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2 小泉八雲(ラフカディオ・ハーン) 2-1 小泉八雲の魅力

ハーンとのかかわり

樋口欣一(まるぶん書店顧問)
2006年10月22日(日時は調査中です)

はじめに
 私とハーンとのかかわりについてはハーン来熊百年記念祭報告書にありますように1988(昭和63)年4月、ハーン研究会を立ち上げた頃より始まりました。そのきっかけは、ある東京の出版社の社長さんの耳の痛い忠告でした。

実はその4年前に「ラフカディオ・ハーン著作集」の第15巻が発行されました時に、その翻訳に当たられた早稲田大学の先生を呼んで熊本で講演会を開催しましたのでかれこれ22年以前になります。先程の出版社の社長さんの忠告で、熊大の中島先生や中村先生に相談して勉強会を始めてのが昭和63年の事でした。
 
私は去年4月にも熊本八雲会でお話ししましたので(*注1)、今日はハーン来熊百年記念事業行事で熊本へ見えた先生の中でひょんな事で知り合いになった方々の内から3名の方とのお話をさせて頂きたいと思います。

洋学校の市原
 朝そと庭の掃き掃除していますとジェーンズ邸の前を行きつ戻りつしておられる方がいます。「どうされましたか」と声を掛けると「ジェーンズ邸を見学に来たが開館していないので・・・」と言われるので「まだ30分もあるので、私の所でお待ちになって」と言って迎え入れました。すると丹沢栄一と言われる東京の大学の先生で“ハーン”の勉強で来たと仰るので、ハーンと熊本のこと、ジェーンズの事など暫く話して、ジェーンズ邸へ送りました。これが機縁でハーンの資料や研究論文を次々に送って頂くようになりました。
 ジェーンズにつきましてはノートヘルファー先生著「アメリカのサムライ」という本がありますが、その中に市原盛宏と武正とを混同した記述があります。盛宏は京都の同志社に進んでいますが市原武正は東京の商法講習所に進んでいます。実は洋学校への入学は武正の方が早く、後進生教授方となっています。この事を丹沢先生に申し上げると間もなく早稲田大学の図書館でジェーンズの死去に伴う香奠奉納者名簿に二人の名前が出ていて、当時日銀名古屋支店長の盛宏は武正の5倍以上の香典を納めており、この点で「アメリカのサムライ」の訂正が必要と判りました。一方、武正は商法講習所を卒業したと云う記録はありません。英語が出来ましたので外国へ出たのかと渡航記録を調べましたし、一橋大学も調べましたが杳として掴めません。武正は花岡山の熊本バンドには参加していない所から阿蘇の市原家と関係ないか調べましたが判りません。

モースとハーン
 その後、丹沢先生が「モース」の調査で再び来熊されました。モースが熊本に立ち寄ったのは明治12年6月のことでした。ハーンはスペンサーの進化論に関心を寄せていましたが、「龍南会雑誌」にモースに触れています。恰もハーン自らが大野貝塚古墳を見たようにもとれますが、この時はハーンは手取本町から坪井へ移転中であり、之は五高の鹿児島への行軍旅行の学生か、引率の秋月胤永の話を聞いて書いたのではないかと私見を申し上げて、龍北町から法道寺に来ますと、境内の大樹はモースの「その日その日」にあるスケッチ画そのものでした。

シャーキー駐日アイルランド大使
 所で私は平成7(1995)年11月アイルランドの駐日大使でしたシャーキー氏をダブリンに訪ねました。その際ハーン来熊百年記念祭報告書と「ラフカディオ・ハーン再考」などを差し上げ、話は浦島太郎の伝説に及びました。するとシャーキー氏はアイルランドにもそれと同じような伝説があると云って「オシーン」の話をされました。こちらは亀ではなくて、白馬です。シャーキー氏は三角の旅館、浦島屋に行かれていますが、釣鐘島の伝説はご存じではありませんでした。

 釣鐘島の話は川尻の大禅寺の住職が唐より帰るとき2つの鐘を持って帰られたが、舟が難破して1つは中神島に流れ着いたが、もう1つは辛うじて川尻に持ち帰られその鐘をつくと中神島の鐘が鳴るというのです。川尻の鐘は男の鐘で、中神島のは女の鐘といわれるのも美事な伝承です。時は文永4(1267)年の事でした。

風呂鞏さん
 次は中村青史先生のご紹介で広島の風呂鞏という先生とお知り合いになりました。矢張りハーンの研究会で熊本に来られた大学の先生で、最近お手紙を頂きました。と言うのは本日のこの会の通知状に私の紹介が出ていたからで、先生は熊本アイルランド協会の会員でいらっしゃるのですね。お手紙には広島で開催されている藤田嗣治展の印象を詳しく述べられています。実は私も8月末日帰りで、広島に見に行きました。風呂先生のお手紙では展覧会を見て帰宅後近藤史人著『藤田嗣治「異邦人」の生涯』を読まれた所、私の名前が出てきたので驚いて、手紙を認めたとありました。

 私は現在本山町の石光眞清生家の保存運動に携わっていますが、石光眞清も藤田嗣治も私の小学校の大先輩です。この2人は第一次世界大戦の折、フランスで会っています。この辺の事情は「石光眞清の手記」には触れられてはいませんが、ホームぺージでは藤田とパリで会いその紹介でジャン・コクトーともあっていることが判りました。

ハーンと藤田
 風呂先生のお手紙では「ハーンを裏返しにしたような面もある藤田―社会の底辺に住む人々への思いやりなど」とあります。私は広島で藤田の戦争画に隠された意図を探すのに熱中して、風呂先生の「ハーンと通底するもの」とのご指摘に改めて画集を見直しました。風呂先生の云われるハーンと藤田嗣治の関係で「ハーンを裏返しにしたような面もある藤田」とはどういう事でしょうか。藤田は戦時中に戦争画の大作を次々に発表しましたが、戦争が終わると画壇の戦犯騒ぎで、遂にフランスへ出国して国籍を得、カトリックに帰依して遂に日本に帰ることはありませんでした。

 一方ハーンはギリシャで生まれ、父の出身地アイルランドへ渡り、更にイギリスを経てフランスからアメリカに移りマルティニークを経て日本に来ました。つまり二人は母国を去り外国で生涯を終えています。

 ハーンを裏返したような面とはこの事でしょうか。また先生の社会の底辺に住む人人々への思いやりとは?。藤田は日本の画風にヨーロッパの技法を取り入れてエコールドパリで名声を博しました。広島で実物に触れてその歩みを辿ることが出来ました。

