小泉家から見たラフカディオ・ハーン
2006年04月03日
「身内からみたハーン」 小泉 時(エッセイスト)
はじめに
本日は熊本アイルランド協会総会にお招きいただき心から厚くお礼申し上げます。
またこのように膝を交えるような形で、熊本の皆様とハーンにまつわる話をさせていただくことを光栄に存じます。
初めから脱線しますが、父も兄弟も背はもっと高いのですが、私は祖父のハーンと同じ位ちょっと低い背丈で一番祖父に似ています。ただ祖父はもっと太っており、日本に来てからは大分お腹がでてきたこともあって心臓の心配もあったのだと思います。
考えますと、前回皆様にお目にかかりましたのは八雲旧居が落成した1995年であったように記憶しています。またその3年前には漱石とハーンの足跡を訪ねるツアーに参加し、ロンドンからダブリン、アテネ、レフカダへと、駆け足の苦しい中にも非常に楽しい旅をご一緒しました。年をとってきますと何だか一年が経つのが早くなり心細い気がしてなりません。
皆様の中には、協会主催のアイルランドツアーに昨年お出での方もおられますが、その時はアイルランドだけに的を絞った5日の旅。ゴールウェイからアラン島まで足を伸ばされた、本当によい旅だったと、心からお喜び申し上げます。
「5年前のハーンの足跡を訪ねるツアーには自分一人で参加したから、今回は家内に行ってもらいました」と言われた方もおられます。私は熊本の男性は奥様にやさしいのだと感激しました。と申しますのは、ハーンがよく口癖のように「その人(ジン)奥さん大事にする人ですか」と,セツに問いただしていたと、父が言っていたことを思い出すからです。
明治のあの亭主関白の時代に「奥さんを大事にするジンならば自分は付き合ってもいい」まして人を雇い入れるような場合は、いつもこういうことを聞いて採用したそうです。また松江からも、よく親類だ知人だといっては上京し,ホームステイをする人は跡を絶たなかったようです。この時もハーンはセツから報告を受けると必ず「そのジン松江の時あなたの味方でしたか」と詰問したそうです。
ハーンの身内紹介
今日は「身内から見たハーン」ということでお話をします。現在ハーンの子供たちは全員他界し、孫から曾孫の時代へ、移ろうとしています。ハーンは男3人、女1人の4人の子持ちでした。
長男が私の父の一雄、次男が小泉家からセツの養父の稲垣家を継いだ稲垣巌、三男が清、長女が寿々子です。
私と同じ孫は、長男の一雄には長男が1人、つまり私です。次男巌には男1人、女2人、三男清には男1人、女1人がいましたが、長女は4,5年前にアメリカで亡くなりました。叔母の寿々子は独身で子供はいません。従って現存するハーンの孫は5人になります。
アイルランド、父方の子孫は
ハーンの父、チャールズ・ブッシュ・ハーンは兄弟の多い人でしたので、ハーンの世代から見て孫の世代に当たる子孫を調べ上げたら数限りないと思います。孫の世代の何人かとは、クリスマスカードの交換をして付き合っていますが、これらの人達は、私よりかなり高齢なので病院へ入退院を繰り返している人が多いようです。当たり前の話ですが、ハーンは40歳過ぎて結婚したので、私達、孫は平均10歳は父方の孫より若いことになります。
母方の場合は、私が知っていますのは1人です。ローザが再婚してからの子孫なので,曾孫(ハーンの世代から見れば孫)は、私と同年でマセロウといいキセラ島に住んでいます。
アメリカへ渡ったハーンの弟の子孫
ハーンの弟に4歳年下のジェイムズ・ハーンがおります。彼はローザがギリシャに帰国してから産んだ子供で、成長した後にアメリカに渡りました。彼もカトリックでしたから、子供が11人位いるのです。実は進駐軍として、日本に来た人もいると聞いてます。私は2,3年前に、長女だった人の一番年上の姉と年下の妹の2人が日本に来たとき会いました。長女の方は私より遙かに年上、妹の方が私と同じか、ちょっと若いくらいです。その時の話では、兄弟弟妹が多いので一番下は曾孫より若い人もいるそうです。
昨年の春頃、アメリカでハーンの子孫が集まるので、日本からも一人来てくれないかという手紙が来ました。私は忙しかったので代わりに長男に行って貰いました。行ってみると、孫は一人も現れなくて、殆どが曾孫で7,8人集まり、そのことが向こうの新聞にも載ったそうです。
チューレン大学にあるハーン・ライブラリーの資料写真が、西海岸の大学を巡回して公開しておりました。それが東海岸に移り、昨年のポトマック河畔の桜の頃、ワシントンの日本大使館別館でその展覧会が開かれました。それを機会にアメリカ在住のハーンの子孫が集まろうということになり開いたようです。そこに日本からも代表を一人送ってもらいたいとのことで、長男が行きました。
最近聞いたアイルランドのこと
