティック・マンスリー』に「人間ラフカディオ・ハーン」という追悼文を寄せております。ハーンをよく理解した友人として、作家としてのハーンの一面を生き生きと描写したすばらしい名文といわれるものです。その一節を紹介します。

 「ハーンは夜が遅いにもかかわらず、早起きだった。気が乗ると午前2時、3時まで書き続けた。初めて彼の家に泊まった晩に見たものは私の記憶に焼きついて、生涯忘れることがないであろう。私も夜は遅い方であったから、その晩も寝床で本を読んでいた。時計は午前1時を打ったが、ハーンの書斎にはまだ灯りがともっていた。低い、かすれた咳のような音がした。わが友が病気なのではないかと私は心配になった。それで自分の部屋から抜け出て彼の書斎に行ってみた。しかし執筆中には邪魔はしたくないと思い、用心深く少しだけ戸を開けて覗き込んだ。友は例の高い机に向かい、鼻をほとんど紙にくっつけんばかりにして、一心不乱にペンを走らせているところであった。一枚一枚と書き続けてゆく。しばらくして彼はふと顔を上げた。その時私は何を見たであろう。それはいつもの見慣れたハーンではなかった。全くの別人であった。顔がふしぎなほどに白かった。大きな眼がきらきら光った。何かこの世ならぬものと通じ合っている人のように見えた。」

ミッチェル・マクドナルド
 ハーンが来日した時、エリザベス・ビスランドの紹介状をもって横浜海軍病院勤務のマクドナルドを訪問して以来の友人です。ハーンが帝国大学講師となって上京してからは,東京と横浜とをお互いに行き来し信頼関係を深めていきました。マクドナルドは雨森とも親しく、二人はハーン一家と一緒に海水浴に行き、皆で楽しく一日を過ごしたこともありました。ハーンは子供のように喜んで、得意の泳ぎを披露したそうです。

 ハーンの没後は、小泉家の遺産管理人として遺族を支えました。ハーンの帝大講義録も彼の尽力で出版が実現しました。1920年横浜グランドホテルの社長に就任。生涯を独身で通したマクドナルドは、ハーンの長男・一雄を我が子のように可愛がりました。

 ハーンを支え、ハーンを慕い、ハーンが心を許した友人たちをとおしてみると、ハーンがいかに魅力的な人物であったかということに改めて気付かされます。