 ハーンの作品に「草ひばり」と云うのがあります。実は私の弟が安永信一郎先生のご指導で昭和21年2月「草雲雀」という短歌集を出していますが、その裏表紙に、ハーンの「草ひばり」の「・・・だが要するところ飢餓の為に自分の脚を噛むということは詩の天禀ともつといふ呪詛を蒙ってゐる者に起こりうる最大の凶事では無い、歌はんが為には自分自身の心をも食べなければならぬ人間の蟋蟀が居る」とあり、巻頭の「草雲雀宣言」には敢然と歌のマンネリズムに斧を打込む」と唱っています。弟は五高生として愛読していたのでしょう。

 ハーンの妻セツの「思ひ出の記」には「ヘルンは虫の音を聞くことが好きでありました。この秋、松虫を飼っていました。9月末の事ですから松虫が夕方近く切れ切れに少し声を枯らして鳴いて居ますが、常になく物哀れに感じさせました。・・・段々寒くなって来ました。知って居ますか、知って居ませぬか、直に死なねばならぬと云うことを。・・・」そしてハーンは2年後の9月26日にこの世を去りました。ハーンは草雲雀や松虫の様な微細な生命の内に自分と同じ感情乃至魂が存在するということの神秘を読んでいたのです。

 ハーンの別の作品を見てみます。「ある保守主義者」の最終章には、一旦祖国に背を向けた明治の一自由思想家が、長年の西洋滞在の後、船に乗って日本へ回帰して来ます。すると富士山が見えて、皆心打たれてひとしくおし黙ります。

 夏目漱石もイギリス留学を切り上げて帰国した時には同じ様な祖国回帰を味わった事でしょう。弟は「草雲雀」に「シベリヤも春たけなはとなりけむ兄上よいのち生きをりたまへ」と詠んでいますが、私はその翌年の暮「ダモイ東京」でナホトカから恵山丸に乗り朝焼けの舞鶴に近づいた時同じ様な祖国への回帰を身に沁みて感じました。

藤田との思い出
 所でフランスに帰化した藤田嗣治は50年代にかっての猫や裸婦を描くことが少なくなり、題材は見違えるほど自由になり、中でも浮浪者の姿を多く描くようになり、ある時は路傍の物乞いに大金を与える姿が見られたといいます。ハーンもまた神戸時代には下層社会への関心を寄せています。

 さて私は最晩年の藤田に会うことが出来ました。画風は子供や猫、女性の裸像から次第に宗教画に収斂して、フランスで文字通り最後の大作に取り掛かった所でした。私が「熊本の付属小学校の後輩です」と申し上げると、作画を止めて、昭和4年付属小学校に来られた時の事を懐かしそうに話されました。当時の校舎は木造平屋で、私も入学した1年の1学期、その教室で習いましたと申し上げると、「年は幾つ?」と云われましたので「44歳です」と答えると、「若いなぁ」と云って、タバコに火をつけて、「稗田の記念碑を知っているか」とのお尋ねに「海老原先生に協力して手伝いさせて頂きました。場所も吉本家で、私の弟の通った英語塾のあった所です」と申し上げると「パリで海老原君に会ったか」と聞かれ、お互いの思いは次から次にふくらんで行きました。フランスで日本人に会うのも嫌がった文字通り日本を捨てたと云われた画伯には祖国への回帰の情が込められていると思いました。現に画伯と親しかったシャンソン歌手の石井好子は画伯が「もう一度日本に帰りたい」と云っていたと云います。

 ハーンも自分自身祖国への回帰の情にとらわれていたからこそ「ある保守主義者」に雨森信成の心境をダブらせたのでしょう。

本田増次郎
 何か文学と美術をゴッチャ交ぜにしたお話ですがもう一人「本田増次郎」に関連して小原孝氏に触れてみます。小原氏は当時岡山県立博物館に勤めておられましたが、リデル・ライト記念館へハンナ・リデルの事を調べに来られました。実は熊日にリデル・ライト記念館で行われた講演会の記事に山本有三と出ており本田増次郎の娘婿と云うのでした。弟の五高名簿に同じ増次郎だが大倉とあり藤本館長に電話して尋ねると同一人物と判り私が国会図書館でコピーした本田増次郎著「イートン学校及び其校風」を寄贈しました。小原氏はそれを見て、拙宅を訪ねて来られたのでした。平成12年12月「アイルランドの文化と岡山の文化」と云う展覧会が博物館で開かれ、イートン校のコピーも見てまいりました。岡山には「ケルト文化研究会」というのがあって「J.M.シングと木下順二の民話劇」など研究が進んでいる事が判りました。

 ハーンが東京大学を辞めて早稲田大学に転じた時実は本田増次郎も大学で同勤で、本田とハーンを結ぶ接点は余り無かったようですが、それから本田の縁戚の長谷川勝政氏が増次郎の自伝を作られて、その中に増次郎の姪(こま)が私の母の女学校で英語の先生をした事を知り、母の蔵書に「女学校四十年史」があり、その中に「本田先生」が出ているのが判りました。だとすれば母はこま子に英語を習った筈ですがもう後の祭りとなってしまいました。

 本田はハンナ・リデルと本妙寺に詣り、リデルがハンセン氏病患者と取組むことになります。ハーンも本妙寺に参りました。西成彦先生の「ハーンの耳」は熊日文学賞を受けられましたが、ハーンは目が悪かったとは云え、境内の情景が目に止まらなかったとはとても思えません。日清戦争で凱旋する将兵を見て、その作品「戦後に」では「しかし日本にとっての将来の危険はまさにこの途方も無く大きな自信の中にあるともいえよう」と書いていますが、第二次世界大戦でハーンの予告通りの結末を見ました。

 本田増次郎は後にアメリカで「オリエンタル・レビュー誌」の発行に携わっています。ハーンの年譜によれば、ハーンの死後「ラフカディオ・ハーンの伝記と書簡」が追悼の意をこめて発行されますが、丁度その時期に本田はアメリカで勤務していましたので、或いは書評でも書いていないかと思って冒頭の丹沢先生に申し上げましたところ、素人の思い付きがお手元のような発見(*注2)に結びつきました。30分の与えられた時間が参りましたので、お帰りになりましてからご一読下されば幸甚に存じます。

(*注1)くまもとハーン通信NO.6 平成11年9月26日 樋口 欣一「私とハーンとのかかわり」
(*注2)本田増次郎と小泉八雲―「オリエンタル・レヴィユー」誌上での八雲への献辞― 丹沢 栄一 工学院大学共通課程研究論叢 2003年2月発行

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2 小泉八雲(ラフカディオ・ハーン) 2-2 小泉八雲の作品

Lafcadio Hearn and the Clifton Waller Barrett Collection

Alan Rosen(アラン・ローゼン 熊本大学助教授)
2006年(第8期)市民講座「ハーンを育んだアイルランドの風土と文化」(7回シリーズの第5回)
熊本大学五高記念館