幼いハーンがギリシャの母親ローザに連れられダブリンに着き、父親のチャールズ・ブッシュ・ハーンの母エリザベス・ハーンと住んだ家がロウアー・ガーディナー・ストリート48にあります。百年以上前は高級住宅地でしたが、現在は下町でザ・タウンハウスと言う名のB&B(ベッド & ブレックファースト)という、ホテルより気楽なところになっています。そこには、元・駐日アイルランド大使のショーン・ローナン氏の肝いりで、その一室にハーン・ルームができ、資料室になっていて、写真などが置いてあります。
トレモア海岸にあるサラ・ブレナンの別荘
海岸から見て丘の上に古い教会が二つあります、一つはカトリック、一つは英国国教会、別名聖公会です。ハーンを引き取った大叔母ブレナン夫人はカトリックですから手前の方の教会です。ここにモリヌークスとブレナン夫人の墓があります。この教会の隣にブレナン夫人の別荘があり、ハーンはここから坂を下りて海岸へ行き水泳がうまくなったのでしょう。この別荘もB&Bになり宿泊できます。
その後のローナン氏
元・駐日大使ローナンさんはアイルランド日本協会で、アイルランドと日本の交流に尽くした人に贈るラフカディオ・ハーン・ゴールド・メダルの設立をしたりして、大活躍をされてます。第1回目の受賞者は日本商社の代表でしたか、第2回目は全員からローナンさんが推されて受賞されたはずです。第3回目はゲール語の第一人者で、美智子皇后の先生でした日本アイルランド文学会名誉会長の、三橋敦子先生でした。
ローナンさんのご尽力だと思いますが、ハーンもスウィフト、ジェームズ・ジョイス、シング、イェイツ、オスカー・ワイルド、バーナード・ショーなどと共にアイリッシュ・ライターズ・ミュージアムに殿堂入りすることになりました。
また、この時に父方の子孫に当たるウィズドム家に保管され、幼い頃ハーンが使用していた机が同家から松江の記念館に贈られました。
ヨーロッパでは赤ちゃんが生まれるとシルバーのスプーンにイニシャルをつけますが、そのスプーンと思われるP.H(パトリシオ・ハーン)のイニシャルが付いたスプーンを同家で見せてもらいました。
ダブリンにはハーンも父チャールズに何回か連れて行って貰ったビューリーズという、非常に古い老舗のカフェレストランがあります。この店が、4,5年前に原宿の角に店を出しました。その入口の螺旋階段に、アイルランドの文豪のネームプレートが取り付けられておりますが、そこに昨年秋ハーンのプレートも飾られました。
前・大使ジェームス・シャーキー氏の言葉
アイルランドでは、外交官が語学ができるのは当たり前だが、法律、経済専門より歴史専門の人が重宝されるお国柄で、自分も歴史を専攻したので外交官の道を選んだとのことです。
自分は不勉強だが、ハーン研究家の間ではハーンが教育を受けていないと言われるが、これは間違いである。我々はどうしても現在を中心に目を向けてしまい、百年以上も前の時代背景を知らないから、そういう説が生まれるのである。当時、アイリッシュで英国のダーラム神学校へ入学するというのは、余程、上流家庭でしかも資産家でないと許可が出なかった。僕だったら志願したって入学出来なかっただろう。
ダーラム神学校について松尾太郎氏の説明
ハーンが入学したダーラム神学校のコースは神学中心だが、一般学校であり聖職者養成目的の学校ではなく、経済史学の松尾先生はこの点を混同している研究者が多いと指摘されています。
ただブレナン夫人の本当の気持ちはハーンが不憫な子だっただけに、末はカトリックの神父になって欲しいと思っていたことでしょう。
アイルランドは今でも聖職者の地位が高い国で、今から150年前の熱心な信者であった夫人は、ハーンを無理して入れても聖職者の道に進んで欲しかったと思います。もっとも大叔母さんが、破産せずに学資を続けて援助していても、自由思想のハーンがそのまま学校にいることは無理だったと思います。
あるギリシャ人との出会い
一昨年の春頃からオーストラリア在住のヤニスというギリシャ人からよく手紙が来るようになりました。手紙によると、東洋文化に興味を持ち大学では中国古典文学を専攻し、ハーンにも興味がある。いま交換教育でオーストラリアで高校の教員をし、今年一杯でギリシャに帰国するので、その前に日本を見ておきたいとのことです。自分が日本に立ち寄った時には会ってもらえるかとのことだったので,勿論どこかで会いましょうと返事をしました。
それから暫く返事がなく、ある日突然電話があり「いま成田に着いた、どうしたらあなたの家に行けるか教えて欲しい」。青天の霹靂でしたが、その晩の11時過ぎに参りまして、2週間ホームステイをしました。
