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2 小泉八雲(ラフカディオ・ハーン) 2-3 小泉八雲の生涯

ラフカディオ・ハーンと移民

西川盛雄(熊本大学名誉教授)
2009年(第11期)市民講座「ラフカディオ・ハーンとアイルランド文化」(5回シリーズの第5回)
小泉八雲熊本旧居

 ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は19歳の時(1869年)にイギリス北西部の工業都市リヴァプールの港からアイルランドの移民船に乗ってアメリカに渡っていった。着いた処はニューヨークでその後列車でシンシナティに向かっている。この船は大西洋を横切るに際して棺桶船とも言われ、乗船はしたものの航海途中で沈没したり、飢えや病気で多くの人が船中で死に、やっと目的地に着きはしたもののその有様は凄惨を極めた。 
 ハーンは1863年9月、13歳の時にダラム州アショーにあるカトリック系の聖カスバート神学校に入学した。両親の離婚により孤児となったハーンを将来カトリックの聖職者にしたいと考えた後見人の大叔母サラ・ブレナンの意向に沿ったものであった。16歳で学校で左目を失明した上、この大叔母が近親のモリヌーの投機事業に参画して失敗し、財産を失う。その結果として大叔母はハーンの学費支援ができなくなり、翌年にはハーンは17歳で退学を余儀なくされる。その後1867年秋から1868年まではかつて大叔母に仕えていた奉公人の伝手でロンドンに出て働くがここでの生活は身の置き場の無い悲惨な有様であったという。
 ロンドン滞在中のイギリス王朝はヴィクトリア女王の時代であった。この時代、イギリスは十七世紀以来の大航海時代と十八世紀以来の産業革命の遺産によって大いに栄え、都市化が進み、富裕層はますます富を増やし、貧民層はますます貧しくなり、両者間の格差が大きく開いていった。そして大英帝国の国力が増す反面、社会の底辺では出稼ぎの他民族の流入があり、スラム化が進み、人々のモラルも歪んでいった。ハーンはこの時、当時の西洋文明の代表格であるロンドンの場末や裏側にある社会の不条理をつぶさに体験し、その闇の部分をみていたのである。
 ハーンはこの理不尽さに満ちたロンドンを抜け出し、何とか新しい世界への脱出を図ろうと願っていたとしても不思議ではない。彼なりの旧世界を捨てて新世界に向かう志は抗うべくもないところまで来ていた。ハーンにとって<旧世界>とはロンドンのような文明の確立された強く大きな西洋であった。<新世界>とは未知の神話や豊かな自然の溢れた非西洋であった。時丁度アイルランドの人々はジャガイモ飢饉の後、本国で食べていけず、移民船に乗って祖国を脱出、新天地であるアメリカを目指していたのである。アメリカからすれば、当時南北戦争後奴隷制度が廃止され、西部開拓の波に乗って鉄道敷設や町の建設など、多くの労働力を世界中から移民として呼び込んでいるさ中であった。
アイルランドの歴史は対イングランドとの関係の在り方が反映されている。イングランドはすでにヘンリー二世の時期、1171年にアイルランドに侵攻している。16世紀の後半にヘンリー八世が英国国教会を作り、王権がローマ法王権から独立した権限を有するようになった。娘のエリザベス一世もこれを踏襲した。大航海時代のイギリスの勢力拡大に伴って英国国教会の力も大きくなった。17世紀半ば、清教徒革命を率いたオリヴァー・クロムウェルは王を処刑した勢いのままアイルランドに侵攻、この地を徹底的に破壊した。