1.General Introduction to the Barrett Collection

The Clifton Waller Barrett Collection is one of the largest and best collections of American Literature in the world. Formerly housed in the Alderman Library of the University of Virginia in Charlottesville (Thomas Jefferson’s University), it is now housed in the university’s new Albert and Shirley Small Special Collections Library. The collection was opened to the public in 1960. Over 1000 authors are represented, and nearly 500 authors have been collected in depth. In total there are over 250,000 individual pieces by and about American writers from 1775 to 1950. Although the Hearn Collection is only a small part of the whole, it forms the most complete collection of original Hearn and Hearn-related materials in the world. Since some of these materials are still unpublished, or published only in part, this collection has become a kind of mecca for Hearn students and scholars. We can see and touch the actual paper Hearn wrote on, letters, manuscripts, and notebooks, and we can have photocopies made from any material that is not too fragile to be handled. Much of the collection has been recorded on microfilm, but much has not. In Japan there are only three places which have microfilm sets of the collection purchased from the Alderman Library: Kobe Shoin Joshidaigaku, Kumamoto Daigaku, and Shimane Daigaku. However, in order to see the real material and the many items not yet microfilmed, you must visit the University of Virginia Library. Once you are there, it is not difficult to see the materials in the Hearn Collection. In fact, the regulations are rather simple and straightforward. There are only three basic rules: 1. Researchers are asked to fill out a brief form and show a photo I.D. (such as a driver’s license, a passport). 2. Only loose paper, pencils, and a laptop computer are permitted in the reading room. No bags, envelopes, folders, notebooks, tablets, or containers of any type are permitted.

Lockers are provided to secure your belongings. 3. Paper is provided by the department for researchers. Laptop computers and other mechanical research tools are permissible provided that their use does not disturb other researchers (from Special Collections Library home page). Before you go into the special reading room with your laptop computer, you simply give your request to the librarian stationed at the desk outside the room. The request is simply a piece of paper stating the name and number of the box of materials that you wish to examine. You can leave the materials in the room when you go for lunch or a break, but at the end of the day all materials must be returned and checked.

When I visited the library several years ago in the summer of 2002, I especially enjoyed looking at Hearn’s manuscript letters and comparing them with the published versions edited by Elizabeth Bisland Wetmore to find the parts that she had omitted. From those manuscripts I was able to find a hidden side of Hearn’s personality that had been cut out from the public portrait of him.

For example, his bad-mouthing of important people and publishers, and his complaints about health or money. Today I would like to introduce the collection and take a closer look at the man who collected it and the story of why and how the collection came into being. In doing this, I hope to give a deeper impression of Hearn’s place in American literature.

2. What is in the Hearn collection?

The Hearn collection includes a wide range of materials by or about Lafcadio Hearn and his writings, both published and unpublished, partly preserved on microfilm, all housed in the same Special Collections Library. The types of materials are:
a. Manuscripts of published works, unpublished essays, and articles
b. Notebooks
c. Letters
d. Newspaper articles by Hearn (Japan Chronicle)
e. Newspaper articles and letters about Hearn and his writings
f. Photos, Fragments, etc.

The Homepage for the Special Collections Library calls it the “Finest Hearn collection ever assembled.” Joan Crane, the Curator of American Literature Collections when the collection was opened, writes:
In the Barrett Hearn collection are the original manuscripts of The Temptation of St. Anthony [Sento Antoni no yuuwaku], Exotics and Retrospectives [Ikoku joucho to kaiko], Kwaidan, and Glimpses of Unfamiliar Japan [Shirarenu nihon no omokage]; fragments of Two Years in the French West Indies [Futsu ryou Nishi indo shotou no ni-nen kan], Youma, Shadowings [Kage], In Ghostly Japan [Reiteki Nippon], Kotto, and Out of the East [Higashi no Kuni Kara]; forty unpublished essays and articles, seventeen notebooks ranging from the New Orleans period to the West Indies to Japan [Internet page says over 30 notebooks], more than 450 letters [Internet page says “nearly three hundred letters&rdquo], and Hearn’s holograph drafts of published articles. Five of the nine numbers of Ye Giglampz, described by Mr. Barrett as a Hearn rarissimum, are present (the only complete set known is in the holdings of the Cincinnati Public Library). The collection of printed works represents every publication: Hearn variant bindings, later editions, periodical printings, translations, inscribed association copies. This part of the Barrett Library devoted to Lafcadio Hearn’s works reflects one facet of Mr. Barrett’s extraordinary accomplishment as a scholarly collector.

In the display of these books and manuscripts at the Alderman Library of the University of Virginia, it is our purpose to draw back the attention of students, scholars, teachers, and readers to a figure in the literary history of this country whose importance has become obscured.

3. Who was Clifton Waller Barrett?

Clifton Waller Barrett was born in the US in 1901. Barrett graduated from the University of Virginia, Class of 1920 at 19 years old. He became chief executive of the North Atlantic and Gulf Steamship Company, Inc. During WWII he was Director of Sugar Transportation for the War Shipping Administration. He was a great reader and book-lover, but he started collecting books rather late [at 38 years old in 1939]. Even so, by 1950 he had a personal library that was considered outstanding among book-lovers in the US. Throughout his life he continued to spend a large part of his fortune on literary materials, slowly building up an outstanding collection of American literary material, including lesser-known writers along with the works of those who were already famous. He gave his entire collection to the university he loved, his alma mater, the University of Virginia.

He continued to support the library’s acquisition of rare American literary materials until he died.[From “A Brief Account of The Clifton Waller Barrett Library” Charlottesville, The University of Virginia, 1960, by Herbert Cahoon, Curator of Autograph Manuscripts, The Pierpont Morgan Library]

4. Why and how did the collection come into being?

We have the words of Mr. Barrett himself to tell us the details. “In 1939 … I [Clifton Waller Barrett] decided to amass a comprehensive collection of American literature-first editions and original manuscripts of American writers from the beginning of the Republic in 1776 to the present day. … Acquiring these milestone’s of a nation’s literary life became a full-time occupation. I retired from business to carry it forward….

At first, my efforts were devoted to forming collections of the great figures of American literature: Walt Whitman, Herman Melville, James Fenimore Cooper, Mark Twain, Poe, Longfellow, Emerson…. Early on, however, I began to realize the importance of so-called minor writers who fleshed out and formed the underpinnings of the nation’s literature….One writer who stood out in this group was Lafcadio Hearn.