ハーンはよく「自分には東洋の血が流れているから肌身で東洋の文化を感じ取れる」と申しております。我々から見るとギリシャはオリーブの国で、海を隔てた西側はイタリーです。東洋と言っても、何か西洋に近いような感じがします。そこで、ギリシャ人は自分達を西洋側と考えるのか、東洋側と考えるのかを本人に聞いてみました。彼曰く「一つの目安として、自分はマケドニアに近いカラバだが、ギリシャはアテネを中心にエーゲ海側とイオニア海側の二つに分かれる。イオニア海側の人は言葉もイタリー訛のギリシャ語を使っているので、どうも西洋であるような気構えの人が多い。逆にエーゲ海側の人は、トルコに近いせいかオリエント文化だ」と。そこで私は「それはおかしい。ハーンはどちらかというと、イオニア海側のレフカダ島だ」と言うと「ハーンは初めから東洋文化に興味を持っていたので対象外だ」という返事が返ってきました。
文学館のこと
私達は昭和23年から60年にかけて、多摩川に住んでおり、最初の頃は多摩川はとても田舎でした。当時、玉電のチンチン電車が渋谷から出て、周りでは蛙が鳴くので夏なんか眠られないと言うほど非常に閑静なところでした。
昭和38年頃と思いますが、平井呈一先生がベースボールマガジン社の池田恒雄社長を紹介したいと突然来訪されました。池田さんは恒文社を作り、平井さんの訳でハーンの作品集を出したいと言われました。
平井先生は英文学というより江戸文学が専門と言った方がいいほど造詣が深く、荒俣宏さんは、先生をご自分の師と仰ぎ、しかも最後の江戸人だと非常に敬愛しておられます。
当時、池田社長は八雲記念館を作るのが夢だと言っておられました。今回、会長になられてから、故郷の新潟県魚沼郡大和町に県、町と共同で池田記念美術館を建設されました。そして一室を小泉八雲文学資料館として独立、学術法人として資料の保管もしていただくことになりました。個人の場合、火災も心配で、多量の資料、重いものなど持ち出すことは出来ませんので、当家に残されていた書簡、資料は、全部そちらへ移管、保管される予定です。
開館式が10月 2日に行われる予定なので、7月と8月は資料整理に全時間をつぎ込んだと言っても過言ではありませんでした。
ハーンとセツの交換教授
父一雄が『父「八雲」を憶ふ』に、書いているようにハーンは、長男一雄をある程度の家庭教育をしてからアメリカで教育を受けさせるつもりでした。ご存じのように、あの時代のイギリスやアイルランドの上、中流家庭では、自分の家庭で教育したり、また家庭教師に依頼し子弟の教育をしたりしております。ハーンも幼い頃、ブレナン夫人のもとで、こういう教育を受け、長男一雄にも5歳くらいから厳しい教育をしております。ところが、日本では文部省の義務教育があります。しかし、最初はこのことを説明して一雄の家庭教育を続けておりました。
次男の巌が、明治35年(1902)4月に隣の大久保小学校へ入学いたしました。この時、戸籍係りの警官が巡ってきて「お宅の坊ちゃんがまだ入学していない。私がそのため上司から叱られるのですよ」と言って帰りました。それは気の毒と考え、 翌年、一雄も同じ小学校の4年生に編入しました。ハーンがアメリカに行く時は、退学させればよいということでした。
こういうことがあってから、毎晩セツが一雄と巌の、日本語の勉強を見ることとなり、ハーンがその国語読本を見て興味を持ち、自分も一雄と一緒にひらがなの勉強を始めたそうです。 一雄はセツから、 二言目には「パパ様の方が覚えが早い」と始終叱られたと、言っていました。そこでセツも交換条件を出して、熊本でどうも初めて英単語の説明を受けて以来、10年ぶりに英語の教育を受け、八雲とセツの交換教授が少しの間続いたようです。
セツの英単語帳
明治26年(1893)熊本時代にセツは、ハーン
から初めて英語のレッスンを受けました。 こ
の時代のセツは出雲方言そのままだったので、単語の意味も、 スペルがなければ全然意味が
通じません。このセツのノートが松江の記念館に残されています。一雄が戦後出版した「父小泉八雲」の中でも少し取り上げていますが、ここでいくつかをご紹介いたします。
モリチャント・・・大商売人
ジャジ・・・陪審員
セーロリー・・・舟人(セイラー)
テーロリー・・・男の仕立屋
ネーボリー・・・隣の人
シレーベー・・・ねむたえ(出雲弁はシと ス、エとイの区別が付かないところがあ ります)
ドー ユー ウエシ トー ドリンキ・・ あなたは飲みたきや
こういう調子でしたのでハーンもセツに英語を教えるのをあきらめました。
それから10年の歳月で、熊本、神戸、東京と移り日本語も標準語に近くなったものの、まだかなりの訛が残ったカナフリでした。それに比べると英習字は大したもので、一雄と見分けが付かないほどに上達しております。
ハーンのカタカナの手紙
東京時代のハーンは毎年のように静岡県の焼津に海水浴に行き、ここから毎日のようにセツにカタカナの絵手紙を書き送っています。
それを纏めたハーンの絵手紙が、小泉八雲全集の別冊として第一書房から出ています。原文はハーン言葉が強すぎて何を言っているのかよく分かりませんが、叔父の巌がハーンの原文を損なわないで誰にも分かるように訳して出されています。その当時小学校では、今とは違いカタカナが先でひらがなを後に習いました。そこでハーンもカタカナは書けてもひらがなは書けなかったと思われます。