その後の名誉革命を果たしたオレンジ公ウィリアムもまたアイルランドには厳しい統治を行い、宗主国イギリス、属国アイルランドという構図を作り上げた。当然のことながらアイルランド側からは恨(はん)の情とケルトの誇りを籠めてイングランドに対抗し、古来からのケルト文化を守り、自治の権利を求め、やがて国権の独立を求めて各種自立への運動が起こってくるのである。深刻なジャガイモ飢饉が発生したのはそんな中、1845年から1848年頃にかけてであった。それでも宗主国イギリスはアイルランドからの食物輸出を禁ずることはなく、飢饉にあって食料は依然として海外に流れ出たままにしていた。加えてイギリス国教会のアイルランド・カトリックへの宗教的支配、さらには土地法など政治的・社会的圧迫は止むことはなかった。その結果として多くのアイルランド人の生活は破綻し、祖国を離れ、新興の「新世界」に向かって「脱出」することを余儀なくされたのである。
 ハーンは父方よりアイルランドの血を引いている。幼い頃は両親離婚という憂き目はあったにしても大叔母は破産前はハーンを大切にして、トレモアの別荘や北ウェールズのバンゴールやカナフォンに連れて行ってくれ、教育も家庭教師をつけてそれなりに大切にしてくれた。そしてアイルランドの伝説や民話、歌謡や音楽や踊りに触れて必ずしも負の不愉快な思い出ばかりではなかった。イングランドのダラムやロンドンで経験したこととは対照的にアイルランドの庶民の人々に心を寄せながらハーンはアメリカ行きを決心したとしても不思議ではなかった。かくしてハーンは19歳で移民船に乗ってアメリカに行くことを決意し、ヨーロッパを記憶の中に生涯にわたって封印したのである。
ハーンは渡米の後ヨーロッパを背後にしたまま二度と訪ねることはなかった。「父」に繋がるヨーロッパを捨てたのである。パトリックというアイルランドに繋がるファーストネイムは捨て、ラフカディオというギリシャと「母」に繋がるミドル・ネイムを生涯保持した。筆者は<名>を捨てるというこの心理的節目を「断念」としておきたい。この頃ハーンは絶望の中で辛くも耐え、理想ではなくニヒリスティックなリアリズムが働いていたと考えられる。このニヒリスティックなリアリズムはアニミズムの世界に繋がっている。ハーンがゴースト的、霊的な実在にコミットして『怪談』など後に再話文学を創作していく所以である。
 思うにハーンは楕円を髣髴とさせてくれる二焦点モデルで説明できると思われる。一つの焦点はバーナキュラーな土着的、風土的、神秘的な視点である。これはこの世ならざるゴーストや妖精の世界に繋がる。ハーンの「三つ子の魂百まで」の世界を形成していたギリシャやアイルランドの土着的神秘主義的世界は民俗学的な世界に繋がっている。これはその土地ならではの文化の力となるものである。今一つは合理的、科学的な視点である。ハーンが記者として科学評論の記事を多く書き、教え子や息子一雄の将来についてのアドバイスは実学、実用的な仕事につくように勧めているのはこの視点が働いていた結果である。そしてこれは国境を越えるグローバルな文明を作り上げる力となるものである。西洋文明とは概ね後者の合理的、科学的な視点を機軸として築かれたものであった。これに対して非西洋とは土着的、風土的、神秘的、そして神話的な視点を機軸として成り立っている。ハーンはこの二つの焦点が鬩ぎ合いながらどちらかといえばギリシャやケルトの文化に繋がって言葉(作品)を発していったのである。このように考えるとハーンの移民船による西洋(ヨーロッパ)脱出は非西洋(クレオールのフランス領西印度諸島のマルティニク島や日本)への積極的な門出の一歩であったように思われる。