His amazing originality, combined with the unusual beauty and quality of his writing had won praise from discriminating critics; however, in the years of World WarII and the decade following he was neglected. When I started to collect his works they were in modest demand, though prices of available material were quite high-due perhaps to his emergence as a cult figure and to the paucity of items on the market. My first purchase was … Some Chinese Ghosts (Boston 1887). I read these tales with increasing pleasure and immediately decided to collect more of Hearn. Soon, a respectable assemblage of his printed works was gathered, but little manuscript material was available aside from the occasional letter at auction which I added to my hoard. Influenced by accounts of this strange romantic life, I resolved to build a representative collection of Hearn’s printed works and original manuscripts most particularly.

My quest took me to Cincinnati and later to Japan, but the first rich strike came on a trip to New Orleans in 1954…. I visited many bookshops on Royal Street and lingered in an old print shop where the proprietor, learning of my interest in Lafcadio Hearn, advised me to call on a lady in the city who was the great-niece of Miss Leona Queyrouze, a Creole poet of New Orleans with whom Hearn enjoyed a platonic affair. [Barrett met her and purchased a signed copy of Some Chinese Ghosts, an inscribed-by-Hearn photo, etc.] When I returned to New York with these exciting documents and memorabilia, I quickly let it be known to various book sellers that I was definitely in the market for Hearn material. John Fleming, bless him, came to my office with a list of original Hearn manuscripts that had languished in Dr. Rosenbach’s vault for years. [Dr. ASW Rosenbach of Phila., whose house is now a modest but well-known museum in Phila.. It houses, eg., manuscripts for such outstanding literary works as James Joyce’s Ulysses, Charles Dickens’ Pickwick Papers, and Joseph Conrad’s Lord Jim.] These were principally manuscripts of Hearn’s Japanese books…. Needless to say, they were a major acquisition.

Some years passed before other important material was forthcoming. [Through the James F. Drake bookshop in NYC, Barrett purchased a large collection from Mr. Leon Godchaux (the Sugar King of Louisiana), a New Orleans native working for the Illinois Railroad who had spent many years collecting Hearn.]

The extent of the collection overwhelmed me as box after box arrived. More space would clearly be required to house it. [He rented an entire floor of a building on 46th St. New York City to keep the new books and materials.] … By serendipity and a series of fortunate coincidences, it had been possible to acquire a great collection of printed works and original manuscripts left by an extraordinary literary and artistic genius, Lafcadio Hearn.”
(From “On Collecting Lafcadio Hearn” by Clifton Waller Barrett, 1983)

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2 小泉八雲(ラフカディオ・ハーン) 2-1 小泉八雲の魅力

ハーン雑話

宮崎啓子(小泉八雲熊本旧居館長)
2006年(第8期)市民講座「ハーンを育んだアイルランドの風土と文化」(7回シリーズの第1回)
小泉八雲熊本旧居

 今日はハーンゆかりの人たちを通して、エピソードなどを紹介しながらハーンの人柄などのあれこれについて話したいと思います。

西田千太郎
 西田千太郎はハーンが島根県尋常中学校の英語教師として松江に赴任したとき、公私にわたってハーンを支えた人です。

 西田は松江で修学ののち上京し、約2年間苦学して中学校教員免許を受けました。その後兵庫県の姫路中学校、香川県の済々学館で教えたのち、請われて明治21年に島根県尋常中学校の教諭になっています。その2年後、ハーンとの出会いがありました。

 ハーンは西田の頭脳明晰、親切で人情味あふれる誠実な人柄にひかれて、二人の親交は西田が明治30年に36歳の若さで亡くなるまで続きます。西田は公的にはもちろん、資料収集、取材活動への協力、私生活の世話にいたるまでハーンに不自由を感じさせなかったといわれています。ハーンの長男一雄は『父小泉八雲』の中で西田について「松江聖人と噂されており、父が最も信頼した日本人中第一の友人である。父の日本研究に多大な援助を与えた人。日本の人情風俗においても懇切丁寧に説明を施した。」と書いています。

 明治25年夏、ハーンが約2ヶ月にわたって関西・隠岐方面を旅行している間に、西田は九州地方を旅行し、この手取本町の家に立ち寄り3泊して五高、水前寺公園、本妙寺などを訪れています。

 ハーンは熊本時代に執筆した『東の国から』を「出雲時代のなつかしい思い出に、西田千太郎へ」と献呈しています。熊本にも西田のような心を許せる友人がいたならば、ハーンの熊本時代も違ったものになっていたかもしれません。

藤崎八三郎
 旧姓を小豆沢といいます。島根県尋常中学校での教え子で、ハーンの作品『英語教師の日記から』の中に「今後わたくしの記憶に最も長く明白に残るだろうと思う」生徒の一人として紹介されています。ハーンが熊本に移った後もハーンを慕って文通を続け、資料提供の手伝いなどをしています。明治26年に卒業しますが、進路についてハーンに相談し熊本に訪ねてきたりもしました。

 明治28年9月、五高に入学しますが前年12月志願兵として入営していたため、出校しないまま休学し、翌年3月に退学しています。結局、陸軍士官学校に入り、職業軍人の道を選びました。この時、藤崎家の養子になっています。

 東京時代のハーンは、毎年のように家族を連れて焼津に海水浴に行き1ヶ月ほど滞在しました。明治30年の夏には藤崎も訪ねていき、ハーンのかねてからの念願であった富士登山に同行します。この登山からは『富士の山』という作品が生まれました。その当時ハーンは身体に少し衰えを感じていたらしく、富士登山はとても無理だと諦めていました。藤崎が「私が一緒に行きますから」といって周到な準備のもと、決行します。藤崎の手記によれば「一人の強力が先生の腰に巻いた帯を引いて、もう一人は後ろより押し上げやっと夕方8合目に到着。一泊して翌朝8時についに頂上に到着した」というような登山だったようです。

 藤崎は東京でもハーンを慕ってよく訪ねています。藤崎夫人ヲトキさんの回想によると、縁談はハーンの助言でまとまり、お見合いも小泉家の座敷で行われたということです。明治37年2月、日露戦争が始まり藤崎は満州に出征することになりますが、ハーンは家族ぐるみで送別会を開いています。9月26日、ハーンは戦場の藤崎に手紙を書き数冊の本とともに発送して、数時間後に心臓発作で亡くなりました。藤崎は「先生の最後となった手紙と贈ってくださった本と、それから先生の亡くなられたという知らせと同時に受け取って悲嘆に耐えなかった」と手記に書いています。この絶筆となった手紙は戦災で焼失しましたが、幸い木下順二氏が写真に撮ってあった原板があり、それを焼き付けたものがこの記念館に展示されています。

 ハーンの没後、上京した藤崎一家がすぐに家が見つからなかったので、小泉家の半分を借りて住んだこともありました。大正12年、熊本で済々黌高校の教師となって英語、地理を教えますが、晩年、本当は文学がやりたかったんだと孫たちに語っていたそうです。小泉時氏のお話では「藤崎さんが上京される際は好物のちらし寿司をつくってお待ちしたものでした」ということでした。

