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2 小泉八雲(ラフカディオ・ハーン) 2-2 小泉八雲の作品

Mimi-nashi-Hoichi-耳といれずみの話

小野友道(熊本保健科学大学学長)
2009年熊本アイルランド協会総会卓話
鶴屋百貨店東館7Fカーネーションサロン

 私どもが耳と呼んでいる部分は医学的には「耳介」といいます。耳介は耳輪・耳垂とか13箇所にも分けて解剖学的名称が付けられております。ヒトにおいては音の集音効果は余りありませんが、動物においては耳介を動かして、つまり耳をそばだてて音を聞くことはきわめて重要なことです。この耳介を気にして、耳介それも左耳ばかり造り続けた彫刻家がいます。三木富雄です。耳の何処に魅せられたのでしょうか。耳といえば、鎌倉の高僧明恵やゴッホが浮かびますが、どちらも自分で右の耳をそぎ落としています。明恵は修行のために、ある夜、仏眼仏母の前で、耳を切ってしまうのです。一方、ゴッホも右の耳を切り落とし、娼婦ラシェルに届けた話がありますが、今年5月の新聞記事は口論の末ゴーギャンが剣を振りかざし、ゴッホの耳を切ってしまったという説が新たに出てきました。
 さて、Hoichiは両側の耳です。阿弥陀寺の住職により全身に“Hannya Shin-kyo”を書き込まれました。それは平家の亡霊から逃れるためでした。私はこの書き込みをいれずみと捉えております。
 白川静によると文身には瘢痕いれずみ、針で刺すいれずみ(入墨)、そして一時的に文様を描き加える絵身の3つがあると指摘しています。それに従えばHoichiのそれはまさに絵身ではないでしょうか。白川の文身の定義は「何らかの儀礼的な目的をもって加えられる身体装飾」とし、「屍体を聖霊化するにはもとより絵身の方法がとられたであろうと述べています。古くから亡霊、怨霊などに対して陀羅尼などを唱えると同様に、身体にそれらを書き込むことはなされていたでしょう。いわゆる入墨にも信念や護符の目的で「南無阿弥陀仏」などを彫る者が少なくありませんでした。
 西成彦先生は、Hoichiのは「ただ文字を皮膚に書き込んだものではない。皮膚をなぞる筆が薄皮で蔽うようにしてむきだしの芳一の全身に衣をかけるように筆をあやつり、盲目の琵琶法師は、般若心経という闇を衣のように身に纏う」と述べておられます。それはまさに宗教的儀式であり、絵身いれずみに他ならないのではないでしょうか。
 上海の国際的芸術家Ziang Huanが2007年ニューヨークでの個展で、自身の顔・額そして坊主頭に「家系図」をびっしりと書き込むパフォーマンスをしましたが、やはり耳だけには書き込みがみられません。まさに現代のMimi-nashi-Hoichiです。彼がなぜ耳だけ残したか、やはり耳には特別の何かがあるのでしょうか。
 ピアスを飾り、めがねを支え、そしてインフルエンザ予防のマスクがかかる場としての耳、熱いものに触った時、思わず指を持ってゆく冷たい耳は、それほど複雑でもない構築をした身体のごく一部なのですが。
 本日は拙い卓話に耳を傾けてくださいましてありがとうございました。

参考文献
小野 友道:いれずみ物語, 大塚薬報, NO.634, 2008
西 成彦:盲者と文芸/ハーンからアルトーへ, 国文学, 49(11), 1994