西川盛雄氏(2009年11月14日)
西川盛雄氏(2009年11月14日)

市民講座の様子(2009年11月14日)
市民講座の様子(2009年11月14日)

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1 お知らせ 1-1 イベントのお知らせ

市民講座「ラフカディオ・ハーンと移民」開講のお知らせ(終了)

本講座は終了しました。本講座の記事はこちらをご覧ください。

「ラフカディオ・ハーンと移民」と題し、西川盛雄氏による市民講座を開講いたします。受講申し込みは不要ですので、お気軽にお越しください。

日時:2009年11月14日(土)14時~15時30分
場所:小泉八雲熊本旧居 (熊本市安政町2-6 鶴屋百貨店裏)
講師:西川盛雄氏(熊本大学名誉教授)
講座:「ラフカディオ・ハーンと移民」
申込:不要ですので、お気軽にお越しください
受講料:受講料は無料ですが、旧居入場料(高校生以上200円、小・中学生100円)のみご負担願います
お問い合わせ:当協会事務局 096-366-5151

熊本アイルランド協会事務局

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3 アイルランド 3-8 アイルランドの教育

アイルランドの教育 ~その歴史と現状~

和田英武(崇城大学非常勤講師(元教授))
2009年(第11期)市民講座「ラフカディオ・ハーンとアイルランド文化」(5回シリーズの第3回)
小泉八雲熊本旧居

 こんにちは! 崇城大学非常勤講師の和田です。本日は、表題のようにアイルランドの教育、特にその初等及び中等教育について話をさせて頂きます。

1 我国におけるアイルランド研究について
 アイルランドは、日本から見るとイギリスのさらに西の方にあり、我国ではあまり知られておりません。しかし、我国では戦前からアイルランドについての研究は進められていたんですね。それは、日本が日清・日露戦争の頃より大陸進出をして、多くの異民族を日本帝国の中に抱えるようになり、それらの民族を如何にうまく統治していくのかということが当時大きな課題となっていたからです。すなわち、その課題を解決するために、我国は、当時の大英帝国のアイルランド統治から何かを学ぼうとしていたのです。このアイルランド研究の大半は、日本帝国主義政策を推進するものでしたが、戦後、東大総長になられた矢内原忠雄氏(1893~1961)の研究は、当時としては珍しいアイルランド人の側に立つ研究であり今日でも高く評価されています。皆様も何かの機会に氏の著作を読まれると良いと思います。

2 イギリスの植民政策により苦しんだアイルランド人
 本日のテーマは、アイルランドの教育についてですが、その前に教育の背景の1つである「イギリスの植民地としてのアイルランドの歴史」について簡単に触れておきます。
 アイルランドは、12世紀のイギリス国王ヘンリⅡ世(1133~89)の頃よりその支配を受け、その後数多くのイギリスの国王や支配者によって侵略を受け植民地化されました。その中でも特にオリーヴァ=クロムウェル(1599~1658)の侵略は激しく残酷だったと言われています。彼は、我国の高校の世界史では、清教徒革命の指導者、近代化の祖、正義の人として英雄視されています。しかし、アイルランドでは極悪人として全く反対の評価を受けています。いずれにせよ、イギリスによる支配は過酷でアイルランド人はカトリック教の信仰を禁止され、土地を奪われ貧困と差別に苦しみました。
 1800年になるとイギリス・アイルランド連合法が成立し、翌年、アイルランドは法的に完全にイギリス帝国に併合されてしまいました。併合した後のイギリス政府は、懐柔策と弾圧策を繰り返しながらアイルランドを支配してきました。これに対して、アイルランド人は、次第に組織的な抵抗運動を行うようになってきました。その先駆けをなした人物が、ダニエル=オコンネル(1775~1847)という人物です。彼は、いわばアイルランド独立の父とでも言える人です。現在のダブリン市の中央の大きな通りをオコンネル通りと呼び、その中央に彼の大きな像が建っています。彼は、今でもアイルランドの多くの人々から尊敬されています。
 1845~48年には有名な大飢饉がアイルランドを襲い、ただでさえ苦しかったのに一般庶民の生活はますます苦しくなり、彼らは塗炭の苦しみを味わいました。その時約100万人が死亡し、約120万人が外国へ移民したと言われています。このような状況の中で特に悲惨だったのは、19世紀半ばころに約10万人もいたと言われている小農民たちでした。彼らは、15エーカ以下の借地を持ち、農業や漁業及び海藻集めなどに従事し、生計を移民した子どもたちからの送金で補い、重い地代を払っていました。もし、地代を払えなければ、追い立てを受けました。最近のアイルランドの高等学校の歴史教科書には、多数の警察を伴った地主による追い立てを受け、家から引きずりだされる農民の姿が描かれています。その姿はあまりにも悲惨であり、それを見るとき我々は涙せずにはおれません。
 このような状況のもと、その後数多くの民族独立運動が頻発するようになりました。まさに、19世紀後半以降はアイルランドにとって自治権獲得ないしは民族独立運動の時代であったと言えるでしょう。その中で特に有名なのは、非合法的な独立運動を行ったIRB(アイルランド共和兄弟団)の武力団であるフィニアン(Fenian)たちでした。彼らは、他の集団と共に1916年にイースター蜂起を決行し、1919~21年には独立戦争を戦いました。彼らの長い苦しい戦いの末、アイルランドは遂に1922年に自由国となりました。しかし、その後も内乱が続きました。それをなんとか克服したアイルランドは、ようやく1949年にイギリスから完全に独立を遂げることが出来、今日のアイルランド共和国の誕生に至ったのです。