子供はすぐ親のまねをしますが、一雄もその例に漏れず父八雲のまねをして美濃紙の便箋に筆で絵手紙を盛んに書いていました。これも少し前に母が仕舞い込んでいたつづらの中から出てきました。
今回、一雄の絵手紙を丹念に調べていたら、日焼け変色した藁半紙に入り、美濃紙の便箋に濃い鉛筆で書かれた、焼津からセツ宛ての手紙(これには絵はありません)が出て来ました。最初は一雄の手紙と思っていましたが、全体の書体はセツに似ているが、セツにしては稚拙すぎるひらがな文字で書かれた2,3枚の手紙です。よく見ると、最後にぱぱと結んであったので、これはどう見てもハーンがセツに宛てたものです。
そこで一雄が言っていた交換教授を思い出しました。これを見ていくと、(これはあくまでも私個人の仮説ですが)これらのひらがなの手紙は実際に八雲が焼津から投函したものではないと思います。何故なら外から来た書簡は封筒もとってありますが、この手紙には封筒が一切付いていません。八雲がセツからひらがなを教わるのに教科書では面白くない。ひらがなが書けるようになったからには、自分で書いた焼津からの手紙を元にして、今度はひらがなの手紙を書いてみたのでは・・・・と。それなら、何故全体の文字がセツに似ているか? これはセツが最初ひらがなのお手本を書いて見せ、このセツの書いた文字に似せてひらがなの手紙を書いたのではないでしょうか。一見するとセツが書いたように見えるのは、こういういきさつがあったからと思います。
手紙の内容ですが、実際焼津から出したカタカナの手紙と同じような内容ですが同じものではありません。
「こまんまん
さくじつ かづを と あき(書生)とぱぱ よきなうど(運動?)しました。なかごりの じぞ JIZOさまのをてらにま江(え)
りました。たくさん ぐわんほどき(願解 き:神仏にかけた願がかなったとき、その お礼参りをすること/広辞苑)あります。
か江る(帰る)の ときうみにあそびまし
た。
さくばん あのうみをかくものありまし
た。
たくさんたくさん くらき(くらげ?)あり ました。あのくらきずずのよな なかい なかい いとのよな とたくさん 小た
またのものゑに ○○○○○○○そなよ な。
ぐらすのよなぬいてみる (ガラスのよう
に透いて見える?)。 みなうみあのもの
でいぱぱい(一杯?)でした。 ほかのかた ちもありました。 こんにちもあのもの
あります。
わたしききました だいく 小さきお
もちゃのふねするかづをのため。 コん
日やくそくよろし。
小まんま ぱぱから 」
おわりに
もうハーンの命日の9月になりましたので、この頃思うことを述べたいと思います。
7,8両月は資料整理でほとんど外出出来なくて、こちらへ伺う少し前にどうしても会わねばならぬことがあり、日比谷の帝国ホテルに参りました。あの車の多い通りの街路樹の下で虫の声がしきりに聞こえてまいります。 9月26日の祖父の命日が近づくと、いつも思い出すのはセツが「思い出の記」の中で書いている八雲の最後の情景です。
セツはこの中で「ヘルンは松虫を飼っていました。9月末のことで松虫が夕方近く声を嗄らして鳴いておりました。何か物哀れに感じられましたので、ヘルンに尋ねますと、『あの小さい虫よきネ(音)して鳴いていてくれました。私なんぼ喜びました。しかし、だんだん寒くなって来ました。 知っていますか、知っていませんか・・・・? その虫すぐに死なねばならぬことを。気の毒ですね、かわいそうな虫』と寂しそうに申しまして『この頃の暖かい日にそっと草むらへ放してやりましょう』と私どもは約束いたしました。」
これはハーンにとり、もう余命幾ばくもない松虫を虫籠の中で最後の息を引き取らせるにはどうしても忍びない。大自然の自由の中で死なせてやりたいという思いからだと思います。
セツはさらに続けます・・・「今朝は庭の桜が返り咲きをしたり、長い旅の夢を見たり、松虫の声など・・・何かヘルンの死ぬ知らせでもあったかのような気がしまして、 これを思うと、今でも悲しさに耐えません」と締めくくっております。
皆様もよくご存じのハーンの作品で, 1902年に書かれた『骨董』に収められている「草ひばり」というのがあります。この中で、ハーンが大事に可愛がっていた草ひばりにお手伝いさんが、うっかりして餌をやり忘れます。作品のなかでは自分の足を食べて死んでしまったという結果になりますが、それを最後の文章で「結局のところ飢えてみずから自分の足をくらうというのは、歌の天才に祟られているものが、たまたまこうむる最悪の凶事ではあるまい。、、、そうしてハーンは There are human
crickets who must eat their own hearts in order to sing.