雨森信成
 あめのもり のぶしげといいます。1858年、福井に生まれました。藩校の明新館で英語を学び、更に横浜のブラウン塾で学んでおります。20代の後半から西洋諸国を遍歴し、30歳頃に日本に帰ってきたといわれています。

 ハーンの熊本時代にマクドナルドの紹介によって交際が始まり、ハーンにとって「真面目な、あたたかい、利己心のない友人」となりました。その優れた学識と語学力を生かして、ハーンの良き協力者となり、貴重な資料を提供したりして親交を深めました。ハーンは著書『心』を雨森に献呈していますが、「ある保守主義者」は雨森がモデルといわれています。

 ハーンの没後、アメリカの雑誌『アトランティック・マンスリー』に「人間ラフカディオ・ハーン」という追悼文を寄せております。ハーンをよく理解した友人として、作家としてのハーンの一面を生き生きと描写したすばらしい名文といわれるものです。その一節を紹介します。

 「ハーンは夜が遅いにもかかわらず、早起きだった。気が乗ると午前2時、3時まで書き続けた。初めて彼の家に泊まった晩に見たものは私の記憶に焼きついて、生涯忘れることがないであろう。私も夜は遅い方であったから、その晩も寝床で本を読んでいた。時計は午前1時を打ったが、ハーンの書斎にはまだ灯りがともっていた。低い、かすれた咳のような音がした。わが友が病気なのではないかと私は心配になった。それで自分の部屋から抜け出て彼の書斎に行ってみた。しかし執筆中には邪魔はしたくないと思い、用心深く少しだけ戸を開けて覗き込んだ。友は例の高い机に向かい、鼻をほとんど紙にくっつけんばかりにして、一心不乱にペンを走らせているところであった。一枚一枚と書き続けてゆく。しばらくして彼はふと顔を上げた。その時私は何を見たであろう。それはいつもの見慣れたハーンではなかった。全くの別人であった。顔がふしぎなほどに白かった。大きな眼がきらきら光った。何かこの世ならぬものと通じ合っている人のように見えた。」

ミッチェル・マクドナルド
 ハーンが来日した時、エリザベス・ビスランドの紹介状をもって横浜海軍病院勤務のマクドナルドを訪問して以来の友人です。ハーンが帝国大学講師となって上京してからは,東京と横浜とをお互いに行き来し信頼関係を深めていきました。マクドナルドは雨森とも親しく、二人はハーン一家と一緒に海水浴に行き、皆で楽しく一日を過ごしたこともありました。ハーンは子供のように喜んで、得意の泳ぎを披露したそうです。

 ハーンの没後は、小泉家の遺産管理人として遺族を支えました。ハーンの帝大講義録も彼の尽力で出版が実現しました。1920年横浜グランドホテルの社長に就任。生涯を独身で通したマクドナルドは、ハーンの長男・一雄を我が子のように可愛がりました。

 ハーンを支え、ハーンを慕い、ハーンが心を許した友人たちをとおしてみると、ハーンがいかに魅力的な人物であったかということに改めて気付かされます。

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4-2 清和文楽アイルランド公演

清和文楽アイルランド公演関係者感想集

アイルランド 安達 東彦

“花かご抱えて誰を待つ”で始まる「アイルランドの村娘」の歌を聴いたのが私にとって最初のアイルランドです。それから長い年月が経って、この夏私は、何故かひょっこりダブリンにいたのです。ほんの少し一夜づけの知識をポケットに入れて。ただし魔法にかかったわけではなく、実はちゃんとした目的をもっていたのです。ハーン生誕記念の協賛で「ハーン幻想紀行」なる個展のための取材旅行だったのです。そして同行された方々の好意で自由にスケッチができ、貴重な体験もしました。限られた日数でアイルランドがわかる筈がありませんが・・。ダブリン空港で清和文楽の道具「屋台」が紛失し新しく作ろうということになり翌朝、公演予定の劇場へ。ちょっと早く着いて待っていると舞台係のダブリンの青年がやってきて挨拶をかわすや「珈琲を飲むか」と聞くのです。今逢ったばかりの外国人と珈琲を飲むために街角に消えたのです。こんなダブリン気質!まず感動しました。

ハーンの父系の地アイルランドは・・“魂”がつく数少ない国のひとつでしょう。ダブリンの若者達の風貌やパブでの行動を見ていると感じるのです。アイルランド魂を。その風土の美しいこと、それも“人工”を抑えた風景に人々の姿の溶け込む様は。例えばある日、緑に囲まれたブラーニー城を背に新婚のカップルが二組記念撮影です。淡い単色のドレスの新婦と取り巻き、それぞれの表情がまさしく森の妖精。実はその夜のホテルは偶然彼らと同じでした。二組のパーティは当然別々のホールでしたが、食事を終えてロビー近くに行くと、何かさっきと雰囲気が違うのです。なんと彼らは踊りながら合流していたのです。何もかも自然なのです。ハーンはこの素敵なアイルランドを離れたのです。不幸な事情があったようです。複雑な想いが彼にもあったのでしょう。古き良きものを大切にし、質素で自分達の在りようをわきまえ、人生を楽しむ術を知っているアイルランドの人達。いつの日か、ロック・オブ・キャシェルの下の小路でバラを描いている絵描きと逢うかもしれませんよ、皆さん!

出会いに感謝 吉田 春代

あれから二ヶ月余りの月日が過ぎただけなのに、遠い日の出来事だったのか、楽しい夢を見ていたのだろうかと、不思議な想いで、今秋風に身をゆだねています。

旅の記念にと求めたグレッグ・アーウィンさんの日本の歌のCDを聴いていると、映画のスクリーンのように、アイルランドの風景や、出会った現地の人達の顔、そしてご一緒した皆さんとの楽しい会話までも鮮明に思い出すことが出来るのです。なぜ、アイルランドで日本の赤とんぼを、アメリカ人のグレッグさんが歌うのに違和感がないのか、ぴったりと馴染んでバックミュージックとなり私の脳に記憶しているようです。道中、彼の気遣いにみられたやさしさや温かさ、その人のハートが伝わるから心に響くのだということを、今更ながら学ばせて貰いました。

私はこの度太夫を務めましたが、未熟な芸ゆえに申し訳なさを感じています。今年三月、「むじな」の詞に曲をつけろとのいうご依頼を受けたものの、全く初めての経験で産みの苦しみでした。登場人物をどのかしら(頭、人形の首)にするのか、村の情景をどんなふうに表現しようとか、イメージを膨らませるまでの、のた打つ日々、ニ幕構成ではあるものの、ストーリーの展開の早さに間が持てず、ましてや、言葉の通じない異国の地で、そっぽをむかれないためにはと苦肉の策が、アイルランド民謡の庭の千草を、忠兵衛に唄わせて登場させることでした。古典芸能ゆえに、とんでもないことをやるとお叱りを受けるであろうけれども、あのメロディに耳を傾け現地の人が喜んでくれたことに免じてお許しを得たいと思います。多分、庭の千草を太棹三味線にのせて義太夫に唄ったのは、私が世界で初めてではなかろうかと、ひそかに自負しています。