3 昔から教育に熱心だったアイルランド人
 アイルランド人は、昔からとても教育に熱心だったと言われています。例えば、アイルランドでは、既に6世紀ころから吟遊詩人学校や修道院学校が発達していました。この中でも修道院学校は、数も多く当時「西欧世界の教育センター」と呼ばれていました。
 その後16世紀から19世紀前半にかけて、イギリス国王や議会の息のかかったいろいろな学校が誕生するようになりました。具体的には、それらは教区学校、司教区学校、王立学校やチャーター=スクールなどです。これらの学校は、いろいろな事情で誕生して、それぞれ性格が異なっている面もありましたが、大局的にはいずれも、イギリス人によるアイルランド人支配を促進しようとする学校でした。すなわち、これらの学校はアイルランド人の子どもたちに英語を話させ、イギリスの秩序や習慣を学ばせ、イギリス国教会のプロテスタントを信仰させようとするものでした。従って、これらの学校は、いずれもカトリック教徒の多いアイルランドの庶民階級にはあまり人気がなく、その数も僅かでした。
 その他、19世紀になると聖書協会と呼ばれる国家の支援を受けたプロテスタント系の宗教団体から多くの援助を受けっている学校が誕生しました。特にキルディア地区協会の援助を受けた学校は、1831年には1,621校となり、生徒数は137,639人となっていました。これは、協会が最初は宗教的に中立の立場を取っていたからです。しかし、後にだんだんとその協会が住民にプロテスタントを強要するようになると住民はそれから離れていくようになりました。
 この他、今まで見てきた学校とは全く異なる垣根学校(hedge school)という学校があり、それは国家の支援を全く受けずアイルランドの庶民に広く受け入れられていました。この学校は、1695年に発布された刑罰法による厳しい弾圧の下で、非合法的に営まれており、一般的には学校の周りを溝や垣根で囲み、非常に小さな部屋で、時には納屋の隠れ屋よりもっと小さな教室で、見張りの子どもを置きながら、非常に貧しい教師が教えていました。教師は、ときどき巡回し、家に住み込み、見返りにその子どもたちを教えていました。家を提供しないその他の親はわずかの授業料を硬貨か物品を支払うという状態でした。この学校では、1820年代の半ばまでに30万人から40万人の生徒が学んでいたと、アケンソンという学者は推測しています。このことから、如何にこの学校が庶民階級に人気があったのか分かると思います。また、如何にアイルランド人が教育に熱心であったかが、分かると思います。
 アイルランドを統合した後のイギリス政府や議会は、それまでの反省から1831年に国民学校(national school)を誕生させました。この学校は、アイルランドの教育史にとってとても重要なものと私は考えています。何故かと言えば、それは、国家が支援する学校でありながら、庶民階級のための教育も行おうとしていたからです。私は、ここにアイルランドの近代的な公教育が始まったと考えています。この学校は、その後それまでプロテスタントが支配していた学校から、庶民の多くが信仰しているカトリック教の声に次第に耳を傾ける学校となっていきました。この学校は、最初のうちは数も少なく、就学する生徒数も少なかったのですが、年を追うに従って増えていき、盛衰を繰り返しながらも長く貧しい植民地時代を生き続け、今日ではアイルランドの初等教育の根幹をなしています。
 なお、アイルランドでは、植民地時代にはあまり中等教育は発達しませんでした。というのは、1695年の刑罰法によりカトリック教徒の教育が禁止されていたからです。そのため、高い教育を受けたい若者は、海外に渡り海外のアイルランド人が設立したカレッジで非合法的に学んでいました。しかし、18世紀後半の救貧法によりカトリック教徒の教育が許されると、教会や修道会により上級学校が設立され中等教育も行われるようになりました。ただ、これはあまり多くはありませんでした。