「世には、歌わんがため、自分で自分の心臓をくらう、人間のコオロギもいるのである」と結んでいます。
ハーンは自分のことをコオロギに託して、しかも自分の死が近づいていることを、考えながらこの作品を書いたのだと思います。
私もちょうど今の季節、虫の声を聞く頃になりますと、この「草ひばり」の最後の文章が思い出されてなりません。
本日は誠に取り留めのない話にご静聴を賜りましたことを深くお礼申し上げます。
(文責:松村)
本日は熊本アイルランド協会総会にお招きいただき心から厚くお礼申し上げます。
またこのように膝を交えるような形で、熊本の皆様とハーンにまつわる話をさせていただくことを光栄に存じます。
初めから脱線しますが、父も兄弟も背はもっと高いのですが、私は祖父のハーンと同じ位ちょっと低い背丈で一番祖父に似ています。ただ祖父はもっと太っており、日本に来てからは大分お腹がでてきたこともあって心臓の心配もあったのだと思います。
考えますと、前回皆様にお目にかかりましたのは八雲旧居が落成した1995年であったように記憶しています。またその3年前には漱石とハーンの足跡を訪ねるツアーに参加し、ロンドンからダブリン、アテネ、レフカダへと、駆け足の苦しい中にも非常に楽しい旅をご一緒しました。年をとってきますと何だか一年が経つのが早くなり心細い気がしてなりません。
皆様の中には、協会主催のアイルランドツアーに昨年お出での方もおられますが、その時はアイルランドだけに的を絞った5日の旅。ゴールウェイからアラン島まで足を伸ばされた、本当によい旅だったと、心からお喜び申し上げます。
「5年前のハーンの足跡を訪ねるツアーには自分一人で参加したから、今回は家内に行ってもらいました」と言われた方もおられます。私は熊本の男性は奥様にやさしいのだと感激しました。と申しますのは、ハーンがよく口癖のように「その人(ジン)奥さん大事にする人ですか」と,セツに問いただしていたと、父が言っていたことを思い出すからです。
明治のあの亭主関白の時代に「奥さんを大事にするジンならば自分は付き合ってもいい」まして人を雇い入れるような場合は、いつもこういうことを聞いて採用したそうです。また松江からも、よく親類だ知人だといっては上京し,ホームステイをする人は跡を絶たなかったようです。この時もハーンはセツから報告を受けると必ず「そのジン松江の時あなたの味方でしたか」と詰問したそうです。
ハーンの身内紹介
今日は「身内から見たハーン」ということでお話をします。現在ハーンの子供たちは全員他界し、孫から曾孫の時代へ、移ろうとしています。ハーンは男3人、女1人の4人の子持ちでした。
長男が私の父の一雄、次男が小泉家からセツの養父の稲垣家を継いだ稲垣巌、三男が清、長女が寿々子です。
私と同じ孫は、長男の一雄には長男が1人、つまり私です。次男巌には男1人、女2人、三男清には男1人、女1人がいましたが、長女は4,5年前にアメリカで亡くなりました。叔母の寿々子は独身で子供はいません。従って現存するハーンの孫は5人になります。
アイルランド、父方の子孫は
ハーンの父、チャールズ・ブッシュ・ハーンは兄弟の多い人でしたので、ハーンの世代から見て孫の世代に当たる子孫を調べ上げたら数限りないと思います。孫の世代の何人かとは、クリスマスカードの交換をして付き合っていますが、これらの人達は、私よりかなり高齢なので病院へ入退院を繰り返している人が多いようです。当たり前の話ですが、ハーンは40歳過ぎて結婚したので、私達、孫は平均10歳は父方の孫より若いことになります。
母方の場合は、私が知っていますのは1人です。ローザが再婚してからの子孫なので,曾孫(ハーンの世代から見れば孫)は、私と同年でマセロウといいキセラ島に住んでいます。
アメリカへ渡ったハーンの弟の子孫
ハーンの弟に4歳年下のジェイムズ・ハーンがおります。彼はローザがギリシャに帰国してから産んだ子供で、成長した後にアメリカに渡りました。彼もカトリックでしたから、子供が11人位いるのです。実は進駐軍として、日本に来た人もいると聞いてます。私は2,3年前に、長女だった人の一番年上の姉と年下の妹の2人が日本に来たとき会いました。長女の方は私より遙かに年上、妹の方が私と同じか、ちょっと若いくらいです。その時の話では、兄弟弟妹が多いので一番下は曾孫より若い人もいるそうです。
昨年の春頃、アメリカでハーンの子孫が集まるので、日本からも一人来てくれないかという手紙が来ました。私は忙しかったので代わりに長男に行って貰いました。行ってみると、孫は一人も現れなくて、殆どが曾孫で7,8人集まり、そのことが向こうの新聞にも載ったそうです。
チューレン大学にあるハーン・ライブラリーの資料写真が、西海岸の大学を巡回して公開しておりました。それが東海岸に移り、昨年のポトマック河畔の桜の頃、ワシントンの日本大使館別館でその展覧会が開かれました。それを機会にアメリカ在住のハーンの子孫が集まろうということになり開いたようです。そこに日本からも代表を一人送ってもらいたいとのことで、長男が行きました。