異文化を温かく受け入れてくれたひとびとと心が通じ合えたことは最高の喜びであり、すべての出会いが偶然ではないことを感じずにはいられないのです。このようなすばらしい体験をさせていただいたことを私の財産とし、清和文楽海外公演を支えてくださいました多くの関係者の皆様に、厚くお礼を申し上げます。最高の感動と思い出をありがとうございました。

楽しい思い出 河田 知栄子

今年は、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の生誕150年祭に当たり、熊本アイルランド協会の協力で清和文楽が行くことになり、海外公演と聞いて、まさかと思った。主人の海外旅行の時も行かず、長男一家がギリシャ・アテネの日本人学校に三年間いたときも行かなかった私です。冗談に文楽人形となら何処までも行くと言っていたら、本当のことになり、主人に相談したら、文化交流の目的があるのだろうし、言葉はわからないだろうが、身振り手振りで理解されるように頑張って来いと勧められ、私で良いか迷いましたが、行くことにしました。後に残って文楽をされる人達も大変だろうと思いました。

清和文楽が演じる外題は、怪談「むじな」に決まった。保存会の中で、6人が行くことになり、むじなの段、蕎麦屋の段というハーンの怪談もので、脚本家の土居さんが来られて、話が進み人形をすることになり、土居さんの指導で練習が始まった。語りの吉田春代さん、三味線の長迫紀子さんの義太夫にあわせて練習も徐々に進み、土居さんのアドバイスを受け忠兵衛の着物がどうか、町人風のようで合わないとの事で、着物選びが大変でした。探して合うのが見つかり、練習に入り、何回となく練習をし、いろいろと苦労もありました。鶴屋デパートで出発式があり、いよいよと思いました。初めての海外公演に不安もあり、知らぬ人と会う心細さに迷い、だが皆さんの助けを借りて無事アイルランドに着きました。公演前には小道具の蕎麦屋の屋台が無くなり、いろいろの方の屋台作りは大変だったでしょう。一回目のチボリ劇場のすばらしさにビックリしました。文化の違い、日本の着物の人形が外国の人にどう映るか、理解されるか心配でした。公演が始まり、一心になっていたところ、拍手があり、いっぺんに不安も取れました。上演後客席に出てのふれ合い交流タイムで、言葉はわからないが、笑顔を見て喜びの表情を見ると心がじんとして、はるばる遠いところまで来てよかったと本当にうれしかった。二回目の公演、三回目の公演と歓迎され、いろいろの人達と出会い、接することができ、初めての海外で、みんなに喜ばれるとは夢にも思いませんでした。楽しい思いを胸に、帰国の途中、フランスに立ち寄り、パリを一日見て歩きました。歴史と文化を感じる国でした。

今思うと、これまで海外旅行に行かなかったことが、悔しくなります。不安だった海外公演が拍手の中に終わり、皆様方のお陰で無事帰国できました。見知らぬ人達に巡り会い、楽しい思い出が出来ました。私の清和文楽人形保存会にいたことは、一生の宝物です。しかし、今迄続けてこられた清和文楽を守って、苦労と努力をされた先輩の方々に感謝します。

これからも私達は頑張って、次の世代に伝えることをしっかりと身につけていきます。下手な文で終わります。

一生の思い出 高木 サナエ

アイルランドに行って、三ヶ月に入ろうとしています。行くまで、長い旅ですのでどうしようかと考えてしまい、止めようかとも思いましたが、一生に一回くらい海外旅行に行くのもいいかもしれないと、やっと行くことにしました。

7月2日から福岡に一泊して9日間アイルランドに行き、一生の思い出になりました。長い旅をして、行ってみたら、一日が早いし、整理と準備で夜は遅いし、朝は出発が早いし、毎日楽しい旅でした。アイルランドの人達は、みんないい人ばかりです。しかし英語ですから言葉がわかりませんでした(ノーとサンキュウだけ)。熊本に帰ってから、多くの人に「テレビで放送がありましたよ。良かったですよ。」といわれました。

アイルランドでは、旅行社の大竹さんの言葉に従って、一日を有意義に過ごし、石の建物が見事にできて、石の所で仰向けになって石を眺めていました。あれが一番思い出で、下を見るととても怖ろしくなり、気分が悪くなりそうです。でも人がいっぱい並んでしているので、私もやってみました。人が多いのにも驚きました。海外は広いところで、人の影もなく、みんな何をしているのだろうと思いました。

文楽の道具を持って行ったのに、蕎麦屋の屋台が無くなり、大変心配していましたところ、絵を描かれる人がいらしたので、きれいにボール箱で作ってもらいました。屋台がないと「むじな」ができなかっただろうとおもいます。皆様のおかげです。海外にまで行くなんて、思いがけないことでした。

参加してよかった 松田 信雄

清和文楽アイルランド公演が決定、不安と期待が交差する中、連日の様に練習が始まった。報道関係者も毎回のように取材に来られる。仕上げも終わり一路アイルランドへ、着いたのは良いが、舞台装置の一部(麦屋屋の舞台)が途中で紛失、支配人他スタッフも困り果てておられた。するとそこに現れいでたる安達先生(画家)、すかさず何かお手伝いしましょうかとの救いの声。ホテルに着いたのが7月3日21時30分。部屋割りも終わり床に着いたが、やはり眠れず安達先生に電話する。すると今から屋台作りについて協議しましょうとのこと。その時すでに午前0時をすぎていた、何で作るか、どこから品物を調達するか等々、午前2時までかかり打ち合わせは続く。翌4日、午前9時チボリ劇場到着、直ちに前田さん(現地の演劇研究家)に説明し、ダンボール調達に回ったが適当な材料が見つからず、探す当てもなく、困り果てていた。すると、チボリ劇場のボランティア(女性)の方がワゴン車で大きなダンボール数枚を持ってこられた。ありがたやありがたや、直ちに屋台作りに取りかかる、色を塗り、本物そっくりの屋台が出来上がる。勿論この屋台を作るのに必死で協力されたチボリ劇場のスタッフ(男性)の方、部品及び材料調達など手伝ってくださった方に再度会ってお礼を言いたい気持ちでいっぱいである。できたら是非日本へ遊びに来て欲しい。