4 1960年代から発達したアイルランドの教育
 1922年に自由国となり、さっそく新しい国作りが始まりました。その一環として、1924年には教育省が設立され、1926年には義務教育も始まりました。
 しかし、アイルランドの教育の本格的な発展は、1949年に共和国となった後の1960年代以後です。アイルランドでは1960年代以後急激に経済が発展し、それに伴って教育も急激に発展しました。そのとき成立した諸々の教育制度が現在のアイルランドの教育制度の基盤となっています。この時期には、教育省は組織を整え機能を拡大させ、初等・中等教育のほとんどの分野に強い影響を及ぼすようになってきました。その結果、1967年には義務教育の無償化が実施され、義務教育年齢の就学率も1992年の時点で99.9%となってきました。また、中等教育も整備され、現在約60%の生徒が通う中等学校は勿論のこと、他に職業学校、総合学校、地域学校など新しいタイプの学校が誕生しました。

5 最近のアイルランドの教育の動向
 次に、最近のアイルランドの教育の幾つかの動向について触れてみたいと思います。
 その1つは、教育省内のスリム化が行われているということです。1960年代以後の教育省は、教育の広範囲な業務を抱え込んでしまいました。従って、それは、激しい時代の変化に対応出来なくなったのです。そこから、それを出来るだけスリム化しようということになったのです。そのために諸々の改革が行われました。まず、1997年に「教育省」という名称を「教育科学省」に変えました。そして、それまで教育省内にあった諸機能を分離独立させ、それらをパートナー制度として教育科学省に協力させることにしたのです。このパ-トナーには、国家試験委員会など全部で27あります。その他、学校現場を直接支援する学校管理委員会等のパートナー制度も多数出現しました。
 2つ目は、カトリック教の教育に対する影響が、近年薄らいできているということです。実はアイルランドの教育は、先に述べました国民学校の時代からカトリック教会の力がかなり及んでいたのです。表面的には、国家の力が強く支配的に見えましたけれども、現場の学校の創設者や経営者及び教師は、教会の支配を強く受けていたのです。特にその傾向は、中等教育において顕著でした。その傾向は、近年まで続いていたのです。しかし、最近は若者をはじめ、大人も宗教から離れつつあります。従って、カトリック教の教育への影響は薄らいでいるのです。
 3つ目は、中等教育のシニア課程(日本の高校)の第3学年での「移行年」制度の普及です。この制度は、シニア課程の最終学年で1年間じっくりと自分の将来を考えるために設けられた制度です。そのため、生徒は自分の進路に合わせていろいろな社会体験や勉強をするのです。なかなかユニークな制度だと思います。この制度を採用する学校は、シニア課程が3年間ということになり、もしそれを採用しなければその学校は2年間ということになります。最近は、かなりのシニア課程がこの制度を採用しています。
 4つ目は、中等教育段階で全国的な公的試験が行われているということです。我国では学習指導要領によって学校教育の内容や方法の大枠が決められているため、北海道から沖縄まで大体似たような教育が行われ、一定の教育水準が保たれています。しかし、アイルランドでは、我国のように文部科学省が出している学習指導要領というものはないのです。その代わり、公的試験が行われ、一定の教育水準を保とうとしているのです。この試験には、ジュニア認定試験とシニア認定試験とがあります。最近ではこの試験は、生徒の実態に合わせ、いろいろと細分化が行われています。

6 アイルランドの教育史から学ぶもの
 最後に、今まで見てきましたアイルランドの教育史から何を学ぶべきか、この点について私の考えを2点ほど述べてみたいと思います。
 その第1は、国及び社会の発展の裏には教育への情熱があるということです。1960年代以後、アイルランドはハイテク産業を中心として経済的に急激な発展を遂げ、ごく最近まで「ケルティック・タイガー」と呼ばれていました。こう呼ばれるようになった原因にはいろいろ考えられますが、その中の1つにアイルランド古来の教育の発展、すなわち、教育への情熱があったと思います。アイルランドの教育史は、そのことをよく示しています。
 第2は、一般庶民の声に耳を傾けない教育は発展しないということです。確かに、アイルランドでは昔から諸々の学校が存在していました。しかし、庶民の声を無視したイギリスの植民地主義の教育は、アイルランドでは受け入れられなかったのです。それに反し、垣根学校や国民学校が庶民の声に耳を傾けるようになると、庶民は貧困に喘ぎながらもそれを受け入れるようになりました。しかも、それが1つの大きな原因となり、今日のアイルランドの繁栄を生みだしたと言っても過言ではないと思います。まさに、教育は庶民の声を聞くべきだと思います。