最近聞いたアイルランドのこと
幼いハーンがギリシャの母親ローザに連れられダブリンに着き、父親のチャールズ・ブッシュ・ハーンの母エリザベス・ハーンと住んだ家がロウアー・ガーディナー・ストリート48にあります。百年以上前は高級住宅地でしたが、現在は下町でザ・タウンハウスと言う名のB&B(ベッド & ブレックファースト)という、ホテルより気楽なところになっています。そこには、元・駐日アイルランド大使のショーン・ローナン氏の肝いりで、その一室にハーン・ルームができ、資料室になっていて、写真などが置いてあります。
トレモア海岸にあるサラ・ブレナンの別荘
海岸から見て丘の上に古い教会が二つあります、一つはカトリック、一つは英国国教会、別名聖公会です。ハーンを引き取った大叔母ブレナン夫人はカトリックですから手前の方の教会です。ここにモリヌークスとブレナン夫人の墓があります。この教会の隣にブレナン夫人の別荘があり、ハーンはここから坂を下りて海岸へ行き水泳がうまくなったのでしょう。この別荘もB&Bになり宿泊できます。
その後のローナン氏
元・駐日大使ローナンさんはアイルランド日本協会で、アイルランドと日本の交流に尽くした人に贈るラフカディオ・ハーン・ゴールド・メダルの設立をしたりして、大活躍をされてます。第1回目の受賞者は日本商社の代表でしたか、第2回目は全員からローナンさんが推されて受賞されたはずです。第3回目はゲール語の第一人者で、美智子皇后の先生でした日本アイルランド文学会名誉会長の、三橋敦子先生でした。
ローナンさんのご尽力だと思いますが、ハーンもスウィフト、ジェームズ・ジョイス、シング、イェイツ、オスカー・ワイルド、バーナード・ショーなどと共にアイリッシュ・ライターズ・ミュージアムに殿堂入りすることになりました。
また、この時に父方の子孫に当たるウィズドム家に保管され、幼い頃ハーンが使用していた机が同家から松江の記念館に贈られました。
ヨーロッパでは赤ちゃんが生まれるとシルバーのスプーンにイニシャルをつけますが、そのスプーンと思われるP.H(パトリシオ・ハーン)のイニシャルが付いたスプーンを同家で見せてもらいました。
ダブリンにはハーンも父チャールズに何回か連れて行って貰ったビューリーズという、非常に古い老舗のカフェレストランがあります。この店が、4,5年前に原宿の角に店を出しました。その入口の螺旋階段に、アイルランドの文豪のネームプレートが取り付けられておりますが、そこに昨年秋ハーンのプレートも飾られました。
前・大使ジェームス・シャーキー氏の言葉
アイルランドでは、外交官が語学ができるのは当たり前だが、法律、経済専門より歴史専門の人が重宝されるお国柄で、自分も歴史を専攻したので外交官の道を選んだとのことです。
自分は不勉強だが、ハーン研究家の間ではハーンが教育を受けていないと言われるが、これは間違いである。我々はどうしても現在を中心に目を向けてしまい、百年以上も前の時代背景を知らないから、そういう説が生まれるのである。当時、アイリッシュで英国のダーラム神学校へ入学するというのは、余程、上流家庭でしかも資産家でないと許可が出なかった。僕だったら志願したって入学出来なかっただろう。
ダーラム神学校について松尾太郎氏の説明
ハーンが入学したダーラム神学校のコースは神学中心だが、一般学校であり聖職者養成目的の学校ではなく、経済史学の松尾先生はこの点を混同している研究者が多いと指摘されています。
ただブレナン夫人の本当の気持ちはハーンが不憫な子だっただけに、末はカトリックの神父になって欲しいと思っていたことでしょう。
アイルランドは今でも聖職者の地位が高い国で、今から150年前の熱心な信者であった夫人は、ハーンを無理して入れても聖職者の道に進んで欲しかったと思います。もっとも大叔母さんが、破産せずに学資を続けて援助していても、自由思想のハーンがそのまま学校にいることは無理だったと思います。
あるギリシャ人との出会い
一昨年の春頃からオーストラリア在住のヤニスというギリシャ人からよく手紙が来るようになりました。手紙によると、東洋文化に興味を持ち大学では中国古典文学を専攻し、ハーンにも興味がある。いま交換教育でオーストラリアで高校の教員をし、今年一杯でギリシャに帰国するので、その前に日本を見ておきたいとのことです。自分が日本に立ち寄った時には会ってもらえるかとのことだったので,勿論どこかで会いましょうと返事をしました。
それから暫く返事がなく、ある日突然電話があり「いま成田に着いた、どうしたらあなたの家に行けるか教えて欲しい」。青天の霹靂でしたが、その晩の11時過ぎに参りまして、2週間ホームステイをしました。