最後にこの企画を立案された方々に心からお礼を申し上げ皆様の今後のご健勝をお祈り申し上げたい。

行くまでが心配 飯星 勉

アイルランドツアーの皆様大変お疲れさまでした。皆様方にはたいへんお世話になり厚くお礼を申し上げます。私にとりましては、一生忘れられない海外旅行でした。

この度の海外公演にあたり、まず心配したのが十日間という長旅です。体は大丈夫だろうか?あまり体力に自信が無く不安でした。次に文楽についてです。日本で公演していても、なかなか解りにくい文楽が、果たして海外の人に解ってもらえるかという点でした。練習の方は、二ヶ月ちょっとやりましたが、最後の方が一週間位前までなかな決まらず、何回もやりました。7月2日いよいよ村を出発、博多で一泊。私にとりましては、初めての海外。不安と期待で複雑な気持ちでした。飛行時間の長いのにはまいりました。ホテルへ着いた時は、ぐったりで、これから十日間どうなるやらと体の方が心配になりました。しかし、初日は早く目覚め、さあ今日から私達の文楽が海外で試されるのだと思うと少し緊張しました。午後チボリ劇場へ着いて、ここが海外での初舞台です。うまくできますようにと祈りながら、リハーサルに臨んでいるうち、舞台は狭いがどうにかなるだろうと思いました。いよいよ本番。あがってはいませんでしたが、最大の難関、蕎麦屋から鬼に変身する場面になり、カシラ(人形の首)の付け替え場面で、どうしても所定の所にはまらず、これはやばいぞとおもいましたが、はめていたら間に合わず、このまま行くしか仕方がないと思い、何とかわからぬように出来ましたが、冷や汗をかきました。

終わってアイルランドの人々にも言葉は通じなくても理解してもらえたのではないかということと、あの拍手には驚きました。ホテルへ帰り、皆と一杯飲みながら、カシラの話をしたら、誰も気付かなかったそうです。自分としては、一番気にしていたことが上手くいかず、失敗でした。二回目からは失敗もなく、上手くできホッとしました。この三回の公演で、何処の会場でも言葉はわからなくてもわかって貰うことが分かり、今後も海外公演が入ったら、どんどん出ていって、海外交流を深めるべきだと思いました。最後にアイルランドという国は、本当にすばらしい国だと思いました。高い建物が無く、また高い山もなく、街もきれいだし、日本食さえあれば、住んでみたいと思いました。最後にアイルランド協会の皆様はじめ、多くの方々にたいへんお世話になりましたことを厚くお礼申し上げ、皆様のご健康とご多幸をお祈り申し上げます。

脚色者から 土居 郁雄

BSでアイルランド公演の模様を拝見しました。

バカ受けに受けてましたネ。子供の喜ぶ様、会場の熱気とどよめき。このことをヘボ脚色者として多としたいと思います。

脚本など書いた経験がない私。果たして向こうで理解していただけるだろうか。そればかりが心を支配していました。しかし、放送を見た時、杞憂に過ぎなかったことを知りました。座員の方々が真摯に、この継ぎ接ぎだらけの作品に取り組もうとされるお心が通じたのでしょう。無償でなければ、私もお話をお引き受けしなかったかもしれません。

ところで、今回初めて海外旅行される方も居られると聞きました。加えて少しお年召していらっしゃる。お疲れではないか。知人との友情で筆を執ったものの、座員の方々にとって却ってご負担ではなかったか。様々なことが頭を去来していました。

その素晴らしい演技に工夫をくわえた演出で、感動の嵐を起こされていた頃、私は奥飛騨に居ました。知人で名古屋のからくり人形師・九代玉屋居庄兵衛師らと共にその作品の群に触れ、日本文化を再認識していたのでした。

しかし、片時もアイルランド公演のことが頭からはなれません。こんなことだったら行けばよかったと臍を噛みましたが、機会があえばまた行けると心を慰めました。結果的には大成功をおさめられ、意気揚々と凱旋。電話口から「皆無事に日本へ到着しました」と、前館長の渡辺民雄さんの明るいお声。

安堵したのと同時に疲れが吹き出し、暫く放心状態に陥ったことです。今後はこの経験を生かされて、再度海外公演に挑んで頂き、世界を舞台にご活躍をとお祈りします。また、今回の「むじな」は、一幕二場構成ですが、今一場加えて抑揚のあるものに仕立てたいと念願しております。

マルティニーク寸描 中村 青史

小泉凡さんから渡された資料をまず紹介しょう。「マルティニーク島について」より。

「カリブ海、小アンチル諸島中部に位置する。面積は約1,100平方キロ(東西約30キロ、南北約80キロ、淡路島の約2倍)、人口約35万人。気候的には熱帯サバンナ気候。年平均26℃。県都はフォール・ド・フランス(人口約5万人)。

17世紀までは、南米大陸から渡来したアラワク人やカリブ人が居住。17世紀以後、フランス人が彼ら先住民を絶滅させ入植を始める。その際、西アフリカのさまざまな地域から黒人奴隷が運び込まれ、サトウキビのプランテーション経営が行われた。しかし、1848年に奴隷制が廃止されると、インドから契約移民を補充し労働力を確保した。1902年にはピレー山の大噴火でサン・ピエールの町が絶滅。以後、島の中心は、フォール・ド・フランスに移る。1946年、マルティニークはフランスの海外県となり急速に近代化が進み、1970年代には農業人口12%に対し、サービス・商業・観光業の人口は70%に達した。現在、GNPの一人あたりの平均は4,000ドルとカリブ諸国ではトップクラスに位置する。」

パリはオルリー空港から直行便でマルティニークに降り立ったのは、すでに日没近い頃であった。空港からホテルまでのマイクロバスの中で日は落ちた。砂糖キビ畑と林と車の渋滞、林の中に牛がいた。砂糖キビ畑を見たのは、二泊三日の短い旅程の中でではあったが、そこだけだった。かっての砂糖工場も見当たらなかった。第一農地らしい農地がなかった。いや農地の多くはバナナ畑であった。砂糖キビは今やラム酒の原料だけなのかも知れなかった。農業人口12%というのもうなずける。サン・ピエールの町は、ハーンが滞在した頃の美しい町ではなかったが、そしてかって大繁盛した港も無かったが、それでもこぢんまりとした町で、火山記念館があり、ハーンが撮影した噴火前の町並みの写真もあった。この町の入り口ともいうべき、またコロンブス上陸地点ともいわれているカルベにはゴーギャン美術館があった。赤い屋根の花に囲まれた瀟洒な建物であった。赤い屋根といえば、岡の上から見たサン・ピエールの町も、みんな赤い屋根であり、紫紺のカリブ海と緑の山の間にあって、おとぎの国のようであった。