以上で、本日の私の拙い話は終わります。ご清聴ありがとうございました。

和田英武氏
和田英武氏
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2 小泉八雲(ラフカディオ・ハーン) 2-1 小泉八雲の魅力

ハーン雑話

宮崎啓子(小泉八雲熊本旧居館長)
2006年(第8期)市民講座「ハーンを育んだアイルランドの風土と文化」(7回シリーズの第1回)
小泉八雲熊本旧居

 今日はハーンゆかりの人たちを通して、エピソードなどを紹介しながらハーンの人柄などのあれこれについて話したいと思います。

西田千太郎
 西田千太郎はハーンが島根県尋常中学校の英語教師として松江に赴任したとき、公私にわたってハーンを支えた人です。

 西田は松江で修学ののち上京し、約2年間苦学して中学校教員免許を受けました。その後兵庫県の姫路中学校、香川県の済々学館で教えたのち、請われて明治21年に島根県尋常中学校の教諭になっています。その2年後、ハーンとの出会いがありました。

 ハーンは西田の頭脳明晰、親切で人情味あふれる誠実な人柄にひかれて、二人の親交は西田が明治30年に36歳の若さで亡くなるまで続きます。西田は公的にはもちろん、資料収集、取材活動への協力、私生活の世話にいたるまでハーンに不自由を感じさせなかったといわれています。ハーンの長男一雄は『父小泉八雲』の中で西田について「松江聖人と噂されており、父が最も信頼した日本人中第一の友人である。父の日本研究に多大な援助を与えた人。日本の人情風俗においても懇切丁寧に説明を施した。」と書いています。

 明治25年夏、ハーンが約2ヶ月にわたって関西・隠岐方面を旅行している間に、西田は九州地方を旅行し、この手取本町の家に立ち寄り3泊して五高、水前寺公園、本妙寺などを訪れています。

 ハーンは熊本時代に執筆した『東の国から』を「出雲時代のなつかしい思い出に、西田千太郎へ」と献呈しています。熊本にも西田のような心を許せる友人がいたならば、ハーンの熊本時代も違ったものになっていたかもしれません。

藤崎八三郎
 旧姓を小豆沢といいます。島根県尋常中学校での教え子で、ハーンの作品『英語教師の日記から』の中に「今後わたくしの記憶に最も長く明白に残るだろうと思う」生徒の一人として紹介されています。ハーンが熊本に移った後もハーンを慕って文通を続け、資料提供の手伝いなどをしています。明治26年に卒業しますが、進路についてハーンに相談し熊本に訪ねてきたりもしました。

 明治28年9月、五高に入学しますが前年12月志願兵として入営していたため、出校しないまま休学し、翌年3月に退学しています。結局、陸軍士官学校に入り、職業軍人の道を選びました。この時、藤崎家の養子になっています。

 東京時代のハーンは、毎年のように家族を連れて焼津に海水浴に行き1ヶ月ほど滞在しました。明治30年の夏には藤崎も訪ねていき、ハーンのかねてからの念願であった富士登山に同行します。この登山からは『富士の山』という作品が生まれました。その当時ハーンは身体に少し衰えを感じていたらしく、富士登山はとても無理だと諦めていました。藤崎が「私が一緒に行きますから」といって周到な準備のもと、決行します。藤崎の手記によれば「一人の強力が先生の腰に巻いた帯を引いて、もう一人は後ろより押し上げやっと夕方8合目に到着。一泊して翌朝8時についに頂上に到着した」というような登山だったようです。