ハーンはよく「自分には東洋の血が流れているから肌身で東洋の文化を感じ取れる」と申しております。我々から見るとギリシャはオリーブの国で、海を隔てた西側はイタリーです。東洋と言っても、何か西洋に近いような感じがします。そこで、ギリシャ人は自分達を西洋側と考えるのか、東洋側と考えるのかを本人に聞いてみました。彼曰く「一つの目安として、自分はマケドニアに近いカラバだが、ギリシャはアテネを中心にエーゲ海側とイオニア海側の二つに分かれる。イオニア海側の人は言葉もイタリー訛のギリシャ語を使っているので、どうも西洋であるような気構えの人が多い。逆にエーゲ海側の人は、トルコに近いせいかオリエント文化だ」と。そこで私は「それはおかしい。ハーンはどちらかというと、イオニア海側のレフカダ島だ」と言うと「ハーンは初めから東洋文化に興味を持っていたので対象外だ」という返事が返ってきました。
文学館のこと
私達は昭和23年から60年にかけて、多摩川に住んでおり、最初の頃は多摩川はとても田舎でした。当時、玉電のチンチン電車が渋谷から出て、周りでは蛙が鳴くので夏なんか眠られないと言うほど非常に閑静なところでした。
昭和38年頃と思いますが、平井呈一先生がベースボールマガジン社の池田恒雄社長を紹介したいと突然来訪されました。池田さんは恒文社を作り、平井さんの訳でハーンの作品集を出したいと言われました。
平井先生は英文学というより江戸文学が専門と言った方がいいほど造詣が深く、荒俣宏さんは、先生をご自分の師と仰ぎ、しかも最後の江戸人だと非常に敬愛しておられます。
当時、池田社長は八雲記念館を作るのが夢だと言っておられました。今回、会長になられてから、故郷の新潟県魚沼郡大和町に県、町と共同で池田記念美術館を建設されました。そして一室を小泉八雲文学資料館として独立、学術法人として資料の保管もしていただくことになりました。個人の場合、火災も心配で、多量の資料、重いものなど持ち出すことは出来ませんので、当家に残されていた書簡、資料は、全部そちらへ移管、保管される予定です。
開館式が10月 2日に行われる予定なので、7月と8月は資料整理に全時間をつぎ込んだと言っても過言ではありませんでした。
ハーンとセツの交換教授
父一雄が『父「八雲」を憶ふ』に、書いているようにハーンは、長男一雄をある程度の家庭教育をしてからアメリカで教育を受けさせるつもりでした。ご存じのように、あの時代のイギリスやアイルランドの上、中流家庭では、自分の家庭で教育したり、また家庭教師に依頼し子弟の教育をしたりしております。ハーンも幼い頃、ブレナン夫人のもとで、こういう教育を受け、長男一雄にも5歳くらいから厳しい教育をしております。ところが、日本では文部省の義務教育があります。しかし、最初はこのことを説明して一雄の家庭教育を続けておりました。
次男の巌が、明治35年(1902)4月に隣の大久保小学校へ入学いたしました。この時、戸籍係りの警官が巡ってきて「お宅の坊ちゃんがまだ入学していない。私がそのため上司から叱られるのですよ」と言って帰りました。それは気の毒と考え、 翌年、一雄も同じ小学校の4年生に編入しました。ハーンがアメリカに行く時は、退学させればよいということでした。
こういうことがあってから、毎晩セツが一雄と巌の、日本語の勉強を見ることとなり、ハーンがその国語読本を見て興味を持ち、自分も一雄と一緒にひらがなの勉強を始めたそうです。 一雄はセツから、 二言目には「パパ様の方が覚えが早い」と始終叱られたと、言っていました。そこでセツも交換条件を出して、熊本でどうも初めて英単語の説明を受けて以来、10年ぶりに英語の教育を受け、八雲とセツの交換教授が少しの間続いたようです。
セツの英単語帳
明治26年(1893)熊本時代にセツは、ハーン
から初めて英語のレッスンを受けました。 こ
の時代のセツは出雲方言そのままだったので、単語の意味も、 スペルがなければ全然意味が
通じません。このセツのノートが松江の記念館に残されています。一雄が戦後出版した「父小泉八雲」の中でも少し取り上げていますが、ここでいくつかをご紹介いたします。
モリチャント・・・大商売人
ジャジ・・・陪審員
セーロリー・・・舟人(セイラー)
テーロリー・・・男の仕立屋
ネーボリー・・・隣の人
シレーベー・・・ねむたえ(出雲弁はシと ス、エとイの区別が付かないところがあ ります)
ドー ユー ウエシ トー ドリンキ・・ あなたは飲みたきや
こういう調子でしたのでハーンもセツに英語を教えるのをあきらめました。
それから10年の歳月で、熊本、神戸、東京と移り日本語も標準語に近くなったものの、まだかなりの訛が残ったカナフリでした。それに比べると英習字は大したもので、一雄と見分けが付かないほどに上達しております。
ハーンのカタカナの手紙
東京時代のハーンは毎年のように静岡県の焼津に海水浴に行き、ここから毎日のようにセツにカタカナの絵手紙を書き送っています。
それを纏めたハーンの絵手紙が、小泉八雲全集の別冊として第一書房から出ています。原文はハーン言葉が強すぎて何を言っているのかよく分かりませんが、叔父の巌がハーンの原文を損なわないで誰にも分かるように訳して出されています。その当時小学校では、今とは違いカタカナが先でひらがなを後に習いました。そこでハーンもカタカナは書けてもひらがなは書けなかったと思われます。
子供はすぐ親のまねをしますが、一雄もその例に漏れず父八雲のまねをして美濃紙の便箋に筆で絵手紙を盛んに書いていました。これも少し前に母が仕舞い込んでいたつづらの中から出てきました。