マルティニークの島は、少なくとも1ヶ月は居たい処であった。それにしても小泉凡さんのお陰で今回の旅は楽しむことができた。本当にありがとうございました。

清和村の「むじな」 西 忠温

ソウル空港からエア・フランスでパリへ向かった。二度目のダブリン行きである。今回も三年前同様、家内同伴であった。機内食にキムチが出たのは意外であった。パリでの乗り換えで例のごとく待たされた。四時間ほどであろうか。当の空港職員はいつもの事だの顔をしていた。すまないという風は微塵もない。結構なお国柄である。その間、清和文楽保存会長の平田さんから面白い話をうかがった。清和村に「むじな」が生息しているという。初耳であった。狸の一種だそうで、人里離れた山間地にいて、狸ほど臭くないという。一度見てみたいものである。その清和の人達がアイルランドで小泉八雲の「MUJINA」を演じようというのである。

やっとバスで駐機場まで来てみると、機内清掃中。おまけに、村の人たちが苦労して運んできた舞台用の屋台は行方不明であった。

ダブリンではちょっと早起きしてホテル近くの運河沿いに家内と散歩を楽しんだ。今では使用されていないもので、ドッグもきちんと保存されていた。いよいよ初演の日である。市内観光の後、夕方近くからチボリ劇場へ足を運んだ。300人を越える地元の人が集まっていた。何が演じられるのか、興奮気味の表情がみえた。美術家の東京の安達さんが中心になって急ぎ作られた屋台が舞台の袖に控えていた。出だしで歌った太夫の吉田さんのご当地ソング「庭の千草」が良かった。のっぺら坊の代わりに鬼女を使ったのも当たった。あの頭の方が外国人にはわかりやすかったと思う。この怪談には二度びっくりの仕掛けがあり、観客の反応から改めてその効果に気づかされた。短い時間であったが、初めての海外公演での堂々たる演技は大したもので、清和の皆さんは一流の国際人だ。文楽と八雲が取り持つ立派な国際交流であった。

公演の後、ダブリン・ラジオテレビ局のフィニー御夫妻が兼瀬村長以下を市内で一番古いパブへ招待してくださった。おふたりは今春熊本を訪ねていらっしゃる。この場を借りて、御好意にお礼申し上げたい。

翌日は中島団長御夫妻、小泉凡先生ら10名でパリからカリブ海に浮かぶ孤島、マルティニークへ7,000キロを8時間かけて飛んだ。八雲が1887年から2年ほど、ちょうど画家ゴーギャンがいた頃滞在したフランスの海外県である。傑作 「ユーマ」はこの地での見聞から生まれている。ここでの体験は別の機会に譲りたい。

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4 イベント 4-4 ハーン・ワークショップ

Lecture and Study in Cincinnati and New Orleans, July and August 2001

Alan Rosen

This summer I was honored to be asked to speak on Lafcadio Hearn at the Public Library of Cincinnati and Hamilton County in Cincinnati, Ohio, the city where roughly 130 years ago this lonely and very hungry, half-Greek half-Irish boy discovered his talent as a writer and consequently changed Japan.
For me, visiting Cincinnati was especially interesting since, although I had grown up in the United States, I had never been there before.
It was the first of many “firsts” for me on this brief (one-week) but very full lecture and study trip together with about 30 enthusiastic members of the Lafcadio Hearn Society of Japan.
Though I have known the Society’s president, Professor Zenimoto, and the Kumamoto Hearn Society members for years, I was fortunate to be able to make the new acquaintance of many Hearn lovers from various parts of Japan — from Shimane and Tokyo, of course, but also from Toyama and Yamaguchi.

The speech I presented was one hour long on the topic of my recent research, Hearn and Dreams.
The weather that day was quite hot and humid, but the Library’s lecture room was very cool and comfortable. This was good and bad, I realized, as the combination of jet-lag for the Japanese listeners (it was 4 a.m. Japan time), the topic (dreams), and the extraeffort required to comprehend an academic talk in English created a nearly irresistible temptation for the Japanese audience to fall asleep. Which many of them did. Still, it was a rare pleasure for me to be able to speak about Hearn in my mother tongue and in the city of Cincinnati, about which I had read so much through Hearn’s writings.
My only concern was that I try to speak slowly enough for the Japanese members to keep up, but not too slowly so as to bore the native-speaker listeners.

There were many surprises. The first such surprise was the luxuriousness of the hotel room I was given at the Garfield Suites: apent house suite, two floors, two very spacious bedrooms, three bathrooms, a big kitchen with everything you could want including a dishwasher, and two balconies from which to enjoy views of the city.
This hotel room was largerthan my house in Kumamoto. Everyone who saw it said, “Mottainai”. I owe thanks to Dr. Tanaka and his family and to Sylvia Metzinger, the Rare Books librarian, for arranging this and many other things so perfectly.
In Cincinnati we had a custom bus-tour of the city, focussing on places related to Hearn’s life and writings.
Many of the buildings and houses are,of course, no longer standing, so it was interesting to watch many members of our tour group –including me– taking numerous photographs of empty spaces and parking lots and buildings that no longer have anything to do with Hearn except that they may be standing in a spot where we think Hearn used to do something.
Still, it was exciting to be in the same places Hearn had been.

The group’s next visit was to New Orleans. It was my first time there, too. I was dreading the heat, for it is supposedly one of the hottest cities in the US. But compared with summer in Kumamoto, it was not so uncomfortable at all. There was usually a good breeze, a tolerable level of humidity, and once you were in the shade, it was quite pleasant.
I enjoyed nearly everything about the city, and I felt I knew why Hearn had decided to live there so long.
It had polite and friendly people, excellent food (cajun and creole), charming architecture (French Quarter), live music (cajun and dixieland), and a special Southern atmosphere (full moon over the Mississippi River, a steamboat gliding down).

Our visits to the Tulane University Library, with special permission to access their collection of rare Hearn materials, were especially fruitful.
There was an abundance of manuscripts and other material that is very hard, if not impossible, to find in Japan. The staff seemed prepared for our arrival, as they were extremely helpful, kind, and tolerant of our sometimes noisy group of 30 excited visiting researchers. I did not know when I could get another chance to visit Tulane, so I thought it best tospend the entire day looking through the materials and copying, copying, copying.
My suitcase got very heavy, but I am content that I can now spend time leisurely reading over the thick stack of Hearn papers I brought back to Japan.

It was also enjoyable to be part of a Japanese tour group, not in Japan, where I have joined such tours, but in my own country.
This was another first-time experience, and I learned a lot from watching the two cultures interacting.
I was reminded that knowing the language of a countryis only the first step in intercultural communication, and that all of us who participate in the fascinating activity of crossing cultures need to continue our efforts to understand and to be understood. Wherever we went,Hearn was with us in spirit, as we all tried to be cross-cultural bridges for understanding.