 藤崎は東京でもハーンを慕ってよく訪ねています。藤崎夫人ヲトキさんの回想によると、縁談はハーンの助言でまとまり、お見合いも小泉家の座敷で行われたということです。明治37年2月、日露戦争が始まり藤崎は満州に出征することになりますが、ハーンは家族ぐるみで送別会を開いています。9月26日、ハーンは戦場の藤崎に手紙を書き数冊の本とともに発送して、数時間後に心臓発作で亡くなりました。藤崎は「先生の最後となった手紙と贈ってくださった本と、それから先生の亡くなられたという知らせと同時に受け取って悲嘆に耐えなかった」と手記に書いています。この絶筆となった手紙は戦災で焼失しましたが、幸い木下順二氏が写真に撮ってあった原板があり、それを焼き付けたものがこの記念館に展示されています。

 ハーンの没後、上京した藤崎一家がすぐに家が見つからなかったので、小泉家の半分を借りて住んだこともありました。大正12年、熊本で済々黌高校の教師となって英語、地理を教えますが、晩年、本当は文学がやりたかったんだと孫たちに語っていたそうです。小泉時氏のお話では「藤崎さんが上京される際は好物のちらし寿司をつくってお待ちしたものでした」ということでした。

雨森信成
 あめのもり のぶしげといいます。1858年、福井に生まれました。藩校の明新館で英語を学び、更に横浜のブラウン塾で学んでおります。20代の後半から西洋諸国を遍歴し、30歳頃に日本に帰ってきたといわれています。

 ハーンの熊本時代にマクドナルドの紹介によって交際が始まり、ハーンにとって「真面目な、あたたかい、利己心のない友人」となりました。その優れた学識と語学力を生かして、ハーンの良き協力者となり、貴重な資料を提供したりして親交を深めました。ハーンは著書『心』を雨森に献呈していますが、「ある保守主義者」は雨森がモデルといわれています。

 ハーンの没後、アメリカの雑誌『アトランティック・マンスリー』に「人間ラフカディオ・ハーン」という追悼文を寄せております。ハーンをよく理解した友人として、作家としてのハーンの一面を生き生きと描写したすばらしい名文といわれるものです。その一節を紹介します。

 「ハーンは夜が遅いにもかかわらず、早起きだった。気が乗ると午前2時、3時まで書き続けた。初めて彼の家に泊まった晩に見たものは私の記憶に焼きついて、生涯忘れることがないであろう。私も夜は遅い方であったから、その晩も寝床で本を読んでいた。時計は午前1時を打ったが、ハーンの書斎にはまだ灯りがともっていた。低い、かすれた咳のような音がした。わが友が病気なのではないかと私は心配になった。それで自分の部屋から抜け出て彼の書斎に行ってみた。しかし執筆中には邪魔はしたくないと思い、用心深く少しだけ戸を開けて覗き込んだ。友は例の高い机に向かい、鼻をほとんど紙にくっつけんばかりにして、一心不乱にペンを走らせているところであった。一枚一枚と書き続けてゆく。しばらくして彼はふと顔を上げた。その時私は何を見たであろう。それはいつもの見慣れたハーンではなかった。全くの別人であった。顔がふしぎなほどに白かった。大きな眼がきらきら光った。何かこの世ならぬものと通じ合っている人のように見えた。」

ミッチェル・マクドナルド
 ハーンが来日した時、エリザベス・ビスランドの紹介状をもって横浜海軍病院勤務のマクドナルドを訪問して以来の友人です。ハーンが帝国大学講師となって上京してからは,東京と横浜とをお互いに行き来し信頼関係を深めていきました。マクドナルドは雨森とも親しく、二人はハーン一家と一緒に海水浴に行き、皆で楽しく一日を過ごしたこともありました。ハーンは子供のように喜んで、得意の泳ぎを披露したそうです。

 ハーンの没後は、小泉家の遺産管理人として遺族を支えました。ハーンの帝大講義録も彼の尽力で出版が実現しました。1920年横浜グランドホテルの社長に就任。生涯を独身で通したマクドナルドは、ハーンの長男・一雄を我が子のように可愛がりました。

 ハーンを支え、ハーンを慕い、ハーンが心を許した友人たちをとおしてみると、ハーンがいかに魅力的な人物であったかということに改めて気付かされます。