今回、一雄の絵手紙を丹念に調べていたら、日焼け変色した藁半紙に入り、美濃紙の便箋に濃い鉛筆で書かれた、焼津からセツ宛ての手紙(これには絵はありません)が出て来ました。最初は一雄の手紙と思っていましたが、全体の書体はセツに似ているが、セツにしては稚拙すぎるひらがな文字で書かれた2,3枚の手紙です。よく見ると、最後にぱぱと結んであったので、これはどう見てもハーンがセツに宛てたものです。
そこで一雄が言っていた交換教授を思い出しました。これを見ていくと、(これはあくまでも私個人の仮説ですが)これらのひらがなの手紙は実際に八雲が焼津から投函したものではないと思います。何故なら外から来た書簡は封筒もとってありますが、この手紙には封筒が一切付いていません。八雲がセツからひらがなを教わるのに教科書では面白くない。ひらがなが書けるようになったからには、自分で書いた焼津からの手紙を元にして、今度はひらがなの手紙を書いてみたのでは・・・・と。それなら、何故全体の文字がセツに似ているか? これはセツが最初ひらがなのお手本を書いて見せ、このセツの書いた文字に似せてひらがなの手紙を書いたのではないでしょうか。一見するとセツが書いたように見えるのは、こういういきさつがあったからと思います。
手紙の内容ですが、実際焼津から出したカタカナの手紙と同じような内容ですが同じものではありません。
「こまんまん
さくじつ かづを と あき(書生)とぱぱ よきなうど(運動?)しました。なかごりの じぞ JIZOさまのをてらにま江(え)
りました。たくさん ぐわんほどき(願解 き:神仏にかけた願がかなったとき、その お礼参りをすること/広辞苑)あります。
か江る(帰る)の ときうみにあそびまし
た。
さくばん あのうみをかくものありまし
た。
たくさんたくさん くらき(くらげ?)あり ました。あのくらきずずのよな なかい なかい いとのよな とたくさん 小た
またのものゑに ○○○○○○○そなよ な。
ぐらすのよなぬいてみる (ガラスのよう
に透いて見える?)。 みなうみあのもの
でいぱぱい(一杯?)でした。 ほかのかた ちもありました。 こんにちもあのもの
あります。
わたしききました だいく 小さきお
もちゃのふねするかづをのため。 コん
日やくそくよろし。
小まんま ぱぱから 」
おわりに
もうハーンの命日の9月になりましたので、この頃思うことを述べたいと思います。
7,8両月は資料整理でほとんど外出出来なくて、こちらへ伺う少し前にどうしても会わねばならぬことがあり、日比谷の帝国ホテルに参りました。あの車の多い通りの街路樹の下で虫の声がしきりに聞こえてまいります。 9月26日の祖父の命日が近づくと、いつも思い出すのはセツが「思い出の記」の中で書いている八雲の最後の情景です。
セツはこの中で「ヘルンは松虫を飼っていました。9月末のことで松虫が夕方近く声を嗄らして鳴いておりました。何か物哀れに感じられましたので、ヘルンに尋ねますと、『あの小さい虫よきネ(音)して鳴いていてくれました。私なんぼ喜びました。しかし、だんだん寒くなって来ました。 知っていますか、知っていませんか・・・・? その虫すぐに死なねばならぬことを。気の毒ですね、かわいそうな虫』と寂しそうに申しまして『この頃の暖かい日にそっと草むらへ放してやりましょう』と私どもは約束いたしました。」
これはハーンにとり、もう余命幾ばくもない松虫を虫籠の中で最後の息を引き取らせるにはどうしても忍びない。大自然の自由の中で死なせてやりたいという思いからだと思います。
セツはさらに続けます・・・「今朝は庭の桜が返り咲きをしたり、長い旅の夢を見たり、松虫の声など・・・何かヘルンの死ぬ知らせでもあったかのような気がしまして、 これを思うと、今でも悲しさに耐えません」と締めくくっております。
皆様もよくご存じのハーンの作品で, 1902年に書かれた『骨董』に収められている「草ひばり」というのがあります。この中で、ハーンが大事に可愛がっていた草ひばりにお手伝いさんが、うっかりして餌をやり忘れます。作品のなかでは自分の足を食べて死んでしまったという結果になりますが、それを最後の文章で「結局のところ飢えてみずから自分の足をくらうというのは、歌の天才に祟られているものが、たまたまこうむる最悪の凶事ではあるまい。、、、そうしてハーンは There are human
crickets who must eat their own hearts in order to sing.
「世には、歌わんがため、自分で自分の心臓をくらう、人間のコオロギもいるのである」と結んでいます。
ハーンは自分のことをコオロギに託して、しかも自分の死が近づいていることを、考えながらこの作品を書いたのだと思います。
私もちょうど今の季節、虫の声を聞く頃になりますと、この「草ひばり」の最後の文章が思い出されてなりません。
本日は誠に取り留めのない話にご静聴を賜りましたことを深くお礼申し上げます。
(文責:松村)


